八ヶ岳です。
おはようございます。ここは八ヶ岳です。昨日、新幹線で新大阪へ。その後は、ずっとバスで、駒ケ岳、八ヶ岳に来ました。駒ヶ岳では、標高2600メートルまでロープウェイで来ました。それは素晴らしい景色でした。
八ヶ岳のホテルは、コテージですが、全くWi-Fiが利かず、昨日のうちにアップすることはできませんでした。今、朝ごはんの後、直ぐに出発です。また、ゆっくりお知らせしますね。
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コメント
八ヶ岳!
いいな~
私、実は子供の頃からなぜか信州が大好きで、結婚するなら信濃国の人!と勝手に思っていました(もちろん?、現実は違いますが・・・。)。
そして、「いろいろあった」大学生活を閉めるに際し、一応「卒論」なるものを出さないといけない。でも5年間も在籍したけれど、「いろいろあって」文学部史学科考古学研究室にはほとんど行ったことがなかった。出たくはなかったが、家庭の事情でいつまでもいられない。辞めたかったが、母は辞めるな、卒業しろ!とうるさい。父が早く病死し、「期待の星?!」だった私には大学だけは出て欲しかったらしい。
ま、「いろいろあった」から、最後くらいは母の気持ちも汲まないと悪いと、思った。
そこで問題が、卒論!!授業にも出ない、研究室にも行かない、私に卒論なんか書けるはずがない。でも卒業しなければならない。ある時は9月卒業にしようかな、とも思ったが、それには学費の負担が掛かる(わずか月千円!それが払えない。)だから、俄勉強で卒論を!
そこで思いついたのが入学前からあこがれていた信濃の縄文時代について書くことに。
普通は縄文時代について書くのなら、その対象の遺跡や遺物に当たり、資料を精査して、データを基に書くもの(結構考古学って理系的)。しかし、そんな暇もないし能力もない。 そこで見つけたのが「藤森栄一がまとめた『井戸尻』という大部な報告書。当時流行の「縄文中期農耕論」を裏付けたといわれる調査報告書。
おー、これはいいや.こいつをまとめて縄文中期農耕論がいかに素晴らしいか書くことにしよう。そんな軽い気持ちで始めたのが閉めきりの二ヶ月前。
と、ところがこれがなかなかの難解な報告書。
そもそも信州の縄文時代中期の土器の特徴すら知らなかった私にこの資料が扱えるはずがない。窮鼠猫を噛む!という奴で、追い込まれると馬力の出るタイプの私は、土器の勉強はそこそこに、藤森が根拠とした稲作に不可欠な開墾具(打製石斧)に着目し、各家毎に所有されていた打製石斧の数を土器の年代毎に整理することにした。するとどうだ?藤森が指摘するほど各家々は打製石斧を所有していなかった。
エッツ??なんじゃこれ?
困ったな~どうする?捏造するわけにも行かないし、しゃーあない、どうせ山中の卒論なんて先生方も期待はしていないはず。
その結果、卒論の結論は「縄文時代中期農耕はなかった!」八ヶ岳山麓の縄文時代中期の社会は前代と同じく、狩猟、採集に頼らざるを得ない社会だった、と。藤森が言うような稲作に必要な開墾道具はさほど準備はされていなかった。
藤森の過ちは、土器型式毎の(世代毎の)石器の数を基に分析するのではなく、縄文時代中期という長~い(1000年以上)の期間の石器の数を集計して、「大量の道具」を所有して、田を開墾するに相応しい道具の数だった。だから、今から5000年ほど昔に、既に稲作が開始されていたのだとした。
、しかし、机上の計算ながら、細かく年代を分けて、各時期毎の石器の数を見ると、さほど開墾ができるような道具の数ではなかったのではないか、拙い私の結論だった。
だから、後に卒論の成績評価をみると、普通、卒論は、みんな「優」なのに、私は「良」だった。
そんな想い出の一杯詰まった信州、八ヶ岳!!
また、行ってみたいな!
投稿: yaasan | 2019年9月 7日 (土) 04時12分