「被爆者はどこにいても被爆者だ」の講演会②
「被爆者はどこにいても被爆者だ」の講演会では、郭貴勲先生のビデオによるお話と、40年以上に渡って韓国人被爆者の支援を行って来た「韓国の原爆被害者を支援する市民の会」の会長市場淳子さんのお話、それに在朝被爆者支援連絡会議の役員の金子哲夫さんのお話を聴きました。
郭さんのお話。
郭さんは、1924年生まれ。この歳に生まれた方たちは、20才に達したその年に徴兵令が施行され、自分の民族のためでなく、侵略していた日本の傭兵として召集され、多くの人達が亡くなっていると。郭さんの母校全州師範の同窓会名簿では、1番から10番だけをとってものそ内の8人が死亡しているとのことでした。
会の参加者には、郭さんの手記もいだたきました。この手記にも出てきますが、日本は、朝鮮半島の人たちの言葉と名前を奪ったという、これは、本当に許せないことです。小学校でも、一言でも母国後を使うと罰を与えられたと。そして、郭さんは、師範を卒業して、教師になるという事は、何も知らない子どもたちを皇国臣民に育て上げなければならないという、罪悪の一翼を担うことであるという事に気づき、身震いを感じたそうです。
1944年、朝鮮人徴兵令が施行され、満20才、師範学校5学年の時に召集されました。どこに行くかも聞かされず、着いた所が広島でした。つらい軍隊生活、そして、被爆。全身に火傷を負いながら、生き伸びて帰国、高校教師資格試験に合格し、教師・校長を務められます。
同時に、1959年に被爆体験記を発表、1962年から、韓日会談で原爆被害問題を提起するように韓国外務省に訴えることを始めとし、韓国原爆被害者援護協会設立に尽力されました。
1974年には、三菱重工業本社を訪問し、三菱徴用工未払賃金支払いなどで交渉。被爆者健康手帳を申請するも、拒否されます。
1979年8月に被爆者健康手帳を取得されました。
1998年5月、大阪阪南中央病院に入院治療。健康管理手当の支給を受けるも、出国すると打ち切られます。
1998年10月に、日本政府と大阪府知事を相手に被爆者資格確認訴訟を提起し、在外被爆者に対する差別撤廃を追求されました。
1999年11月には、第8回口頭弁論で、米国原爆被爆者協会名誉会長の倉本寛司産と、ブラジル原爆被害者会長の森田隆さんが在外被爆者差別の不当性を証言。
2001年6月大阪地方裁判所で一審勝訴。
2002年12月大阪高等裁判所で二審勝訴。
2003年、日本政府は在外被爆者に援護法を適用することにしました。
「被爆者はどこにいても被爆者」という、郭さんの訴えがやっとやっとこの時に認められたのです。被爆から58年、本当につい先日のことなのです。
その後も、ピースボートに乗るなどで、世界中で韓国人被爆などの事実を訴え続けられています。また、三菱徴用工の交渉、裁判などでも、粘り強く闘いを続けられました。
市場淳子さんは、韓国人被爆者の様々な支援活動にずっと取り組んで来られました。明日、市場さんのお話と金子さんのお話を報告しますね。
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コメント
河野先生のブログを読むといつも、学ぶことがまだまだあるなぁ。知らなかったことが、まだまだあるなぁ。といつも思います。声を上げ続けること、理不尽な権力に抗い続けることの大事さを思います。
投稿: 瀬尾 徹志 | 2019年4月27日 (土) 19時25分