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被爆証言と医学的解説シリーズ第一回の続きです。

寺前さんは、負傷した体を疎開先の五日市に横たえます。顔の傷で、左目は見えなくなっていました。向いに五日市観音小学校があり、そこでは毎日毎日亡くなった方を火葬する煙が昇っていたと。やがて病が癒えて、それまで誰に聞いても答えてくれなかった自分の怪我を、鏡を見て知ります。お化けのようになった顔にショックを受けます。

その内、学校で授業が再開。勉強が出きることに大きな喜びで通学しました。多くの学校の一年生たち、自分の妹も、入学しても勉強の一つもせず、戦争に動員され、そして原爆で焼かれて死んでいった。その妹のためにも頑張ろうと思ったと。

顔を焼かれた生徒は、自分の学校には数名しかいなかったと。みんな死んでしまったから。でも、他の多くの学校には、顔全部を焼かれた生徒が沢山いたと。自分の怪我は、その人達よりは、と慰めていたと。医師が本当にいなかったのですが、やっとドクターに出会い、そこで何回も手術を受けて、今の顔になったと言われました。

その寺前さんは、戦争のために動員され、死んで行った動員学徒の遺族の会を作ろうと奔走されます。何度も東京に行き、陳情したと、。そして、昭和32年、広島県動員学徒犠牲者の会を作り、その年の8月6日に第一回の「原爆追悼式」を開催されました。彼女は、初代の会長です。

さらに、寄付等を集め、今の原爆ドームの脇に、「動員学徒慰霊塔」を作られます。

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ほんとうに被爆者の方たちの粘り強い運動には、聞いていて頭が下がります。どんなにかご苦労だったことでしょう。

そして。鎌田先生のお話がまた、ものすごいものでした。

近距離被爆者の健康調査。寺前さんの血液の細胞の染色体異常率は38.2%にも。その染色体の写真も出され、(私も染色体の研究室にいたので分かりますが)息を飲みました。


そして、寺前さんは、爆心地から540メートルで被爆。その推定被曝線量は3.8シーベルト。


昭和20年 左眼外傷失明・顔面熱傷瘢痕、右側上腕・前腕熱傷瘢痕
昭和63年子宮体癌手術(57歳)
平成3年 左乳癌手術(66歳)
平成11年 脳腫瘍(髄膜腫・目のすぐ後ろ)(69歳)
平成14年 甲状腺癌(72歳)

このような病を克服して、今も生き抜き、私たちに貴重なお話をして下さいました。そして、とてもうれしいこと。30歳で結婚し、悩んだ挙句元気な男の子を出産したと。そして、その子が大きな支えとなってくれていると。これは、とても勇気づけられるお話でした。


私は、鎌田先生は、近距離被爆者の健康調査をしていらっしゃるのだから、きっと二世の染色体検査をしていらっしゃるだろうと思うのです。そのお話を聴きたかったなあと。でも、途中で帰らざるを得なくって、質問できませんでした。最後まで居た友人に聞くと、染色体ではありませんが、それと似たような質問が出たと。そして、二世に影響はないとは言えないと言われたと。

鎌田先生は、二世の白血病のり患率が高いという発表もなさっています。この4回のシリーズ、聞き続けたいのです。私は、診療との兼ね合いがとても難しいのですが・・・。

でも、今回聞けただけでも、とても有意義でした。証言をして下さった寺前妙子様、鎌田七男先生、そして、企画して下さった皆様に感謝いたします。

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