被爆証言と医学的解説シリーズ全4回、第一回
昨日の午後は、またまた行きたい会が二つ重なってしまって。われらが城さんと北仲さんの二人のコラボ。
午前中の診療を終えて、三時の午後の診療までどっちに参加するか、 迷いに迷って。結局、被爆証言の会に参加しました。お昼も食べず、自転車をすっ飛ばして間に合いました。平和記念資料館地下の メモリアルホールはいっぱいの人。会は、写真撮影禁止。残念。会が始まる前に一枚撮らせていただきました。
爆心地から540メートルで被爆した少女。寺前妙子さんのお話と、医学的解説を鎌田先生が話すという、とっても画期的な講演会です。
鎌田先生は、爆心地から500メートル以内の被爆生存者78人の健康調査に取り組まれました。寺前さんは、当時進徳女子学園の三年生。学徒動員で袋町の電話局で働いていました。被爆で建物の下敷きになり、何とか這い出して、二階から飛びおります。顔の怪我で左目を失いました。燃え盛る火に追われるように逃げ、先生の助けを得て川を泳いで渡り、比治山に逃げます。そこで、重傷者という事で、兵隊さんに金輪島に連れていかれたと。一週間、人が段々少なくなった所にお父様が迎えに来て下さったと。その時に、県立第一高女の一年生の妹は、全身を焼かれ、己斐小学校まで何とか逃げついて、そこで亡くなったことを知りました。
その寺前さんの医学的検証を鎌田先生がなされたのです。これも、まるで偶然のようなきっかけでした。ある近距離被爆者の方と話をしていて、学徒動員で電話局で働いていたと。そこは爆心地から約500メートル。先生は進徳学園を訪れます。ひと月後、名簿があったと連絡がありました。死亡した生徒の名簿。重症者の名簿。その中に寺前さんの名前がありました。
電話局からも名簿を出してもらって、それを照らし合わせます。亡くなったのは60人。その人たちの亡くなった日にちも一人一人確かめ、その一欄もスライドで出されました。そこで、30人の生徒が生き残っていることが分かりました。その30人の内、28人の居場所を突き止め、彼女たちの健康調査をされました。寺前さんもその一人です。
このような、地道な研究が今も続けられているのですね。それは、感動でもありました。被爆者の染色体の分析も。
まだ沢山お話したいことがあります。
明日に続きますね。
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