年の瀬に怒っていること・市川市賛歌②
この市川市賛歌「透明の芯の芯」を作詞した宗左近氏は、東大哲学を卒業し、法政大学や昭和女子大の教師を務め、現代詩の偉い人らしい。市川市には、この人の記念碑まで建てられていると。しかし、えらい人の歌詞だから立派だとは言えません。
そもそも、この市川市賛歌をはじめて読んだ時には、浅はかな私には、何が言いたいのかさっぱり分かりませんでした。
でも、いろいろと探っている内に、これは、市川市に伝えられる伝説をモチーフとして作られたと分かりました。その伝説です。これも市川市のホームページからです。
何のことはない、美しい少女が多くの男に言い寄られ、一人を選ぶことができず、悩んだ挙句、結局海に身を投げて自殺してしまうというお話です。いえ、伝説では、少女ではありません。「娘」と表現されています。そうですね、沢山の男たちに求婚されているのですから、成熟した「娘」なのでしょう。
その美しい「娘」のことを歌にするのに、なぜ少女の乳首なのでしょう。なぜ「とがり始めた乳首の富士」なのでしょう。美しい女性を表現するなら、もっといろいろとあるでしょうに。
三井さんのフェイスブックには、
「乳首の表現に過干渉で反応される方もあるようですが、詩の内容に高貴な一面を感じました。少女は美しい命としての象徴、若者は希望の象徴と思えば、納得できるきがしました」
と書いた男性もあります。命だの、希望だのの象徴と言ったって、この女性は、身投げをしているのですよ。この少女の身投げを歌詞では、「身を投げる少女の足裏」だと。そして、亡くなってしまって、男たちは後悔したと。伝説では、命はなくなり、希望は後悔となるのです。
さらに、この男性は、ご自分のフェイスブックに、マティスの裸婦像をのせ、そして、こう言っています。
などと言っています。何たる勘違い、思考の浅さ。豊満な女性の裸と、乳房が発達し始めた少女の裸と、全く同列に並べています。世の中に、女性の裸を描いた名作は沢山あります。いえ、男性だって。隆々とした裸の男性の彫刻を私でも美しいと思います。デッサンの練習に、裸を描くのも、絵を学ぶ人の大切なプロセスです。
でも、どこに体が発達し始めた少女の裸の名作がありますか?どの絵も、西洋だって、日本だって、少女たちは服を着ています。少女の体は、守られるべき存在としてあるのです。そこに私たちは、声を上げているのです。
でも、この方には、そして、多くの男性たちがそうなのでしょうが、「おっぱいは、揉むもの。撮影するものではありません。」などというコメントがあって、まさにエロとして女性の乳房を見ているやり取りがあります。
もう少し、少女のバストの発育について、守られるべき存在として、続けたいと思います。
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