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小野瑛子さんと西村利信さんの原爆体験記

昨日のブログの続きです。岡崎弥保さんから小野瑛子さんと西村利信さんの手記が送られてきました。

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炎のメモワールは、同名の小野瑛子さんの著書に収載されている、お母様山本信子さんが原爆投下2年後に英文で書かれ、アメリカの「TIME」に送り、それがGHQの検閲に引っかかり、没収されて厳しく叱られたというものです。  1978年にお母様が亡くなった後、遺品を整理してそいた瑛子さんが、その手記を発見し、英文を和訳して小冊子にまとめられました。小野瑛子さんのご好意で、この手記は、昨年の8.6ヒロシマ平和の夕べでも、参加者の皆様にお配りいたしました。

その手記の朗読のことを知った西村さんの息子さんの妻から、義父が書いた手記がありますと連絡が入ったのだそうです。西村さんは、小野瑛子さんのお父様、広島二中の教師をしていた山本信夫先生の教え子でもあります。当時、広島二中の二年生であった西村さんは、「いしぶみ」に記録されているように、一年生の弟さん正照さんを原爆で亡くしています。


西村さんがその手記を書かれたのは、1949年。まだGHQの検閲が厳しい時。でも、発表されたのがその後転校された千葉の高校の文芸誌であったために、奇跡的に残ったものでありました。


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その手記があることを聞いて、小野瑛子さんと岡崎弥保さんが西村さんを訪ねて行き、それを見せて頂き、この貴重な手記を世に出して多くの人に読んで戴きたいとお願いされました。

この手記の「はじめに」に小野さんが書かれています。


「B5版の機関紙はガリ版印刷で、ふれればバラバラになるほど劣化し、茶色に変色していましたが、被爆当日のことや、その後の十日余りのことが、十六ページにわたって克明に書かれています。ことに正照さんを探して歩いた当日の爆心地の惨状は目を覆うばかり。私も多くの被爆手記を読んで来ましたが、ここまで詳細に書かれたものは少ないのではないかと思います。」

そして、「はじめに」の最後に書かれています。

「西村さんは八十六歳、私は七十九歳。
被爆者が高齢になり、原爆の悲惨さを語り継ぐ者が減少の一途をたどっている今、西村利信さんの手記をこうして世にだすことができることを心から嬉しく思っています。
        二〇一八年五月  小野瑛子  」

その小野瑛子さんがこの10月30日に、そして西村利信さんが翌31日にお亡くなりになったのです。これらの手記を残して下さって本当にありがとうございました。


西村さんの手記の発行人は小野瑛子さんと岡崎弥保さんです。私の手元には岡崎さんから送って頂いた小野瑛子さんと西村利信さんの手記があります。ご希望の方はどうぞ声をかけて下さいませ。

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