クラス会・林先生の俳句
高校のクラス会、担任だった林昭先生は、数学の先生でした。私たちの高校の教諭の後、愛媛大学の教育学部の教授を務められました。今は二つの句会に所属し、もう一つ、ご自分の句会をも主催していらっしゃるそうです。私たちには、15の句を配って下さいました。
言葉がとても豊富で、やさしい句で、お人柄が滲み出ていると思いました。数学と俳句についての文も添付されていました。それは、写真でなく、キーボードを打って転記させていただきます。
『 昨今の俳句への思い 林昭
数学では言葉「命題」がよく使われるが、命題は、真偽がはっきりしている文のことである。一般にいう平叙文ではないかと思う。平叙文に対し、疑問文、命令文、感動文があると辞書に書いてある。すると、俳句は何文だろう。
俳句は詩(一切の事物について起こった感興や想像などを一種のリズムをもつ形式によって叙述したもの)であるから感動文だと言える。
ところで、私は最近、呆け防止に、毎日出される新聞のクイズ、数独を楽しんでいるが、自分独りで正解かどうか判断できる平叙文だと思う。
これに対し、俳句について、未だに、自分の句の出来・不出来が判断できない。数独との違いは、俳句は感動文だからだと思う。今回、掲載の十五句のすべては、俳句の先生方から選を頂いた句ばかりである。
感動文・俳句で、その感動を伝えることについて、藤田湘子さんの一文を思い出した。それは、
鎌倉右大臣実朝の忌なりけり・・・尾崎迷堂
について秋桜子氏の文章の紹介の中にある、
「作者の主観は常にくの調べに乗って流れ出て、読者に伝えられるものである。調べの高い句は、主観の高さを示し。低い句は主観の低さを示す。」
である。
右に述べた、自句の出来・不出来が判断できないことは、結局、自分の主観、従って、調べの高低が判断できないことに関わっていると思っている。
平成三十一年、私は卒寿を迎えるが、沢木欣一さんの言「美的感動は訓練によって進歩する物である」をよすがに俳句を続けようと思っている。』
全く無駄な言葉の一つもない、論理的な数学的で、かつ、俳句的な感動と両方を兼ね添えた格調高い文章だと感動したので、転記させていただきました。
また、こんな素敵な一筆箋を配って下さいました。かわいくて好き。私もよく一筆箋を使いますので、どこかに出かけると買ってきます。でも、季節ごとの花が一つずつ描かれているこんなかわいい素敵な一筆箋、これは大切にしなければと思いました。
出て来て下さった先生、きめかまかな準備をして下さった幹事の皆さん、遠方から来て下さった友人たち、本当に楽しいひと時をありがとうございました。
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コメント
>自句の出来・不出来が判断できない
大ベテランの、上の言葉に救われた(勇気づけられた)
気持ちです。ありがとうございました。
投稿: ⑦パパ | 2018年10月16日 (火) 09時43分