2018年8月6日②
8月6日のご報告を続けます。
「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」で広く市民に配布される冊子に、今年は内閣総理大臣のあいさつが印刷されていません。これまではあったのですが。
いつもいつも同じ挨拶で、「昨年のコピペだ」と騒がれて、それは、本当に同じで日付を入れ替えただけ、また、長崎では広島と同じ、地名や日付を変えただけ。今年も昨年と比べてみようと思ったら、印刷されていませんでした。なんの内容もない、空虚な言葉の羅列、読んでいて、恥ずかしくないのかと思います。
でも毎年の平和祈念式での子どもたちの「平和への誓い」これは胸を打ちます。今年は特に被爆直後の様子が語られて、さらにこれからの自分たちの決意も語られて、ふと涙ぐみそうになりました。ここに、配布されたパンフレットからその全文を転載しますね。
平和への誓い
人間は美しいものを作ることができます。
人々を助け、笑顔にすることができます。
しかし、恐ろしいものをつくってしまうのも人間です。
昭和20年(1945年) 8月6日 午前8時15分。
原子爆弾の投下によって、街は焼け、たくさんの命が奪われました。
「助けて」と、泣き叫びながら倒れている子ども。
「うちの息子はどこ。」と、探し続けるお父さんお母さん。
「骨をもいでください。」と頼む人は、皮膚が垂れ下がり、腕の肉がない姿でした。
広島は赤と黒だけの世界になったのです。
73年が経ち、私たちに残されたのは、
血がべっとりついた少女のワンピース、焼けた壁に記された伝言。
そして今もなお、遺骨の無いお墓の前で静かに手を合わせる人。
広島に残る遺品に思いを寄せ、今でも苦しみ続ける人々の話に耳を傾け、
今、私たちは、強く平和を願います。
平和とは、自然に笑顔になれること。
平和とは、人も自分も幸せであること。
平和とは、夢や希望をもてる未来があること。
苦しみや憎しみを乗り越え、平和な未来をつくろうと懸命に生きてきた広島の人々。
その平和への思いをつないでいく私たち。
平和をつくることは、難しいことではありません。
私たちは無力ではないのです。
平和への思いを折り鶴に込めて、世界の人々にへ届けます。
73年前の事実を、被爆者の思いを、
私たちが学んで心に感じたことを、伝える伝承者になります。
平成30年(2018年)8月6日
子ども代表
広島市立牛田小学校6年 新開 美織
原子爆弾の投下によって、街は焼け、たくさんの命が奪われました。
「助けて」と、泣き叫びながら倒れている子ども。
「うちの息子はどこ。」と、探し続けるお父さんお母さん。
「骨をもいでください。」と頼む人は、皮膚が垂れ下がり、腕の肉がない姿でした。
広島は赤と黒だけの世界になったのです。
73年が経ち、私たちに残されたのは、
血がべっとりついた少女のワンピース、焼けた壁に記された伝言。
そして今もなお、遺骨の無いお墓の前で静かに手を合わせる人。
広島に残る遺品に思いを寄せ、今でも苦しみ続ける人々の話に耳を傾け、
今、私たちは、強く平和を願います。
平和とは、自然に笑顔になれること。
平和とは、人も自分も幸せであること。
平和とは、夢や希望をもてる未来があること。
苦しみや憎しみを乗り越え、平和な未来をつくろうと懸命に生きてきた広島の人々。
その平和への思いをつないでいく私たち。
平和をつくることは、難しいことではありません。
私たちは無力ではないのです。
平和への思いを折り鶴に込めて、世界の人々にへ届けます。
73年前の事実を、被爆者の思いを、
私たちが学んで心に感じたことを、伝える伝承者になります。
平成30年(2018年)8月6日
子ども代表
広島市立牛田小学校6年 新開 美織
広島市立五日市小学校6年 米廣 優陽
私たちの「8.6ヒロシマ平和の夕べ」での李鐘根さんの証言。李さんの話を聴き、毎年基町高校の生徒が絵を描いています。「今年は、閃光を描いてもらったんです。なかなかあの色が出なくてね。泣き泣き描いたでしょう。」と言われました。それらの絵をスライドで出しながら、証言して下さいました。
李さん自身も顔や首等全身に強い火傷を負いながら、「助けて下さい」とすがりつくような、あの目。その目を向けられながら、助けてあげられなかったと語られました。基町高校の生徒さんが、すさまじい「その眼」を描いていました。
私は、二中の慰霊祭でも、現生徒会長の追悼の辞を動画で撮りました。これも、素晴らしい言葉でした。これもいつか文字に起こして、ここで皆様にお知らせしたいと思います。
数少なくなった、被爆者の体験を聴き、私たちがどうするのかを考える、そんな子どもたち、若い人、のこれからを見たいと思います。
・ ・ ・
私は、今日これから東京に向かいます。往復飛行機の予約をしていましたが、台風で飛ばないかもしれないとANAから報せがありました。急きょ、新幹線で行きますが、帰れるのでしょうか。明日はどうしても昼には帰っていないといけません。東京での用事は、厚労省の特別養子縁組についての会議、そして、明日帰ってするのは、特別養子縁組の手続きの一部です。医療の現場では、変わらずの事態が続いています。
私たちの「8.6ヒロシマ平和の夕べ」での李鐘根さんの証言。李さんの話を聴き、毎年基町高校の生徒が絵を描いています。「今年は、閃光を描いてもらったんです。なかなかあの色が出なくてね。泣き泣き描いたでしょう。」と言われました。それらの絵をスライドで出しながら、証言して下さいました。
李さん自身も顔や首等全身に強い火傷を負いながら、「助けて下さい」とすがりつくような、あの目。その目を向けられながら、助けてあげられなかったと語られました。基町高校の生徒さんが、すさまじい「その眼」を描いていました。
私は、二中の慰霊祭でも、現生徒会長の追悼の辞を動画で撮りました。これも、素晴らしい言葉でした。これもいつか文字に起こして、ここで皆様にお知らせしたいと思います。
数少なくなった、被爆者の体験を聴き、私たちがどうするのかを考える、そんな子どもたち、若い人、のこれからを見たいと思います。
・ ・ ・
私は、今日これから東京に向かいます。往復飛行機の予約をしていましたが、台風で飛ばないかもしれないとANAから報せがありました。急きょ、新幹線で行きますが、帰れるのでしょうか。明日はどうしても昼には帰っていないといけません。東京での用事は、厚労省の特別養子縁組についての会議、そして、明日帰ってするのは、特別養子縁組の手続きの一部です。医療の現場では、変わらずの事態が続いています。
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コメント
被爆73年:昨晩、帰省していた孫が突然スマホを見ながら「じいじ、翁長さん死んだよ・・。」「え?!・・。」。八月六日「ヒロシマの夕べ」初めての参加でした。話は長くなりますので簡単に。御主人との会話、とても楽しかったです。まさかこのような展開になろううとは。常備食のサツマイモ、美味しかったかな。(笑)会場の最後は異様な雰囲気でしたね、「インター」でも歌って隊列組んで街頭へ・・。チョット興奮しました。この思い、翁長さん亡き後、現地に届けなければ・・。駈けずり廻っていた先生、お疲れ様でした。
ご主人様に宜しく。
投稿: 小倉っ子 | 2018年8月 9日 (木) 07時09分
小倉っ子様。
おいで頂いてありがとうございました。夫から、君のブログを見て来たと言う九州の方と話をしたと聞いて、すぐにあっ、小倉っ子さんだ!と言いました。お会いしてお話したかったです。改めて、来て頂いてありがとうございました。長い間やっていると、さあ、この度の会は、どうだったのだろう、どう受け止められたのだろうと心配になります。このような小倉っ子さんのコメントはとてもとても励みになります。いつか、お会いできますことを!
投稿: 河野美代子 | 2018年8月 9日 (木) 11時27分