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切明千枝子さんの被爆証言④

切明千枝子さんの被爆証言の会で配られた平田節子さんの手記です。爆心地の雑魚場町に学徒動員されていた県立広島第二高等女学校2年1組41人のうち、たった一人生き抜いた平田さんは、1968年、国泰寺中学校に奉職中、38歳で胃がんのために亡くなっています。

『    回想記  平田節子(県立第二高等女学校4期生・2年西組)

ピカッと光ったと思ったが、その後の記憶はない。おそらく、爆風に吹き飛ばされて意識を失っていたのでしょう。しばらくして起き上がってみますと、私の周囲には誰一人みえず、急に一人ぼっちの世界に置かれたような気持ちで突っ立っていました。

「 これはやられた。」と気付くや、両掌を耳に当てて、地に伏せました。10分ばかりそうしていたでしょう。再び立ち上がってみますと、暗闇の中に真っ赤な火の手が上がっていました。炎は見るまに広がり、あたり一面火の海になったようでした。

この明るさに、チラホラ人影が見え始めていたので、近寄ってゆきましたが、その異様な姿には全く驚きました。垂れ下がった皮膚、水ぶくれした顔、はれあがった唇、何物かの化身としか思えませんでした。慣れぬ地理に、この天変地異、全く方角の分からぬまま、たださまようだけでしたが、そのうち先生が見つかりました。既に数人の生徒が、両脇にしがみついていましたが、先生もまた同じ被害を受けながら、両手を広げ、ひなどりを抱きかかえるようにして立っておられました。私は自分の名前を告げて、先生にうなづいて頂いたものの、私にはすでに先生は生きている人のようには思えませんでした。ただ、生徒のために責任感と精神力で突っ立っていらっしゃったのではないかと思います。

うろたえている私は、いつの間にか、先生にもはぐれていました。面相のほとんど変わっていない私が、友人の目にとまったらしく、私を呼びながら走ってきました。そして自分には見えぬ、変わり果てた我が顔を気にしながら漏らした、必勝を誓う言葉に、私は胸をつかれ、「今や友と一緒に地獄の道を切り開かん」、そんな気持ちが沸きあがってくるのを覚えました。

三・四人が手に手をとって、一列横隊になり必死になって、逃げ路を探しました。全身油ぎり、素足の痛さを呪いながら走り回るうちに、北小路さんと二人だけになっていました。炎の熱気はますます激しく、ついには服に火がつき、二人は貯水槽に飛び込むほどでした。

こうして、人の流れに混ざって右往左往するうち、ふと皆とは反対の方向に逃げる気になり、北小路さんの手を引っ張りながら走りましたが、幸いにも、やがて小さい橋に出ました。二人は目をくっつけるようにして橋の名を読み、今朝通ってきた橋であることを確認して、比治山橋目指して駆け戻りました。

比治山橋を渡り切ると、友人はもはや一歩も歩けないほど疲労していて、私に背負ってくれと頼むのです。私は、途中何度も休みながら、出汐町まで背負って帰りました。

比治山南端のハゲ山の麓に、臨時の救護所があるということを、兵隊さんから聞き、友人を連れて行くことにしました。その途中、また飛行機の来襲を受け、私たちはあわてて笹の茂みに逃げ込みました。そして二人は、暫くそのままで転がっていましたが、救護所の人が、私たちを防空壕に収容して下さいました。

後日、私の作業班で生き残ったのは私一人であることを知り、どうしようもない孤独感に襲われたことを今も忘れません。

出典:「原爆被災証言記-忘れられた学徒たち」
(県立広島女子大・県立広島第二高等学校同窓有志編  2007年発行)』

これで、切明千枝子さんの被爆証言に関連しての記事を終わります。切明千枝子様、関係者の皆様にこころからお礼申し上げます。

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