切明千枝子さんの被爆証言②
切明千枝子さんの被爆証言を聞きに行って、切明さんが話されたことの一部です。
広島は大きな墓場なのです。平和公園には沢山の白骨が埋められています。平和公園を歩く時、沢山の白骨の上を踏んで歩いているのです。「ごめんなさい、ごめんなさい」と言いながら、そこを歩くのだと。
その日に配られた切明さんの手記の一部を紹介させて頂きます。
「原爆被災証言記―忘れられた学徒たち」(県立広島女子大・県立広島第二高等女学校同窓有志編に収載されている「現・県立広島大学宇品キャンパスで起きた悲劇-1945年8月」 切明千枝子(第二県女2期)・(女専21期生)
『現在の県立広島大学の建物の新築工事が始まって間もないころのこと。当時、女子大の同窓会会長だった小池美枝子先生との雑談の中で、先生が「前の校舎(戦前からの木造の校舎でなく、昭和三十年代に建築された鉄筋コンクリートの校舎)の時に、キャンパスの東南にあった棟におられた美術の池田亨先生が、「夕方、学生のいなくなった校舎に一人でいると、何か言い知れぬ不思議な空気、どう表現してよいか分からないが、ぞっとするような霊気が、霧のようにたちこめるのを感じることがある。あの校舎には、過去に何かあったのではないか」とおっしゃっていたのよ。」と話された。
それを聞いた時、私には長い間心の中に封印をして閉じ込めていた一つの記憶が混ざさま゛と蘇った。
それは、一九四五年(昭和20)八月六日のあの日から始まる数か月のできごとである。
(沢山の生徒たちや教師たちのあまりにひどい被災の状況、の記述がありますがごめんなさい、略します)
広島は大きな墓場なのです。平和公園には沢山の白骨が埋められています。平和公園を歩く時、沢山の白骨の上を踏んで歩いているのです。「ごめんなさい、ごめんなさい」と言いながら、そこを歩くのだと。
その日に配られた切明さんの手記の一部を紹介させて頂きます。
「原爆被災証言記―忘れられた学徒たち」(県立広島女子大・県立広島第二高等女学校同窓有志編に収載されている「現・県立広島大学宇品キャンパスで起きた悲劇-1945年8月」 切明千枝子(第二県女2期)・(女専21期生)
『現在の県立広島大学の建物の新築工事が始まって間もないころのこと。当時、女子大の同窓会会長だった小池美枝子先生との雑談の中で、先生が「前の校舎(戦前からの木造の校舎でなく、昭和三十年代に建築された鉄筋コンクリートの校舎)の時に、キャンパスの東南にあった棟におられた美術の池田亨先生が、「夕方、学生のいなくなった校舎に一人でいると、何か言い知れぬ不思議な空気、どう表現してよいか分からないが、ぞっとするような霊気が、霧のようにたちこめるのを感じることがある。あの校舎には、過去に何かあったのではないか」とおっしゃっていたのよ。」と話された。
それを聞いた時、私には長い間心の中に封印をして閉じ込めていた一つの記憶が混ざさま゛と蘇った。
それは、一九四五年(昭和20)八月六日のあの日から始まる数か月のできごとである。
(沢山の生徒たちや教師たちのあまりにひどい被災の状況、の記述がありますがごめんなさい、略します)
—-その波多野先生をはじめとし、亡くなった第二県女の下級生、専売局の工場で唯一の死者となった第二県女専攻科生の野村昭子さん、そして津山校長先生の一人娘文子さん(女専7期国文卒)も学校で荼毘に付したのである。(証言の中で、遺体がなかなか燃えなかったことも話されました)
学校関係者の遺骨は拾って藁半紙の上に乗せ(蓮の葉で包んだものもあった)、死亡日と名前を記して、校長室の大きな応接机の上に並べられてゆく。遺族が引き取りに来られるまで丁重に安置したものである。
ところが、名前も分からない一般市民の方の遺骨は拾われることもなく、そのまま埋められたり、野晒しにされていた。
被爆から三か月経て、学校が再開されてもその骨は野晒しのままだった。ある日、福崎先生の指示で、私を含めた数人の級友でその野晒しの遺骨に、心の中で念佛をとなえながらシャベルで土をかけ、その場に埋めてしまった。骨太で恐らく男性の大人と思われる骨、少し細めで女性かなと推察できる骨、そして幼い子どもの骨だった。
「わしゃあのー、毎年八月六日にゃあ女専の校庭に行って手を合わすんよ。あん時、隠亡(原文のママ)もしたし、その骨をそこいら辺へ埋めもしたんじゃけん」と語っていた福崎先生も、肝臓癌で既に亡く、今となってをは詳しい話を聞くすべもない。
それらのことを思い出した私は、小池先生にその話をして、「もしかしたら、池田先生のおられた校舎のあたりが、遺体を荼毘に付したり、遺骨を埋めたりしたあたりかも知れません」と言ったのである。
小池先生は大変ショックを受けられ、「そういうことがあったのね・・・」と絶句された。』
この項、続きます。
ところが、名前も分からない一般市民の方の遺骨は拾われることもなく、そのまま埋められたり、野晒しにされていた。
被爆から三か月経て、学校が再開されてもその骨は野晒しのままだった。ある日、福崎先生の指示で、私を含めた数人の級友でその野晒しの遺骨に、心の中で念佛をとなえながらシャベルで土をかけ、その場に埋めてしまった。骨太で恐らく男性の大人と思われる骨、少し細めで女性かなと推察できる骨、そして幼い子どもの骨だった。
「わしゃあのー、毎年八月六日にゃあ女専の校庭に行って手を合わすんよ。あん時、隠亡(原文のママ)もしたし、その骨をそこいら辺へ埋めもしたんじゃけん」と語っていた福崎先生も、肝臓癌で既に亡く、今となってをは詳しい話を聞くすべもない。
それらのことを思い出した私は、小池先生にその話をして、「もしかしたら、池田先生のおられた校舎のあたりが、遺体を荼毘に付したり、遺骨を埋めたりしたあたりかも知れません」と言ったのである。
小池先生は大変ショックを受けられ、「そういうことがあったのね・・・」と絶句された。』
この項、続きます。
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