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産婦人科の現場から、年末年始を通して④

新しい年二日目。まだ一歩も外に出ていません。クリニックに行こうかと思ったけれど、家にいてもできることをわざわざ行かなくともと、思い直しました。家の中で、テレビを見ながらレセプトもしたし、原稿も書き上げたし。テレビ、日ごろあまり見なくて、こんなに昼に点けているのはめずらしくて。今日は、箱根駅伝、台湾路線バス旅行、そして大間のマグロ釣りなどをチャンネルをあちこちしながら見ています。どれも面白いですねえ。

どこにも出かけず、することもないのを聞いた友人が、家にお出でと誘ってくれました。今日の夜、夫と出かけてごちそうになろうと思います。
さて、産婦人科の現場での続きを書きます。暮に待合室の図書の整理をしていて、古い雑誌を見つけました。1987年と1989年の「月刊子ども」です。クレヨンハウス発行、発行人は落合恵子さんです。


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もうすっかり忘れていました。30年前の二冊です。このうちの1987年6月号のトップには、修道大学の故鹿子木幹雄先生の『なぜ「妊娠→退学」だったのだろう』という文章が出ています。

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30年前、妊娠した高校二年生が産むという結論を出したとき、学校が退学にしたことが、新聞に掲載されました。それも、退学という事より、そこに至ったこと、当時の広島市の保健所に彼女と母親が一緒に母子手帳を取りに来た時、保健師が「あなたの学校の生徒が妊娠してるよ」と学校に通報、そのために学校の知る所となり、自主退学に追い込まれたと、保健所の対応、公務員の守秘義務違反に焦点を当てた記事と言っていいかもしれません。

彼女は、二年の終わりまで単位を取って、通信高校に転向し、高卒の資格を取る予定でした。しかし、学校の対応で、二年が終わる前に退学となってしまったものです。

この新聞記事により、マスコミの注目する所になり、テレビ局や雑誌の取材が殺到しました。学校が彼女の名前や住所も話し、雑誌社が家に張り込んで写真を撮ろうとするなど、本当に大変でした。

鹿子木先生は、当時「国民総背番号制に反対しプライバシーを守る広島県民会議」の代表でした。この出来事を、広島県法務局人権擁護部に照会と要請の申し入れをした文章も掲載されています。

当時、私は彼女の主治医でした。彼女の今後を守るのに精いっぱいでした。広島市の教育委員会も動き、結局彼女は高校二年までは終了したとことになり、三年から通信にかわって、高校は無事卒業しました。途中に出産しましたが、学業も頑張りました。彼女が無事卒業した時、お母様が私にオルゴールをプレゼントしてくださいました。今も大切にもっています。彼は、十分に収入のある社会人でしたから、子育ても心配なく、実は、その後彼女は5人の子持ちになっています。

そんな出来事をしっかり思い出しました。いろいろと大変でしたが、市の教育委員会とは、以来、全く×の関係となりました。

それにしても、三十年前の出来事です。今も、高校生の妊娠は全く同じ扱いです。この前には、カップルの両方が退学処分になりました。黙って中絶すれば高校は続けられる、でも産もうとしたら、退学しなければならない、それは三十年前と同じです。だから、私は高校生が産みたいと言った時、高校には不用意に言わないようにして、何とか、学業が続けられないかと一緒に考えます。高卒の資格は取っていた方がいい。将来働かなければならない時、中卒だと職業の選択が限られるから。そう説得します。もう一冊に書かれていること、明日お話しますね。

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