小野英子さんからのプレゼントです。
広島では、原水禁世界大会をはじめとして、すでに様々な会が始まっています。
「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」では、広島市の小・中学校の児童・生徒、教師などの教育関係者の方たちによる慰霊祭が開かれました。今朝、出勤途中に、この会に参加していた性教育仲間の城さんにお会いし、写真をお借りしたい旨、お願いしました。
城英介さんの写真です。この教師と子どもの碑には、正田篠枝さんの
「太き骨は先生ならむ
そのそばに
小さきあたまの骨
あつまれり」
という歌が刻まれています。
そして。私たちの8.6ヒロシマ平和の夕べでお話し頂く小野英子さんから、すばらしいプレゼントが届きました。小野さんの著書「炎のメモワール」を読みたいと思って、いろいろと探したのですが、見つかりませんでした。amazonでは、中古の二冊、14500円のと、99980円のが出品されていて、この中の14500円のを買おうとしたのですが、うまくいかなくてあきらめておりました。その炎のメモワールをコピーしたものを参加者にプレゼントしてくださるのだそうです。
『(小冊子から 〜はじめに)
これは、私の母・山本信子が、原爆投下2年後に英文で書き残した手記を日本語に翻訳したものです。
信子は1906年(明治39年)、日系移民二世として、アメリカ合衆国ハワイ州ホノルル市パフワヒ街に生まれました。アメリカ国籍を持ち、現地の学校に通って英語で教育を受けましたが、13歳のときに日本に帰って広島に住み、英語教師となるべく勉学に励みました。そして、同じように英語教師を目指していた山本信雄にめぐりあい、結婚。信雄は旧制県立広島第二中学校(広島二中)の、信子は旧制広島市立高等女学校(市女)の英語教師として働き、私の姉・洋子と私・英子の親となりました。
1945年8月6日、広島に一発の原子爆弾が投下され、爆心地近くで二中の1年生321人と共に建物疎開の作業に従事していた信雄は、全身に火傷を負って、その日のうちに死亡。洋子は観音国民学校の校庭で被爆し、2日後の8月8日朝、郊外の救護所で死亡しました。
原爆投下2年後という、まだ心が血を噴いているような状態の中で、なぜ信子はこの手記を書いたのか。それは、世界の人々に原爆の悲惨さを知ってもらいたいという願いからでした。手記はアメリカの『TIME』誌宛てに送付されましたが、GHQの検閲にかかって没収され、願いはかないませんでした。
信子は70歳のときに甲状腺がんで亡くなりました。遺品の中に手記を発見し、その願いをかなえたいと思って、英語、日本語、エスペラント語の小冊子にまとめました。小冊子は1982年の国連軍縮特別総会などで配布され、信子の願いの一部をかなえることができました。
原爆投下72年が経過した今、もう一度、信子の想いを伝えたいと、日本語のみをまとめました。どうぞお読みくださいますようお願いいたします。』
小野英子様、本当にありがとうございます。心して読ませていただきます。
広島はものすごく熱いです。どうぞ、お気をつけておいでくださいませ。楽しみにお待ちしております。
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