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「8.6ヒロシマ平和の夕べ」これまでの経過⑦2016年の会

2016年、昨年の「8.6ヒロシマ平和の夕べ」での平和講演は児童文学の那須正幹さんでした。「ずっこけ三人組」などの那須さんは、三歳の時にヒロシマで被爆していらっしゃいます。そして、「広島の原爆」という大変な絵本も西村繁男さんと共に出版していらっしゃいます。


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那須さんは、小学校のクラスには被爆者も多く、親のいない子もいたし、中学の時には同じクラスの女子が原爆の影響で白血病で亡くなったこと(佐々木貞子さんは、ヒロシマに沢山いたということ)など、ご自分の体験を元に、著書を手にしながらお話して下さいました。

会の始まりには、スタッフの一員である久保田さんが開会あいさつで自分の両親が原爆で亡くなった様子、戦後親がいない生活が本当に大変であったことなどを語りました。

来賓のあいさつは、横浜から松本正さん。広島二中の一年生だった弟など身内10人を原爆で亡くしたこと、この日、念願の10人の名前を書いた灯篭を作ってきて会の後流すことなどを語ってくださいました。灯篭流しでその灯篭を流された後の写真です。私が合流して撮りました。


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今もお元気で子どもたちに体験を話していることなどをフェイスブックで報告してくださっています。私たちのところでは、とても短い時間しかなくって申し訳ないことでした。いつかリベンジをしたいと思っています。

被爆体験は、池田精子さん。一度、ご自分の被爆の話をしていただいたことがあります。今回は、被爆直後の被爆者運動の話をしていただきたいとお願いしました。女学生だった池田さんは、お顔のケロイドで13回もの手術を繰り返すなど、大変な戦後を生きられました。早くから、吉川清さんなど被爆者の集まりに参加し、それがやがてヒバクシャ運動となっていきます。

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夜行列車で東京に行き、東京駅で顔を洗い、首相官邸や国会に行き、陳情したり、座り込みをしたり。そのような粘り強い運動で困窮していたヒバクシャへの支援を訴え続けたこと。それは、貴重なお話をしていただきました。今、この時の話ができるのは、池田さんしかいらっしゃいません。陳情に行ったときの鳩山邸での写真です。


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今、池田さんは入院していらっしゃいます。どうぞ、また健康を回復して語りべをして下さいますように祈ります。

もう少し続きます。

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