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「8.6ヒロシマ平和の夕べ」⑥小野英子さんのお話・続き

 小野英子さんのお母様の信子さんが英文で書かれ、英子さんが翻訳、編集された「炎のメモワール」については、ここに書いています。

http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-ded6.html

小野さんから頂いたコピーをさらにコピーして、参加者全員に配りました。

体験の語りではサラリと話されましたが、「炎のメモワール」を読んで、もう、涙を禁じえませんでした。被爆直前の平和な一家の朝の様子、そして夫は学徒動員の現場へ、上のお嬢さんの洋子さん8歳は、学校へと出て行った直後の原爆投下。お母様と英子さんは、倒壊した家の下敷きになるも、なんとか脱出。その直後はもう火の海となり、洋子さんを探しに行こうとするも、かなわなかったこと。それを何度後悔なさったことか。火の中に飛び込んででも行けばよかったと。

その後、避難先から洋子さんを探し求めて。やっとやっと見つけた時には、亡くなっていた遺体と化していました。その直前まで「お水を頂戴」と言い続けていたと。もう少し早く見つけていたら、と、これも幾度後悔されたことでしょう。

夫の山本先生が亡くなったことは学校で知ったと。時計などのわずかの遺品があるのみで、遺骨もどっては来ませんでした。

こんな思いをどれだけの人がしたことでしょう。まったく、原爆を開発した人、落とした人、落とせと命令した人、それよりも戦争を始めた人たち。この人達は人間の命をどう考えていたのか。戦争のための一つの駒でしかなかったと。駒にも一人一人命があり、思いがあり、家族がいて、 ということなどは全く頭にないのでしょう。それは、今の日本の安倍首相をはじめとする政治家の多くの頭にも。

この手記は、被爆の2年後に書かれ、アメリカの「TIME」に送付するも、GHQの検閲にかかり、没収されました。信子さんが亡くなった後の遺品の中から英子さんが見つけ、翻訳、編集されたものです。信子さんが、生前にこのことを知られたなら、どんなにかホッとされたことかとそれは残念です。

小野さんには、関東地方を中心に証言活動をされていますが、広島で話すのは初めてとのことです。重い、大切なお話をして頂きました。

Img_1286 小野英子さんは、いま重い肺がんの治療中です。抗がん剤で髪がすっかり抜け落ちて、今やっとここまで生えて来たと。それはそれで素敵ですよ、白髪がとても上品ですと申し上げました。

私から言うまでもないのですが、どうぞ、どうぞお体を大切になさって、そして、貴重な体験のお話を多くの方にしてあげてくださいませ。戦争や被爆がどんなことなのかを知らないまま、知ろうともしないまま、戦争への道を突き進もうとしている今だからこそ、小野さんの活動はとてもとても大切なものだと思います。

この度は、本当に来て頂いて、お話し頂いてありがとうございました。参加者みんなの胸を打ちました。私たちは、この小野さんのお話を大切にこれからも活動していきたいと思います。心から深く深く感謝申し上げます。

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