「8.6ヒロシマ平和の夕べ」2017のご案内③
今年の被爆証言は小野瑛子さんにお願いしました。
小野さんは、6歳の時にヒロシマで被爆。父と姉を失いました。母と避難中に黒い雨を浴び、急性放射線障害を発症。60代に甲状腺機能障害で全摘出。75歳で肺がんを発症し、現在闘病中です。千葉県習志野市在住で、全国で被爆証言の活動を行っていらっしゃいます。
8月のヒロシマが済むまでと、抗がん剤による治療を中断して来て頂きます。ありがたいことです。
父親を失った後、さぞ大変な人生だったことと思います。被爆後を生きて来たお話も伺えることと思います。
小野さんのお父様は、当時広島二中の教師でした。本川の川岸で被爆、全滅した二中一年生と共に、亡くなれました。広島二中の碑の裏側に先生と全滅した生徒の名前が刻まれています。その一番目に刻まれている「山本信雄」先生がお父様です。
この生徒たちの事は、広島テレビの番組「いしぶみ」として放映され、その草稿をまとめた物が、ポプラ社から「いしぶみ」として出版されました。
私の父は、山本先生の同僚で二中に勤務していました。全く偶然、父は助かりました。その父の書棚には、この「いしぶみ」の初版本があります。
昭和四十五年六月二十日発行。父の長谷川という印が押してあります。
この本の「5 川の中で」に小野さんのお父様である山本先生のことも出てきます。一部抜粋します。
『五学級の下野義樹くんは、土手にはいあがるまでににあったことを、こう話しています。
「川の中では板切れにつかまって浮いていました。土手にはいあがってみたら、町はめちゃめちゃで、ぼくはもうだめだと思った。しかし、気を取り直して、父や母にあいたい一心でがんばった。
岸にあがる時、先生がぼくの手を引っ張ってくださった。そして、君はあまりやけどをしていないから、元気をだしてがんばれ、と励ましてくださった。いっしょに岸にはいあがって、飲み水を探しているうちに、けがのひどかった先生は、もう、わたしはだめだ、しかし、君はがんばれよ、といわれてはなればなれになったが、そのとき、先生としっかり手をにぎって別れました。」
この先生の名を山本先生といったようだ、とお母さんはいっておられます。
川原から土手にあがってきた生徒たちに、先生は目の見えるものは家に帰ってよい、市の中心はもえているので、南の宇品か、新大橋を渡って、西の己斐か、舟入、江波の方に逃げるように指示されました。』
今も「いしぶみ」はポプラ社から発行されています。英語版も。当日この「いしぶみ」も会場で販売します。小野瑛子さんが書かれて「炎のメモワール」もぜひ読みたいのですが、もうどこにも販売をしていません。残念です。
小野さんの貴重なお話、ぜひ聞きに来てくださいませ。
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