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宍道湖・中海の淡水化が中止になったいきさつ①

先日の松江での講演でとてもお世話になった先生ですが、島根大学の河野美江先生から、本を送って戴きました。一緒に宍道湖の夕陽を見ている時に、この本のことを聞き、ぜひ読みたいとお願いした本です。送って頂いて、夢中になって読みました。

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河野美江先生のお父上、伊達善夫先生、島根大学農学部の教授、昭和48年より農林省維宍道湖・中海干拓淡水化事業水管理及び生態変化研究委員会の水質部門委員長を務められました。

その農水相・干拓事業側の委員であった先生が、中止になって20年以上経って2011年に出された本です。その前書きの一部をご紹介します。

「西の空にひろがる雲を茜色に染めつつ、真っ赤な太陽が水平線のかなたに沈んでゆく宍道湖の夕景は、幼い頃から老齢に達した今までの私にとって、何ものにも代えがたい神秘的な眺めであった。

中海はその宍道湖とつながり、水質、生態系ともに密接な関係にあり互いに影響し合っている汽水湖である。

中海の約三分の一を干拓し、両湖の残水域を淡水化して戦後の食糧事業改善のための米作りをめざし、今から四十八年前の昭和三十八(一九六三)年に始まった宍道湖・中海干拓淡水化事業のうち、淡水化の方は昭和六十三(一九八八)年に延期(事実上の凍結)されたが、この事業には実に二十五年の歳月とともに七二〇億円の巨費が投入されていた。

この淡水化延期の決定は、我が国の地域開発史上、他に例を見ない巨大土木事業の終焉の前触れであった。

当初は、地元から大きな期待がかけられたが、長い年月がかかったため中途から事情が変わり、いったん始められたら完成させるまで、どんなことがあっても止めないとされてきたわが国の中で、工事の大部分が終了し水門のボタンを押しさえすれば淡水化が可能という直前になってからの延期決定だった。・・・」

明日に続きます。

私は今日は診療後、大分に行きます。高速道路を往復しますが、心配していた雪がひと段落しそうでホッとしています。

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コメント

この頃に松江で仕事をしてましたし、同じような業種で働いてましたから、ビックリした出来事でした。
遠い記憶ですが、中海を淡水化しても宍道湖のシジミには影響は無いとすることに対して、中海の汽水域が重要だから淡水化すると絶滅すると熱心に反対していたと思います。
淡水化により、農業用水に利用する当初の目的にも合わなくなったようなこともあり、環境破壊が公共事業に勝った事だったようだと思います。
また、地元の熱心な反対が、地元出身の総理に大きく影響を与えたと。田中角栄の日本列島改造論から、脱反田中に動き始めた頃ではなかったでしょうか。それと、この事業より原発事業の方が旨味があるとなり始めた時期ではないかと思います。ちょうど島根原発2号炉の建設が始まった時期ですから。

投稿: やんじ | 2017年1月25日 (水) 12時44分

いつも拝見しています。 祖母や従姉妹が松江にいるので小さい頃から慣れ親しんだ松江の宍道湖は、私にとっても大事な存在です。
子ども心に淡水化の話を聞いていましたが、淡水化されなくて良かったと思っています。

投稿: Clair | 2017年1月25日 (水) 21時16分

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