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「助産師・益田小蝝さんの生き方に学ぶ」

 昨日は、日本キリスト教団広島観音教会での、広島YWCA平和活動部会講演会「助産師・益田小蝝さんの生き方に学ぶ」に参加しました。

益田小蝝さんの四男の益田紀志雄さんと、奥様の益田明美さんが、松山から来てお話して下さいました。

益田小蝝さんは、合唱の益田遙先生のお母様です。その遙先生もいらっしていて、お会いできてうれしかったです。

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会場は、いっぱいの人。YWCAや教会の関係の人、昔の子蝝さんのゆかりの人、助産師協会の人などいろいろな人が幅広く集まられたのでしょう。

益田小蝝さんは、広島県の助産師第一号の方です。そもそもは高知の方だったと。クリスチャンで、オルガンも弾けると言うことで、広島の福島町に新設された保育園にお勤めなさったそうです。そこで働く内に、その地域での新生児の死亡率が大変に高いということを知り、懸命に勉強なさって、助産師になられたとのこと。福島町が、差別された地域であるということはおそらく知らないで赴任されたようだと。でも、結婚なさっても、そこに住み子育てをされたとのこと。

昨日配布された原爆資料館のデータベースから。

『助産師の益田小蝝さん(当時40歳)は、往診中、爆心地から1.9kmの福島町で、己斐橋を歩いて渡っている時に被爆。服が燃え上がったため川に飛び込んだ。両腕に大やけどを負っていたが、暗くなるまでけが人を救護し続けた。めまいがして土手で倒れていると、18歳の初産の女性が産気づいているとの知らせを受け、やけどの両腕で必死で赤ちゃんを取り上げた。
取り上げた後、益田さんは気を失った。母親はそのまま泡を吹いて亡くなり、せっかく生まれた子も一か月後に亡くなった。益田さんは、軍医から「両腕切断」の診断を受けたが、「この腕があれば、また赤ちゃんを取り上げることが出来る」と切断を断固拒否。家族の懸命な看護で、回復し、80歳近くまで現役で助産師を続けた。
これらは、被爆した時にも、持ち歩いていたお産の道具。』

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これらは、原爆資料館に寄贈されている物を借りて持ってきてくださいました。赤ちゃんの重さを測るはかりと、聴診器、骨盤計測器など。

この話、まだ続きます。

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コメント

 懐かしい、我が家の母も、長年産婆さんをやっていたので、聴診器、秤、OO測定器、出産経歴簿などが
残っています。小学校頃、出産まじかのお父さんが夜中に自転車で迎えに来て、初産だと一週間も帰らぬ事が、
良く一人で、薪でご飯炊いて、学校に行っていたと思う懐かしいです。

投稿: yoshijii | 2016年5月16日 (月) 15時13分

すごすぎる過去がある助産婦さんですね。自分が被爆しながらも、赤ちゃんを取り出すなんて本当にすばらしい。被差別部落のお産を請け負いながらも、今は病院に集約されたお産になるまでの歴史が写真でわかります。今また、様々なハイリスク妊娠・出産以外は地域に戻す動きがあるなか、助産婦さんの仕事の歴史が直に感じられますね。本当に地域の情報が一手に集まり負担を感じ得ませんが、国分寺では赤ちゃんヘルパーのステーションが助産院がやってることをみてきましたし、利用者になったので、おもしろいことだと思います。助産院が病院に変わってできることはたくさんありますね、被爆に関係する助産婦さんの話でありますが、現代にも活用できることはたくさんありますね。

投稿: 愛ちゃん | 2016年5月17日 (火) 00時05分

yoshijiiさま
そうなんだ。お母様は産婆さんだったのですね。子どものころからの体験が、yoshijiiさんの今の生き方にもつながっていますね。また話を聞かせて下さいませ。こうのみよこ

投稿: こうのみよこ | 2016年5月19日 (木) 11時45分

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