「助産師・益田小蝝さんの生き方に学ぶ」2.
昨日の、益田小蝝(こえん)さんの四男、益田紀志雄さんのお話の続きです。
参加者に配布された広島市原爆資料館のデータベースからの文書です。
『赤ちゃんが生まれるんよ
<赤ちゃんの母・佐々木マサ子さんの同級生・中西ハルエさんの証言より>
避難していた人たちがバタバタと死んでいきました。足の踏み場もなく、何百人以上の人たちをよけながら歩いていきました。死体とひん死の人たちに囲まれ放心状態でした。そこへ大きな声が聞こえてきました。
「赤ちゃんが生まれるんよ。」
「益田先生おられますかー」
先生を呼ぶ声が聞こえました。先生は両腕にやけどをして、とても赤ちゃんを取り上げられる状態とは思えませんでした。それでも先生はお産の準備に取り掛かりました。先生が「トウキビ、アシを抜いてきて」と言い、みんなで抜きに行きました。先生はそれらで丸く囲いを作らせ、「着物やボロ布があったら掛けてちょうだい」と言いました。妊婦も重症を負い、ひん死の状態でした。
まーちゃん(妊婦の佐々木マサ子さん)は、片方の足がブランブランで、ちょっとさわっても痛い様子でした。「痛いー、痛いー」という声が闇の中に聞こえ、みんなで見守っていました。産声が響きました。みんなが歓声をあげました。
「あーよかったねー。」
「男の子よー。」
益田先生はそれと同時に失神状態になられました。しばらくして見るとまーちゃんは、泡を吹いてそのまま死んでいました。生まれた子は一月後に息を引き取ったそうです。結局、母子両方とも死にました。まーちゃんのことを思うと、赤ちゃんに大きくなって欲しかった。生きていて欲しかったと思います。
<2013(平成25)年8月7日放送 TBSニュース23より>』
益田さんが残した妊婦4000人を越える助産記録のうち、あの日取り上げた赤ちゃんを含む、1944年(昭和19)年6月21日から1945(昭和20)年8月6日までの記録です。資料館に寄贈されたものの写真を接写させていただきました。
益田小蝝さんは、とても優しい人だったそうです。原爆が落とされる前に、アメリカ軍の飛行機に下からの砲撃が当たって、飛行機が落ちたことがあったと。それは、私も父から聞いています。それを「やったやった」と手をたたいて喜んでいると、お母様は「あれにも人が乗っているんよ」と言われたこと。悪いことをしても叱られることはなく、「神様が見とってよ」とだけ言われたこと。
益田紀志雄さんのお話、明日も、もう少し続けます。
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コメント
熊本大震災のなかお産を取り扱った方々がテレビや新聞で取り上げられましたが、被爆直後から奮闘した助産婦さんがいて、そのかたも大怪我をしながら助産をしたというのはすばらしい。なんか命のすごさを感じられますね。赤ちゃんにはいきてほしかったですが。
投稿: 愛ちゃん | 2016年5月17日 (火) 09時42分