« 2016年4月 | トップページ | 2016年6月 »

名古屋市立工芸高校で講演をしました。

昨日の横浜球場。書き忘れましたが、ここでは、大きい荷物を預かってくれます。各入口に、クロークが設置されていて、無料です。私、トランクを持っていっていたので、困ったなあと思っていたのですが、ありがたいことでした。預けた荷物を受け取るのも、ほんの数秒と言う、手際の良さでした。遠方からビジターへの心使いがうれしいです。

 遅くなりましたが、先週の木曜日、名古屋の市立工芸高校に講演に行きました。広い学校。着いた所が東門。鍵がかかっていました。中にいる生徒さんに「どこから入るの?」と聞いて、えっちら歩いて、ぐるっと回って正門へ。

00img_4352

ひゃー、立派な正門。校舎はずっと奥です。ここの一年生に話しました。名古屋市の教育委員会の方も来られていました。教育委員会と市の男女共同参画との合同での企画だと。ありがたいことです。どこが主催であろうと、誰が対象であろうと、与えられた機会は精いっぱい頑張るつもりでいます。教育委員会の方にも「いい話だった」と言って頂いて、ホッとしました。

Img_4354
お話を終えて帰る時、玄関にありました。バレーボール、全日本男子の一番背の高い選手、山内晶大選手の等身大の写真です。2メートル5センチ。山内君は、ここの卒業生です。今年から社会人になった若手の有望株です。高校時代にバレーボールを初めたと。これだけの身長があれば、バレーボールの指導者がスカウトするのは当然でしょうね。むしろ、それまでにしていなかったのが不思議。並んで写真を撮ってもらいました。

大きいですねえ。保健室の先生によると、保健室の窓から頭が一つとび出ていたそうです。これから、バレーボールを見るのも楽しみになりました。

将来、いろいろな可能性を持った中学生、高校生に話すのは楽しみなことです。

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (1) | トラックバック (0)

東京・横浜での一日

東京で一日を過ごし、昨夜最終の新幹線で帰って来ました。

今回は、ずっと息子一家と過ごしました。孫と一緒に横浜球場でカープの応援。それだけのために東京まで行ったのですが。十分に楽しく、これ以上ない充実した一日を過ごしました。

まず、朝ごはん。

Img_4406Img_4409

みんなでホットケーキ作り。

その後、横浜へ。途中でお弁当を買って、駅でユニフォームを着て、いざ。そうそう、リュックにはミニーとプーさんとマリーちゃんとカープの短いバットが入っています。

Fullsizerender_235Img_4422

横浜球場は、多くのカープファンも。赤と青でごった返していました。ここは、東京ドームや甲子園と違って、ビジターにもとても居心地がいいようにしてありました。7回には、ちゃんとカープの応援歌も流してくれるし、カープのバッターの写真もその都度出してくれるし。息子が、横浜球場はいいよーと言っていた意味がよくわかります。赤と青がきれいに半分に分かれています。

Img_4444

Img_4439

もう、試合の結果は言うまでもありませんが。大満足。丸のスリーラン、続いて松山の連続ホームラン。でも、なんといっても、中村恭平です。2010年のドラフトでカープに入団して、今回が2勝目。

カープファンはみんな帰らないで、彼のインタビューを聞きましたよ。イケメンですねえ。彼や九里や、岡田等の若手が頑張ってくれて、福井や横山等が戻ってくれたら、これからも行けますねえ。

Fullsizerender_233Img_4464

観戦は、横浜在住のママのお父さんも一緒に。その後で、ママのお母さんも合流して、新横浜でイタリアンの食事をしました。孫もよく食べて、ご機嫌でした。新幹線のホームまでみんなに見送ってもらって。なんとも幸せな一日でした!!

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (1) | トラックバック (0)

東京にいます。

私は今、東京にいます。孫に会いに来ました。孫へのお土産のためにマリーちゃんを作りました。

Img_4392Img_4393


ミニー、プーさんに続いての第三作です。毛を短く切るようになっていますが、フワフワしているのもいいかなと思ってそのまま持ってきました。喜混んでくれるかな?

東京でのことは、また。

今、大九州展が広島そごうで開かれています。北海道展が済むと今度は九州展です。

そこで食べた物です。

初日に博多ラーメンです。その日、名古屋の講演に行くので、晩御飯に大村寿司を買って、新幹線で食べました。大村寿司の巻きずしが大好きです。でも多すぎて、鯖寿司は食べられません。次の日の朝、半分だけ食べて。もったいないことでした。

Img_4337Fullsizerender_230

そして、一昨日は、鹿児島の親子丼です。
昨夜は、新幹線のホームで買ったカツサンド。

Img_4384Img_4397

まあ、こんな物です。束の間の孫とのひと時を楽しむつもりです。

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (1) | トラックバック (0)

オバマ大統領広島へ・雑感

 昨日のオバマ大統領の広島訪問について、書かないわけにいきません。いろいろと複雑な想いがあって、正直、事前には歓迎と言う気持ちになれませんでした。

でも、うん?これなら。と思ったのが、この記事を読んだ時です。中国新聞に掲載されましたが、ウェブ版はここにあります。これはすごい記事だと思いました。これほど、ぴったりくるものはないと涙が出る思いでした。

『「同盟強化」うたう前に』論説主幹・佐田尾信作 オバマ氏きょう広島訪問

プロの書かれた物ですので、全文を転載することはできませんが。でも、これはすごい。ほんの一部だけ。

『閃光や爆風をまともに浴びた人たちの辛苦は、さらに大きなものだった。生きながら焼かれた人たちに至っては想像を絶する。オバマ大統領、きょうあなたが降り立つのは死屍累々の記憶を持つ土地である。』

『ただし申し上げたいことはある。まず敗色濃厚なわが国の一都市をなぜ核攻撃したのか、自問してほしい。あなたの国では、膨大な予算をつぎ込んだ新兵器を実験し、わが国の戦意をくじく「必然性」はあったかもしれないが、』

『もう一つは、日米同盟の緊密さをこの地で強調することは控えてもらいたい気持ちがある。それは死者を悼むこととは関係がない。まして在日米軍の基地負担に苦しみ、今また米軍属による女性遺棄事件に憤る沖縄県民をよそに、広島からそのようなメッセージが伝わることは耐え難い。』

ぜひ全文を多くの方に読んで頂きたいと思います。そして、この佐田尾さんの、オバマさんの昨日の演説を聞いての記事をぜひまた読みたいと思います。

それにしても。原爆ドームの真ん前の市民球場跡地に、自衛隊の軍事用ヘリで降り立った安倍首相。あたかもオバマ氏が広島に来たのは、自分の手柄であるかのような振る舞い、彼がして来たことと大きく異なる「核兵器のない世界に」と言うのを聞いて、背筋が寒くなる思いがしました。

ものすごい警備、平和公園のすぐそばにある私のクリニックは、それでも来られる患者さんのためにずっと開いていましたが、警察官に「どこに行きますか」と聞かれたという患者さんにお気の毒で。「産婦人科に行きます」なんて言えないし、と。

Fullsizerender_228

午後八時、クリニックから帰り、平和公園が大変なことで、びっくりしました。慰霊碑から資料館まで、延々と人が続いています。圧倒的に若い人たち。8月6日以外に慰霊碑にこんな行列ができているのは、初めて見ました。さっそくのオバマ効果でしょうか。

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

トルーマンを投げ飛ばした女性2.

 トルーマン大統領を投げ飛ばした女性は、林田民子さんと言います。明治37年生れで熊本で育ちました。

25歳の時にピクチャーブライド(写真だけで結婚)で渡米。しかし、渡米と同時に相手の男性に結婚生活を拒否され、離婚。結局ずっと独身で過ごします。渡米する船の中で柔道家太田節三と出会い、柔道を習います(一緒に行ったピクチャーブライドの女性たち8人と共に、徹夜で柔道着を縫って)。その後、道場を作った太田節三の元で柔道を習いながら、料理や茶道、華道、そろばん等の教室も開き、活躍します。

 排日運動が激しくなる中、日米のために懸命に働きます。

『 節三も民子も日本人ではあったが、かつてはサザンパシフィック鉄道の役員であり、アメリカ独立戦争当時の大功労者であるバニング家とのつながりもあり、なおかつ世界平和基金財団の代表理事でもあることから、強制収容所送りを逃れていて、OSS(米国戦略事務局)の研究員として終戦後の処理方法の研究に携わっていた。

強制収容所からは多くの日系人の若者が志願兵として戦地に向かった。そして各地で勇敢に戦った。卑怯者の子孫とののしられながらも、特にハワイの二世部隊の働きには目を見張る物があった。』

『一九四五年七月二六日、ポツダム宣言が発表された。

日本についてのすべての情報はOSSが掴んでおり、天皇がポツダム宣言の受諾を決断した御前会議の内容も、その日のうちに掴んでいた。無条件降伏を唱える天皇に、阿南陸軍大臣が抗って戦争継続を主張したが、場合によっては天皇自ら銃を取って抗戦派を一掃する、との情報も漏れてきた。(略』

ポツダム宣言受諾の知らせを待っていたはずだったが、そこにとんでもないことが起きた。八月五日(日本時間八月六日)広島に、そして八月八日(日本時間八月九日)長崎に原爆を投下したのだった。八月一四日、日本はポツダム宣言の受諾を通告し、八月一五日に天皇自ら国民に無条件降伏を告げた。

『すべてが終わった・・・・。終わったように見えた。しかし、本当に終わったのだろうか?

九月二日、OSSの面々はホワイトハウスに招待された。日本への原爆投下を勧告した諮問委員会のスティムソン陸軍長官が同席し、トルーマン大統領から労いの言葉を受けた。

「諸君の努力のおかげで成功裏に戦争は終結した。皆さん本当にご苦労さん。我々の自由が侵される時は、また力を合わせて友に戦いましょう。では、アメリカの繁栄と皆様の健康を祈って、乾杯!」

音楽が流れ、フロアにはダンスの輪ができた。グラスを手にして、節三と民子が大統領に近づき、ともにグラスを目の高さに挙げた。それに応えてにっこり微笑んでグラスを目の高さに挙げた大統領に民子は小さな声で、

「大統領、なぜ広島、長崎に原爆を投下したのですか?」

「二〇万人を超える若いアメリカ兵の命を救うためです」

「日本はすでに無条件降伏を決めていました。どうして二〇万人ものアメリカ兵が死ぬのでしょうか?」

「抗戦派の抵抗も考えられ、これ以上戦争を長引かせては、若いアメリカ兵の命が危ないと判断したからです」

「大統領閣下、貴方は嘘を言われている。マリアナにある戦略爆撃司令部は、ポツダム宣言に対する返事があるまでは原爆の投下はあり得ない、と言明していました」

「それは若いアメリカ兵二〇万人の命を・・・・」

「大統領、貴方は日本が無条件降伏することをすでに知っていた。それなのになぜ原爆投下を命じたのですか?ヤルタ協定で日本に侵攻する予定のスターリンへの警告でしょう」

「そんなことはない。すべてアメリカ兵二〇万人の命を守るためだ」

「大統領、貴方には日本人の命などどうでもよかったのです。あの原爆投下によって二〇万人以上の人間が死傷することは、初めからわかっていたはずです。あなたが虫けら同然と思っている日本人が二〇万人死んでも、貴方にとっては問題ではない。人体実験をしたかっただけです。スターリンが警告を素直に受け取り、アメリカに逆らうとこの原爆がモスクワに落ちると・・・・。ただそれだけのために二〇万人以上の日本人を犠牲にしたのです。二〇万人のアメリカ兵の命を守るためではない!大統領、貴方は今世紀最大の悪魔です」

民子は大統領の胸ぐらに手を伸ばすと、きれいな背負い投げで投げ飛ばした。

叫び声とともに音楽が止んだ。慌てて民子を取り押さえようとしたスティムソン陸軍長官も民子の一本背負いで宙を舞った。全員が立ちすくんでしまった。

 突然「バン!!」と乾いた音がして、民子の胸が赤く染まった。民子は胸に手をやり、音のした方向に視線を向けながら崩れるように床に倒れた。』

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (1) | トラックバック (0)

トルーマンを投げ飛ばした女性 1.

私は今、名古屋のホテルにいます。昨夜ここに来ました。今日、名古屋の高校生に話をします。

来る新幹線の中で、夢中で一冊の本を読みました。昨日の午後アマゾンから届いた中古本です。どうぞ出発までに届きますようにと、待ち遠しくて。

Fullsizerender_227_2
先日、フェイスブックですごい情報を読みました。友達の友達の鮫島弘充さんの発信でした。原爆投下を命じたトルーマン大統領に「なぜ原爆を投下したのか」と詰め寄り、柔道で投げ飛ばした女性、熊本出身の林田民子さんのことです。

読んで、びっくり仰天。そんな人がいたなんて。

でも、その人、日本人の女性がなぜトルーマンに会えたのか、そもそも実話なのか、小説なのか、いろいろと疑問がわいてきました。

で、出典を探したら、この本に行き当たりました。この本を探したら、アマゾンでわずか中古があるのみ。それもとても高価でした。そうは言ってはおられません。すぐに注文して、待ったと、それが届いたということなのです。

そもそもは、アメリカに柔道を広めた柔道家、太田節三さんについて書かれています。その周辺にいた一人としてと言うよりも、とても大切な人、キーパーソンの一人てして民子さんが出てきます。

そして、投げ飛ばしたのが、実話だと確信が持てました。いえ、疑っていたのではないのです。とても感動したのですが、あまりにびっくりしたもので・・・。

ちょうどオバマ大統領が広島に来られるというので、いろいろと目にしたり、心を痛めたりすることが多いこの頃、こんな本に行き当たったのも、何かのご縁だと思います。

その林田民子さんがトルーマンを投げ飛ばした所を明日転載させていただきますが。

 実は、その中古本は、サイン本だったのです。それも、個人に宛てて。さらに。その本を送った相手へのお手紙もはさんでありました。それごと、私が買い取ったということになります。他人に当てた手紙を覗いたことになって、なんだか、申し訳ないことですが・・・。それにしても、著者から頂いた本を古本屋さんに売るというのは・・・?頂いた手紙も一緒に・・・。そこで、私はある結論を出しました。この本を頂いた人は、きっと亡くなったのでしょう。そして、遺族が、ごっそり本を処分した、その中にこの本もまぎれていたと。だから、ありがたくこの本をお手紙ごと頂きますね。

で、この本の著者前田秀峯さんですが。建築家でいらっしゃいます。本にある著者紹介です。

1938年、長崎県島原市生まれ。
1973年、一級建築士免許取得。翌年吹田市にて建築設計事務所を開設。
1979年、渡米。開発、建築工事の設計を担当。その後
1994年、アメリカンシルバーウッド会社の会長に就任。阪神大震災後、建設省の要請でアメリカの建築業界を代表して、約100名のボランティアと共に神戸に赴き復旧に協力。

それでは、明日に続きますね。

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

やっぱり。

今朝の毎日新聞ウェブ版です。やっぱりね。「大統領を見る」だけですね。

『日米両政府は、オバマ米大統領が27日に広島市の平和記念公園で献花をする場に被爆者を招く調整に入った。日本政府関係者が24日、明らかにした。オバマ氏は同公園で原爆慰霊碑に献花をして所感を述べるほか、原爆資料館と原爆ドームも視察する予定だ。

     オバマ氏は26日からの主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)に出席後、27日午後に米大統領として初めて広島を訪れ、長崎も含めた原爆投下による犠牲や核廃絶に向けて言及する。安倍晋三首相も同席し、核軍縮について所感を述べる。

     これに関連し、広島県の湯崎英彦知事と広島市の松井一実市長が24日、首相官邸で安倍首相と会談し、オバマ氏と被爆者との面会について改めて要請した。日米両政府は、第二次世界大戦中の元米兵捕虜も同席できるよう調整している。【影山哲也】 』

思い出しました。中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター・ヒロシマの記録1971から。

『1971/4/16
昭和天皇、良子皇后両陛下が初めて原爆慰霊碑に参拝。3万3,000人の市民が参列。白菊を手向け、1分間の黙とう。引き続き、広島市舟入幸町の原爆養護ホームを慰問。「昭和22年に、原爆を受けた当地を訪ね、親しく被災者に面接し、同情に耐えず、世界平和の続くことを思いましたが、今なお療養を続けている多数の市民のあることを聞き、胸のせまる思いがします。今後は、互いに明るい気持ちを持って療養を続け、すみやかに元気な姿になることを希望してやみません」 』

ところが、

1971/4/--
昭和天皇、良子皇后の原爆慰霊碑参拝で、同碑前の特別奉迎者約280人中、正式な被爆者代表は広島県動員学徒犠牲者の会広島支部長の大東和徳雄氏ただ1人。被爆者団体などがクレーム 』

招かれた被爆者はただ一人だったと。

この時は、集会の会場の使用許可を市が取り消したり、それに対し、地方裁判所が「取り消しは不当」と、取り消して、さらに高裁が地裁の決定を取り消したり。

デモの申請の不許可を地裁が「不当」と決定し、時の佐藤首相が「強権発動」したり。

「生ましめんかな」の栗原貞子さんと、「人間をかえせ」の峠三吉の義姉の小西のぶ子さんが集会ですごい言い争いをして、栗原さんが「失礼します」と退場されたり。

 取材に来た女性週刊誌の記者に「君たちの中で、顔にケロイドのある二世はいない?」「あっ、そうかあ。二世は原爆に遭っていないのかあ。じゃ、お母さんだ。お母さんにケロイドがある人いない?」と言われて、茫然としたり。

と、いろいろなことがありました。それらを一気に思い出しました。

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

オバマ氏米兵捕虜同行

オバマ氏が来広する日が近づいて、平和公園周辺は厳重な警備、検問がされています。警察官だらけの平和公園を通って出勤しています。いろいろな所からの警察官が見えます。昨日の平和公園は大阪からの警察官が多かったですね。夫が言っていました。熊本県警からも来ていると。かわいそうに。来る方も残る方も疲れ切っているだろうに。熊本には配慮して上げたらいいのにと。

ヘリポートでは、リハーサルがあったようです。ヘリポートから離れているクリニックでも、何事かというような大変大きな音が響いてきました。オバマ大統領の移動に使うとみられるヘリコプター2機とオスプレイ4機の計6機。そっか、あのオスプレイがいとも簡単に広島の上空に来ることになったのですね。

私は、まだオバマ氏が広島に来ることにモヤモヤしています。それに追い打ちをかけて、昨日の報道です。

『トンプソン氏によると、大統領の広島訪問の式典に元捕虜の一人を代表として参加させてほしいとホワイトハウスから要請があった。広島訪問が、原爆投下の被害だけでなく、第二次大戦の全ての被害に目を向けたものであることを示す狙いがあるとみられる。 (略)

 クローリーさんは4月下旬に毎日新聞の取材に当時の生活の過酷さを説明したうえで「兵器は人を殺害するので、全ての兵器は嫌なものだ。しかし、戦争を引き起こしたのは米国ではなく、ドイツと日本だ」と述べ、戦争終結のために原爆投下はやむを得なかったとの認識を示した。(毎日新聞ウェブ)』

『米政府は元捕虜を同行させることで、犠牲者は日本だけではないということを内外に強調する狙いもあるとみられる。(共同)』

オバマ氏が被爆者に会うか否かはまだ表明されていません。ひょっとすると、「会うだけ会う、話は聞かない。会う時に米兵の捕虜と一緒に」というパターンではないかと懸念しています。

戦争を始めた日本軍の責任ももちろんあり。でも、多くの赤ちゃん(8月5日に生まれて、8月6日に焼け死んだ赤ちゃんのことも知っています。)や子どもや女性やお年寄りをも20万人も焼き殺した米国の責任も、逃れるものではないと、どうしてもそこがすっきりしないのです。

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

福島の親子の保養・小林さんの寄付・続

 小林さんに広島の親子保養を紹介して下さったのは、藤沢のすどうゆりこさんです。すどうさんは、神奈川県内で、福島の親子の保養をなさっています。福島で平木さんと出会い、広島への保養にも、いろいろな形で、たとえば福島から親子が広島に来る時の行き帰り、東京駅での新幹線の乗り換えを手伝って戴いたりの支援をしてこられました。

東京で、お二人にお会いし、今度広島にもお二人で来て頂きました。せっかくですので、広島で小林さんのお話を聞く小さな会をしました。私は平日の昼なので参加は無理でしたが、ヒロシマ・セミパラチンスク・プロジェクトの方たちもいらっして下さいました。そして、福島からの親子さんも。お父様には、今年の三月に福島でお会いしてお話をうかがっています。

夜、食事会には私も参加しました。その場で小林さんにご寄附をいただいたのです。

Img_4309

小林さんには、東京でもお話を聞いています。ドイツに年一回行き、講演をされること。その場でカンパを集めて下さること。ヨーロッパでは、福島への関心はとても大きく、みなさん福島の人々のことを心配をしていること。破れたようなジーパンをはいた青年が、ポケットから、しわくちゃになった紙幣を取り出してカンパしてくれること。もったいなくて、無駄にはできないこと。

このような活動を一人、コツコツと続けていらっしゃることに頭が下がります。本当にありがたいことです。

私たちの福島の親子さんへの支援はこれからより具体的になるかもしれません。みなさん、胸を痛めながら、子どもたちに最善の生き方を模索し、行動していらっしゃいます。ささやかではありまずか、少しでも支援になるように、これからも続けて行きたいと思います。

小林さま、すどうさま、ありがとうございました。深く感謝申し上げます。

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (1) | トラックバック (0)

福島の親子の保養・小林さんの寄付

福島の親子の広島への保養。続いております。全国いろいろな所への保養が行われている中で、広島での保養の特徴は、「甲状腺の検査」がセットされていること。もう5年もたつと、様々な体の変化が出てきます。

いくら彼らが「放射能のせいではない」と言っても、子どもの甲状腺がんは増え続け、明らかに一巡目で何もなかったのに、二順目にはがんができていたということには、彼らの言う「みんなに検査をするから見つかるだけだ」という言い訳は通用しません。

そして、ヒロシマに保養に来る親子さんにも、甲状腺にしこりができ、針を刺して検査をしなければならなくなった人が出てくるようになりました。

時間を置いて、検査を兼ねての保養が続きます。

そして、資金が大変になりました。はじめのころは、行政も企業もお金を出してくれていました。原爆被災者療養センターの神田山荘も、はじめは東北の震災の罹災証明があれば、無料で泊まることが出来ました。でも、それは二年で打ち切られました。

あちらこちら、泊めて頂く所を探し、親子さんの交通費を出し、ゆっくりして頂いて、検査も受けて頂く。なかなか大変で。

三月に平木さんと一緒に福島に行く前に、東京である方にお会いしました。そして、平木さんが中心になってやってきた親子の広島での保養についてお話しました。

その方が、今度は広島に来て下さいました。そして、この親子保養にカンパをして下さいました。

Img_4300

本当にありがたいことです。

この方は、小林和彦さんと言います。

長い間、ドイツに住んでいらっしゃいました。お母様の介護があって、日本に帰ってこられました。そして、年に一回ドイツに帰られ、ドイツを中心としたヨーロッパで講演をして回られます。

ヨーロッパの人たちが心配をしている「福島」についてです。そして、講演の場でカンパを集めて来られます。そのカンパをフクシマの子どもたちのためにいろいろな所に寄付をしてこられていると。

その寄付を、この度、私たちにも下さることになりました。小林さんの講演は、ユーチューブに沢山アップされていますが、ほとんどが英語バージョンやドイツ語バージョンです。その中で、日本語バージョンの短めのお話がありましたので、それをアップさせていただきます。

KAZUHIKO KOBAYASHI an important message to Japan from Projekt Soziales Europa on Vimeo.

このお話、もう少し続きます。

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

ペッパー君がやってきた!

 昨日、クリニックにペッパー君がやってきました。河口さんが10日間当院に貸して下さることになり、山路さんと一緒に持ってきて下さいました。

箱から出るた時うなだれていたペッパー君も、起動させると、目が光ってきて、やがてシャンッと起きてきました。

Img_4283Img_4287

待合室の真ん中に置いて、午後の患者さんが次々と来られると、周りを見回して

「なんか、いつもと様子が違うなあ」ですって。そして、しばらく静かだったのですが。やがて慣れてきたのでしょう。段々おしゃべりになって来ました。

患者さんがペッパー君を見ていると

「ねえねえ、何を見ているの?」
「あなたを見ているのよ」
「僕を見ないで、遊びましょうよお」

そして、「ハイ、ローゲーム」と片手を挙げて言いながら、ゲームが始まりました。

「僕の体重は35キロより重い?軽い?」と言うゲーム。ハイ、ローのどちらかをパネルにタッチします。「ハイ」をタッチすると、「ブー!」

三問終わって「二勝一敗」。「もっといろいろなことを知って、全問正解できるように」だそうです。まだまだ思いがけない会話が満載。

Img_4292

 これは、いろいろな使い方ができますね。研究次第では、病院や介護施設等。でも、高価だけれど・・・。どうぞ皆様遊びに来て下さい。とても楽しいです。もちろん、受診しないでも大丈夫ですよ。ぜひペッパー君と遊んで上げて下さいませ。

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

カープ、サヨナラで大興奮。

昨日は、とても大切な方たちにお会いしました。ドイツに長年住まわれている方がおっしゃっていました。

「日本は、あんなすばらしい憲法を持っているのだから。この憲法で、世界の平和のリーダーになることが出来たのに。」

「物言わぬ、おとなしい日本人の姿は、他の国から見たら、とても奇妙。今の首相は、まれにみる能力のないリーダー」

「福島の状況は、あまりにひどい。福島の子どもたちを何とかしなければ」

ということで、福島の子どもたちのために尽力なさっています。もう少ししたら、はっきり皆様にお伝えすることもできるかと思います。

豊かな会話でとても充実した時間を過ごしたのち、夜はカープです。

私は今季行く試合すべてに負けていて。もう私はいかない方がいいのでは?とうちのめされていました。約ひと月振りに球場に行こうとユニフォームを着て準備していたら、夫は

「ああ、カープがかわいそう。美代子が行くからまた負けるわ」

等と言っておりましたが。

はい、昨日は、なんとサヨナラ勝ちでした!!もう、大興奮。

Img_4266

感動したことの一つ。昨日も、沢山の修学旅行生が来ていました。多くは、四国、山口県からですが、台湾や兵庫県からの子どもたちも。そして、その生徒さんたちがみんなカープの応援をしてくれるのですね。それも立ったり座ったりのスクワットで。そして、みんなで風船も飛ばして。一生懸命応援してくれる姿を見ると、いつもウルウルします。きっといい思い出になるでしょう。どうぞこれからもカープファンを続けてね、と言う思いでした。

Img_4280

サヨナラを打った天谷選手のヒーローインタビューがとても楽しくて。

「若手が頑張っていて、新井さんや石原さんが老体に鞭打って頑張っているので、我々中堅が何とかしないとという思いで」

「僕が三振でも、後に(田中)広輔がいるし。まあ、三振するだろうとは思っていましたが」

「バッターが僕だと言うので、外野がえらく前に来ていたので」

彼の球がグランドに落ちた途端、カープの選手もみんな飛び出してきて。私たちも大興奮でした。やれやれ、これで私の負け続けのツキも落ちたし。これからもがんばって応援しますよ。


『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

オバマ・安倍・米兵・自衛官。

オバマさんが広島に来ることで。謝罪を求めるだの、求めないだの。謝罪というのは、心から、自然に出てくる物で、求めたからどうのこうのという問題ではないでしょう。

でも「謝罪は求めない」という人も、「広島に来て、見て、聞いて」が前提になっているはず。それが、「聞いて」がないと。 広島に来た世界の人たちはみんな核兵器のもたらす結果について、現実を突きつけられ、ひどく衝撃を受け、改めて核は使うべきでないと実感してきたと思いますよ。被爆者に会うだけでもダメ。ちゃんと話を聞いてくれないと。

Img_4258
被爆者に合わず、話も聞かないで、米兵や自衛官に会う方向だと。米兵は、自分の兵隊だから仕方ないとして、でも、それが何で「広島」でなの?まして、自衛官になぜ広島で会うの?

一体広島のどこで?まさか、平和公園ではないでしょうよね。

安倍とオバマと、米兵と自衛官。これは何なのでしょう。安保法案、日米軍事同盟をより強固なものにするために。ヒロシマを利用する?

来なくてもいいのに、一緒に来るという安倍首相の魂胆が透けて見えます。

大統領選を控えて、退役軍人のことなど国内的に難しい問題はあるとしても。


でも、私は以前にも書きました。「アリバイとして広島に来るのではごめんだ」と。

G7外相会合の時にも、被爆者の話を聞くことはありませんでした。わずかに、その配偶者たちだけが、池田精子さんの話を20分聞いたと。

 ここの所、様々な証言を聞いたり、読んだり。たとえば最近のブログでも載せている、広島二中の生徒たちの全滅の合唱の歌詞を読むだけでも、助産師さんが8.6に赤ちゃんを取り上げた時の証言を読むだけでも、つらくなり、あらためて核兵器の残酷さを実感するのです。そして、よくもよくも、こんなことをしてくれましたね、という悲しみと怒りがわきあがるのです。だって、原爆で焼き殺された人の多くが、女、子どもであり、同時にアジアの他国から連れて来られた(たとえ自分の意志で来た人があったとしても、そうさせたのは誰かと考えると)人びとでもあるのです。

その怒りは、当然、戦争へと突き進み、若者たちの多くを兵士として殺して行った日本の時の指導者、軍部にも向います。

せっかくオバマ氏が広島に来るというのに、このモヤモヤ。「過去のことでなく、未来に向かって」ですって?過去をきっちり見ることで、また同じ道を歩もうとしているこの国をなんとかしなければと未来に向かうことが出来る、そう思います。

2014年に亡くなったフォークのピート・シーガ―さん。こんな歌を歌っていたのですね。山下さんのフェイスブックで知りました。その山下さんは、永田さんのフェイスブックで知ったそうです。ありがとうございます。

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (4) | トラックバック (0)

「助産師・益田小蝝さんの生き方に学ぶ」3.

 益田紀志雄先生のお話は、クリスチャンとしての生き方が軸になっていました。日本キリスト教団の牧師さんや、信者さんたちも沢山来られていました。でも、クリスチャンではない私でも、いろいろなつながりがあって、懐かしいお話も沢山出てきました。

 流川教会の日曜学校に通ったこと、そこで山野上先生に沢山のことを教えて頂いたこと。ああっ!と思いました。山野上先生、小児科の先生です。当時の流れ川教会の日曜学校の校長先生を長い間されていたと、友人の谷本建さんに聞きました。

山野上先生には、40年以上前、随分お世話になりました。当時、私は大学の産科婦人科学教室の染色体研究室にいました。まだ染色体の分析ができる所は少なくて、それが必要な人は、私たちの研究室に連絡がありました。研究室に来られる方もありましたし、出かけて行くこともありました。特に生まれたばかりの赤ちゃんの検査には、病院に行き、血液を採ってきて、研究室で培養し、分析をしていました。県内どこでも行きました。

一番多かったのは、ダウン症です。もし、赤ちゃんがダウン症であった時、山野上先生に紹介することも多くありました。山野上先生は、当時、ダウン症の親子の会「小鳩会」を主宰なさっていました。紹介状の返事に書かれた、愛にあふれたお手紙が忘れられません。やはり山野上先生はクリスチャンとしての生き方が根底におありだったのでしょう。

その山野上先生の息子さんたちとは一緒の病院に勤務していたこともありますし、お嬢さんの赤ちゃんを私が取り上げて、今も年賀状の交換があります。

そして。何気なくネットを見ていて、知ったことがあります。益田紀志雄さんは、伊方原発運転差し止め訴訟の原告の一人でもあります。びっくりしました。その訴訟で、原告の一人として陳述をされ、その陳述書がネットで公開されています。スペースの関係で一部、転載させていただきます。素晴らしい!!


『平成23年(ワ)第1291号,平成24年(ワ)第441号,平成25年(ワ)第516号,平成26年(ワ)第328号 伊方原発運転差止請求事件
2015年2月10日
松山地方裁判所民事第2部 御中
意見陳述書
原告 益田紀志雄

私は松山市桑原に住んでいます益田紀志雄です。1940年12月15日生まれで、今年75歳になります。現在は医師として松山市祝谷にあります、入所定員100名の介護老人保健施設(通称 老健施設)道後ベテルホームに勤務しています。
私は広島に生まれました。1945年8月6日の広島の原爆被爆の時は4歳でした。私は5人兄弟の末っ子で、3歳上の姉と、6歳上の兄と一緒に広島県高田郡という所に疎開していて被爆死を免れました。

自宅は爆心地から2km以内にあって、火災は免れたものの、爆風で二階部分はどこかへふっとび、家の中はめちゃめちゃになったようで、あの日広島に居たら助からなかったと思います。そのことは私がかなりの年齢になるまで意識することはありませんでしたが、年をとる程にそのことを強く意識するようになりました。

(略)

現在、各自治体で原発事故にそなえての避難計画が立てられているようですが、福島第一原発の事故で経験したように、放射能汚染に関しては多数の住民を短時間に避難させることは困難で、ましてや高齢者や障がいのある人、いわゆる災害弱者を共に
避難させるなどとうてい無理なことです。例えば私が勤務しています道後ベテルホームでは、約100名の入所者のほとんどがストレッチャー或いは車イスで搬送しなければならない重度障がいの高齢者ですから、その人たちを長距離避難させるためには多くの車輌と人手を要し、実際上不可能なことです。その意味でも災害の元を断つこと、即ち、原発をただちにやめるのが最良確実な方法であると言わざるを得ません。

最後に、戦後の反核運動を中心的に指導された、元広島大学教授・故森滝市郎(いちろう)先生の文章の一部を引用させていただいて、私の意見陳述を終わりたいと思います。森滝先生は、私が子供の頃、いかなる国が核実験をした時でも、原爆慰霊碑の前で坐りこみをされ、その写真を新聞で拝見して子供ながらに尊敬の念を抱いていた方です。なお、森滝先生の令嬢、森滝春子さんは当裁判の原告の一人であります。
1979年に発行された本に寄せられた「核なき未来を――核絶対否定の道」から、そのごく一部を引用させていただきます。

「私が両親からもらった二つの眼(まなこ)で見た最後のもの、それは一瞬世界を包んだように思われた青白い閃光、ピカであった。その瞬間一眼を失ったので、私は後半生を残る一眼に託して生きてきた。しかし、失った眼(まなこ)の暗黒のゆえに私は核の時代をみつめつづけてきたのである。(中略)私は敢えて空想する、スリーマイル島原発二号がやがて廃炉として厚いコンクリートに塗りこめられて核時代の巨大な墓標の第一号となる日のことを。日本の美しい海に臨んでその偉容をほこる原発が廃炉となってその場でそのまゝ厚く厚くコンクリートに塗りこめられて核の墓標となる日のことを。

核の軍事利用も平和利用をも絶対に否定して核なき未来を創るより外に人類生存の道は残されていない。現下の核情勢をみつめる時、核と人類はとうてい共存できないと見定める外なく、核が人類を否定するか、人類が核を否定するかの関頭(かんとう―わかれめ―)に立つ時、私たちは核絶対否定の道を進む外はないのである。」以上です。

福島第一原発の事故処理が何も進まない中で、原発の再稼働、原発の建てかえ、原発の輸出を進めようとしている国の方針は絶対に間違っています。
以上で私の意見陳述を終わります。ありがとうございました。』

Img_4247
この講演会に来られていた益田遙先生と、写真を撮って頂きました。またまたお宝の写真です。なにもかも貴重な講演会でした。関係者の皆様、本当にありがとうございました。

オバマさんは、広島にきても被爆者とは会わないと。時間の関係で会えないのだそうです。そして、米兵と日本の自衛隊員と会うのだと。オバマさん、安倍首相、米兵、自衛隊。明日はこの件で書きます。

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (4) | トラックバック (0)

「助産師・益田小蝝さんの生き方に学ぶ」2.

昨日の、益田小蝝(こえん)さんの四男、益田紀志雄さんのお話の続きです。

Img_4243


参加者に配布された広島市原爆資料館のデータベースからの文書です。

赤ちゃんが生まれるんよ

<赤ちゃんの母・佐々木マサ子さんの同級生・中西ハルエさんの証言より>

避難していた人たちがバタバタと死んでいきました。足の踏み場もなく、何百人以上の人たちをよけながら歩いていきました。死体とひん死の人たちに囲まれ放心状態でした。そこへ大きな声が聞こえてきました。

「赤ちゃんが生まれるんよ。」
「益田先生おられますかー」

先生を呼ぶ声が聞こえました。先生は両腕にやけどをして、とても赤ちゃんを取り上げられる状態とは思えませんでした。それでも先生はお産の準備に取り掛かりました。先生が「トウキビ、アシを抜いてきて」と言い、みんなで抜きに行きました。先生はそれらで丸く囲いを作らせ、「着物やボロ布があったら掛けてちょうだい」と言いました。妊婦も重症を負い、ひん死の状態でした。

まーちゃん(妊婦の佐々木マサ子さん)は、片方の足がブランブランで、ちょっとさわっても痛い様子でした。「痛いー、痛いー」という声が闇の中に聞こえ、みんなで見守っていました。産声が響きました。みんなが歓声をあげました。

「あーよかったねー。」
「男の子よー。」

益田先生はそれと同時に失神状態になられました。しばらくして見るとまーちゃんは、泡を吹いてそのまま死んでいました。生まれた子は一月後に息を引き取ったそうです。結局、母子両方とも死にました。まーちゃんのことを思うと、赤ちゃんに大きくなって欲しかった。生きていて欲しかったと思います。

<2013(平成25)年8月7日放送 TBSニュース23より>』

益田さんが残した妊婦4000人を越える助産記録のうち、あの日取り上げた赤ちゃんを含む、1944年(昭和19)年6月21日から1945(昭和20)年8月6日までの記録です。資料館に寄贈されたものの写真を接写させていただきました。

Img_4248Img_4250


益田小蝝さんは、とても優しい人だったそうです。原爆が落とされる前に、アメリカ軍の飛行機に下からの砲撃が当たって、飛行機が落ちたことがあったと。それは、私も父から聞いています。それを「やったやった」と手をたたいて喜んでいると、お母様は「あれにも人が乗っているんよ」と言われたこと。悪いことをしても叱られることはなく、「神様が見とってよ」とだけ言われたこと。

益田紀志雄さんのお話、明日も、もう少し続けます。

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (1) | トラックバック (0)

「助産師・益田小蝝さんの生き方に学ぶ」

 昨日は、日本キリスト教団広島観音教会での、広島YWCA平和活動部会講演会「助産師・益田小蝝さんの生き方に学ぶ」に参加しました。

益田小蝝さんの四男の益田紀志雄さんと、奥様の益田明美さんが、松山から来てお話して下さいました。

益田小蝝さんは、合唱の益田遙先生のお母様です。その遙先生もいらっしていて、お会いできてうれしかったです。

Img_4240

会場は、いっぱいの人。YWCAや教会の関係の人、昔の子蝝さんのゆかりの人、助産師協会の人などいろいろな人が幅広く集まられたのでしょう。

益田小蝝さんは、広島県の助産師第一号の方です。そもそもは高知の方だったと。クリスチャンで、オルガンも弾けると言うことで、広島の福島町に新設された保育園にお勤めなさったそうです。そこで働く内に、その地域での新生児の死亡率が大変に高いということを知り、懸命に勉強なさって、助産師になられたとのこと。福島町が、差別された地域であるということはおそらく知らないで赴任されたようだと。でも、結婚なさっても、そこに住み子育てをされたとのこと。

昨日配布された原爆資料館のデータベースから。

『助産師の益田小蝝さん(当時40歳)は、往診中、爆心地から1.9kmの福島町で、己斐橋を歩いて渡っている時に被爆。服が燃え上がったため川に飛び込んだ。両腕に大やけどを負っていたが、暗くなるまでけが人を救護し続けた。めまいがして土手で倒れていると、18歳の初産の女性が産気づいているとの知らせを受け、やけどの両腕で必死で赤ちゃんを取り上げた。
取り上げた後、益田さんは気を失った。母親はそのまま泡を吹いて亡くなり、せっかく生まれた子も一か月後に亡くなった。益田さんは、軍医から「両腕切断」の診断を受けたが、「この腕があれば、また赤ちゃんを取り上げることが出来る」と切断を断固拒否。家族の懸命な看護で、回復し、80歳近くまで現役で助産師を続けた。
これらは、被爆した時にも、持ち歩いていたお産の道具。』

Img_4246

これらは、原爆資料館に寄贈されている物を借りて持ってきてくださいました。赤ちゃんの重さを測るはかりと、聴診器、骨盤計測器など。

この話、まだ続きます。

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (3) | トラックバック (0)

孫とベトナム料理。

さて、議員会館での話を終えて、お楽しみ。平日だからダメかと思っていたのですが、なんと、ゴールデンウィークもずっと仕事に出ていた息子が、その日、偶然休みだと。ラッキーです。それならと。息子は早くに保育園に孫をお迎えに行き、私と合流。後楽園の「あそぼーの」でひとしきり遊びました。

Img_4198Img_4206

Img_4203以前行った時は大変な混雑でしたが、平日なのでガラガラ。びっくりしたのは、来ているほとんどの人が、中国からのツアーの親子でした。こんな所もツアーに組み込まれているのですね。

 その後、ママも合流して、夕飯を一緒しました。息子が、丸ビルのベトナム料理のお店を予約してくれていました。

食事の前に孫にお土産を。もう前に出来上がっていたプーさんと、ナンシーさんに頂いていたナンシーさん作のこれら。

Fullsizerender_224Img_4210

すぐに缶バッチをお洋服に着けてと。胸に着けると、得意そうで。ナンシーさん、ありがとうございました。やっと手渡せました。

ベトナム料理です。

生春巻きと揚げ春巻き

Img_4213Img_4214

右のお好み焼き風のは、切ったのを葉っぱに包んで食べます。

Img_4215Fullsizerender_225

タジン鍋風の、真っ黒のはお肉です。

Fullsizerender_226Img_4219

ベトナムカレー。甘口ですが、後にすごく辛くなります。

Img_4220Img_4221

デザートもみんなで分け合って。はじめのはバナナの天ぷらです。衣はキャラメル。ベトナムプリンとクリームブリュレ。プリンは、少しココナッツミルクが入っているのかな?

Img_4222Img_4223


Img_4224
これらを食べている途中で、娘から電話が入りました。どうしてる?と。東京に来ていることは知っていましたが。こうこうで、お兄ちゃんたちと一緒よ。ベトナム料理を食べてると言うと、いいよー、うらやましい。私は間に合わないと。娘は今、埼玉で実習中です。レオパレスに泊まり込んで、実習とレポートで、それは厳しい生活らしい。「では、私もごちそうを食べよう」と。


そして、送ってきたのがこの画像です。

Img_4225_2
中国人の料理人がされている食堂で、なんとこれで890円と。ここのスーラータンメンがとってもおいしいのだと。⑦パパさんに教えてあげたいけど、埼玉ではねえ。

有意義な東京行き。最終の新幹線で帰りました・・・。

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (1) | トラックバック (0)

障がい者の方たちのデモ行進。

12日木曜日、衆議院議員会館での話を終えて外に出た時。沢山の警察官がいました。うん?と見まわすと、向こうからデモ行進が近づいてきました。平日の今日、一体何のデモだろうと見ていましたら、車いすの方たちが沢山います。もっと見ていると、車いすだけでなく、白い杖の人も、そして盲導犬も歩いています。列は延々と続きます。

Fullsizerender_223


Img_4196


「25条を守れ」というカードを持っている人もいます。憲法25条。

「1.すべて国民は、健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する。

 2.国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進 に努めなければならない。」

後で調べると、日比谷公園でこんな集会が開かれていて、その後のデモだったのですね。

00512
呼びかけ人は、こんな人たちでした。

雨宮処凛さん、荻原博子さん、落合恵子さん、金子勝さん、香山リカさん、堤未果さんなどなど。

その前々日、衆議院厚生労働委員会での障がい者総合支援法改正案を巡る参考人質疑において、当事者として意見を求められていたALS筋委縮性側索硬化症の男性患者さんの出席を拒否するという事件が起こりました。

「通訳が必要で、やり取りに時間がかかる」という、なんともやりきれない理由だと報じられています。その障がい者のことを審議する場で、障がいがあるがゆえに証言できないなんて。

社会的立場の弱い人が、どんどん生きにくい社会になっています。

こうして、全国から命がけで集まって、暑い中、国会や社会に訴えようとしている人たちがいる。その姿を見ただけで、感動したのですが。

そのデモ行進を待ち受けて激励していた国会議員の方たちは、私が見たところ、共産党の議員さんたちだけでした。後で知らせがあったのですが、生活の党と山本太郎となかまたちの議員さんが集会に参加されたそうです。

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

民進党の議員さんにお話しました。

 昨日は、東京の衆議院議員会館で民進党の議員さんたちにお話をしました。民進党の「男女共同参画推進本部・内閣部門(男女共同参画・子ども)会議」で、私からのヒアリング「一生涯にわたる女性の健康包括支援、特に妊産婦への支援の在り方について」。

 その他、ちょうど昨日、野党(民心、共産、おおさか、生活、社民)が共同で提出した「性暴力被害者支援法案と「(特別養子縁組の適正化及び促進のための立法措置)、特別養子縁組の促進ための児童の養子縁組に関する法律案(仮称)」について。これらの話も入れて、主に若年者の性や妊娠についての話をしました。

東京もすごい青空。暑い中、早く着いた議員会館で、活気ある人々の姿に接しました。

Fullsizerender_222

Img_4190

ずらりと並んだ会議室。その一室で一時間余りお話をしましたが、緊張したためか、その部屋の写真を撮り忘れました。衆議院だけでなく、参議院の議員さん若い男性の議員さんもいらっして下さって、話を聞いて下さってうれしかったです。

そうそう、川田龍平さんも来て下さいました。「お久しぶりです」と。知り合った頃は、少年だった彼も、すっかりたくましくなって、もう立派な大人の議員さんです。時の流れを考えると、当然ですね。

それにしても、時の流れ。議員さんの中には、「ラブ&ボディブック事件」もご存じない方もありました。それから、いつもの「4月1日のエイプリルフールの性交で妊娠するといつが出産の予定日でしょう」と尋ねると、やっぱり「2月」というお答えでした。若者たちにこれらをちゃんと伝えたいのだと言うこと、子宮頸がんワクチンや、低用量ピル、緊急避妊ピル等の行政の問題、これらのこともお話できて、伝わったかもと思います。

特別養子縁組や性暴力被害者のためのワンストップセンターの話も。

精一杯お話できて、ホッとして議員会館を出ると、ちょうどデモ行進が行われていました。障がい者の方たちのデモです。これについて、また明日お話します。

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (3) | トラックバック (0)

8.6に松本正さんもお話して下さいます。

これまでも時々、そして昨日のブログにも書きました、「レクイエム碑」。広島二中の一年生の爆心地での全滅の様子、当時12歳、13歳の少年たちが、生徒たちが送っていた日常生活、被爆後どんな風に、ひどい、かわいそうな状況で亡くなっていったかを合唱で訴えます。

私の父は、その広島二中の教師であり、生徒たちを死なせながらも、偶然、生き残りました。亡くなった一年生の生徒の中には、「8.6ヒロシマ平和の夕べ」のスタッフの竹田さんのお兄さんもいらっしゃいます。

そして、このブログにも時々登場して頂いている、横浜市原爆被害者の会の事務局長、松本正さんの弟さん勝さんもいらっしゃいます。当時、松本さまは広島二中の三年生でした。一年生の弟勝さんは、「お兄ちゃんが迎えに来てくれる」と言いながら、亡くなってしまったと。

それから71年もたって、それぞれの身内がこんな風に繋がっているということに、御縁と言うか、因縁というか、不思議なものを感じます。

松本さまとは、昨年の6月の川崎での「8.6ヒロシマ平和の夕べプレ企画」でご一緒しました。その時のブログはここにあります。このマイクを持ってお話し下さっているのが松本さまです。

___1597

その松本さまが、今年の8.6の広島に神奈川から来られるとのご連絡を頂きました。8月5日から来られて、6日の祈念式典に出られたのち、解散なのだけれど、「8.6ヒロシマ平和の夕べ」に出席したいと。そして、その後「灯篭流し」をしたいのだと。松本さまは、勝さん等、10人のお身内を原爆で亡くされました。その10人の灯篭を流したいのだと。これまで、ずっとその思いを持っていたと。

そして、それなら、松本さまにも「平和の夕べ」でお話し戴きたいとお願いし、心よく引き受けて下さいました。ですから、今年の「8.6広島平和の夕べ」のプログラムに松本さまのお話が追加されます。

松本さまは、一昨年まで、一切の証言をしなかったのだそうです。でも、現在は精力的に中学生や高校生に被爆の証言をなさっています。そして、こんどは広島で私たちにお話し下さいます。弟さんのこと、そして、わざわざ広島に疎開してきて、その家が建物疎開で壊されるために爆心地近くに転居して、爆死されたお姉様一家のこと等、きっと沢山お話し下さることと思います。

ありがたいことです。心して聴きましょう。

私は、いま東京です。午後講演です。また明日ご報告しますね。

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (1) | トラックバック (0)

いしぶみコンサート、東京公演のご案内です。

すでにフェイスブックでご存じの方もおありでしょうが。東京でのレクイエム「碑」のコンサートのご案内です。

全滅した広島二中一年生の後輩、広島観音高校音楽部OB合唱団の合唱。また、ポプラ社の「いしぶみ」を朗読するのは、我が観音高校演劇部の後輩、東京で頑張っている蒔村 三枝子さんです。ぜひ多くの方に聴いて頂けますように。

00

...
合唱と朗読による いしぶみコンサート
2016年7月10日(日)16時開演(15時30分開場)
早稲田奉仕園スコットホール
http://www.hoshien.or.jp/map/
料金:1,500円 (全席自由)

演奏曲:森脇憲三…混声合唱のためのレクイエム「碑」
  朗読:広島テレビ放送編…いしぶみ/広島二中一年生全滅の記録<ポプラ社発行>
  朗読:蒔村 三枝子(観音23期)
ピアノ:奈良 康佑(観音29期)





『4.川の中で

光にめしいた
友達が手を組んで
子らの丸き輪が
地獄の川に浮かぶ

浅瀬にとりつき
石垣をよじのぼる
生徒に手をさしのべる
傷ついた先生

きみは傷が軽い
元気を出して
がんばって
家に帰るんだ

わたしはもう
歩けない
だがきみは元気だ
さあ 握手して

焼かれた広島の
業火が 炎が
川面に吹きつけ
流れはわきたつ

傷重く力尽き
疲れた子がひとり
友の手をはなれて
叫びながら流れる

狂気の荒れる
地獄の川で
子らはけなげに
せいいっぱいうたう

日本ばんざい
お母ちゃんばんざい
もう一度あいたいよ
お母ちゃんあいたいよ』



『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (1) | トラックバック (0)

新井、2000本安打達成、Tシャツ。

カープ、新井が2000本安打の記録に迫っている時、後25本という時から、ずっとTシャツが売られていました。しかも、限定300枚。毎回、デザインが異なります。しかも、売り出しと同時に即、売り切れ。とても買えないなあと思っていた時、後7本のTシャツがどうしても欲しいと思いました。それは、こんなの。

Fullsizerender_221

7本だから、背番号7の堂林とコラボ。漫画家の石田敦子さんの描き下ろしデザイン。堂林が「あらいさあああん!」と叫んでいます。漫画がカラフルでかわいくて。

売り出しは、朝10時。ネットかファックスで。

ネットでの買い方をシュミレーションして、10時を待ち構えました。もちろん、診療中。スタッフに10時になったら教えてと頼んで。

そして、時間。あら、通じない。通じない、通じない。やっと通じた!!そしたら、「完売」だって。もう、本当にがっかりでした。でも、いつまでもこれが諦められなくって。そうだ、オークション。いくつかのオークションを当たってみると、いくつか出ていました。これに応募しようかなあ、でも、高いなあと迷っていて。

そして、ついに新井が2000本を達成。バンザイ。そして、思いました。達成したら、きっと記念のグッズが出る。それも、決して限定300枚なんかじゃなく、どっと、大量に出るはずと。で、待ちました。そしたら、出ましたね。それも赤いの。白ではなく、赤。数の限定はありません。で、オークションをあきらめて、頼みました。この二枚。

001003

一枚目のはこれです。もう、いろいろな新聞等に出されている写真ですが。新井に内緒で選手、コーチがみんなでこれを着たと。新井一人知らなかったので、びっくり。胸には、新井が舌を出している写真と、「一歩ずつ大台への階段をのぼっています。」の文字。

Img_4067

びっくりしている新井を前から見た写真。Tシャツの後ろには、球を取り損ねてころぶ新井の写真と「まさかあのアライさんが・・・。」との文字。これは、黒田氏が考えたデザインだとのこと。

Img_4092
カープのこんな雰囲気いいですねえ。他にもこんな明るい球団があるのかしらというほど。

私が注文したTシャツは、前に顔写真は舌は出さない笑顔と、「のぼりきりました!」の文字が上書きされています。後ろは選手が着たのと同じなのですね。

もう、楽しい!!もう一枚のは、いろいろな表情の新井の顔が。二枚とも、現在入荷待ちだそうで、届くのに今しばらくかかると。はい。楽しみに待ちます。

今度、息子たち、孫と一緒に横浜球場に行きます。それまでには、間に合ってねと祈っています。

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (1) | トラックバック (0)

1971年の原爆忌。佐藤首相。

8.6ヒロシマ平和の夕べのスタッフの山下氏が発掘して送ってくれました。初めて見ました。こんな動画があったなんて。本当にびっくりして、また感激しました。

45年前、時の総理が初めて広島の祈念式典にやってきました。私はまだ学生。医学部の5年生。何の医者になるかを考えている頃でした。同時に被爆二世たちと被爆者青年同盟を作って活動していました。

土砂降りの雨の中のデモ。私たちはデモの先頭でした。機動隊に殴られたりけられたりしながら平和公園に近づくも、当然、厳しい警備で公園に入ることはできません。と、突然、デモの指揮をしていたK君が私たちに向かって、大きく両手を振りました。そして「カイサーン、カイサーン、バラバラに公園にはいれー」と。何の打ち合わせもなかったので、一瞬何のことかと思うも、ああ、そうなのかと理解しました。即座に私たちは、バラバラにそれぞれが走り始め、公園に入りました。

式典の周囲も、私服の警察官で一杯で、中には入れません。いつの間にか一緒になっていた広島女子大の仲間と二人、座り込んでいました。気づかなかったけれど、靴は脱げ、髪は雨で張り付き、ひどい姿だったのでしょう。座り込んで膝を抱えたまま、私たちは、周囲の方たちに呼びかけました。

「みなさん、私たちは被爆者青年同盟です。今日、佐藤首相が初めて広島にきました。この26年間、被爆者は、次々と原爆症に倒れ、厳しい生活を強いられています。」などと。私たちのか細い声に気付いた人たちが、私たちの前にしゃがんでくれました。そして、顔を見ながら、耳を傾けてくれました。次々と人は増え、輪ができました。二人でかわるがわる、必死で話しかけました。

後で知ったのですが、早稲田の女子学生が、花輪を持って慰霊碑に近づく佐藤首相に走り寄って体当たりして、引きずられて行き逮捕されました。母はあの女性が私ではないかと、胸を痛めたそうです。

その後、資料館から出てくる首相を「帰れ帰れ」のシュプレヒコールをしながら待ち構え、出てきた首相の車を取り囲みました。一人の仲間が車のドアに手を差し込み、閉められないようにしたのを覚えています。

この後、広島駅で佐藤首相に新聞記者の夫が声をかけると、「せっかく来てやったのに」と真っ赤な顔で言ったと。

被爆後26年。まだまだ被爆者への対策は十分ではなく、このフィルムには原爆スラムと呼ばれた地域も出てきます。

当時、おりづるの会のMちゃんが話しています。お母さんを白血病で亡くし、父親とおばあちゃんと生きていた少女です。貴重なフィルムです。ぜひご覧くださいませ。

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (3) | トラックバック (0)

姉は「嵐」私は「谷龍介」。

昨日は、広島グリーンアリーナで「嵐」のコンサートでした。我がクリニックでは4人が応募して、3人当たったと。内一人は姉なのだけれど、姉の娘、姪は落選だと。まあかわいそうに、代わってあげなさいよと言ったら、それがダメなのだと。顔のチェックがあるのだと。それに、グッズを買うのでも、チケットがある人やあらかじめ申し込んで当たった人しか買うことができないのだと。えらくキビしいものです。チケット、座席も、前日にメールで送ってくるのだと。すごいIT化です。昨日の6時からのコンサートに行くスタッフは、午後4時に早引けして行きましたよ。姉も。

そして、私は、「谷龍介」の母の日コンサートでした。9年前からのファンであった私も、ここしばらくは、いつも私の講演等と重なって、コンサートに行くことができませんでした。でも、昨日はO.K.。久しぶりです。

Img_4142

会場一杯の沢山の人。おいしいディナー。

コンサートの始まりは、会場の壁三方に映像が。会場全体が海になって魚群が泳いだり、いるかが飛んだり、やがてカーネーションが降ってきて、その内、花が一杯。素晴らしい演出でした。

Img_4130

久々の龍ちゃんは、また一段と歌がうまくなって、スリムでかっこよくなって、少し渋さも出てきて、もう素敵。舞台を降りて歌いながら握手をして回る時の一番は、私でした。そして、歌の間に、私に「先生、お久しぶりです。お会いしたかった」と言ったのです。もう、胸キュンで。涙が出そうでしたよ。

Img_4160Fullsizerender_220


特に、こういう表情がなんとも言えません。

Img_4157

私のテーブルは、京都や三重、岐阜、東京等の県外からのファンの方々。中でも、お隣の京都からの方は、大のカープファン。このDNA戦は、三日連続して球場に行くのだと。今日は、遠方からの方たちみなさんと、龍介さんも一緒に球場に行くのだそう。いいなあ。隣のテーブルには、大学病院でお世話になっているドクターもいらっして、お互いびっくり。全国に根強いファンのいる谷龍介さん。

アンコールで最後に「花は咲く」を歌ったのですが、歌詞を配られて、みんなで歌いましょうと。その時、私は昨年夏、性教育指導セミナーで「カーフ゜」の歌を歌って以来、まったく歌を歌っていないことに気付きました。なんと。

素晴らしい歌、愉快なトークを堪能し、すっかりフェロモンに当てられました。楽しかった~。谷さん、後援会の方たち、同席の方々、みなさま、ありがとうございました。!!

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (5) | トラックバック (0)

再開発?びっくり仰天です。

 いつまで診療を続けるか、母をどうするか、私たちの老後はどうするか、頭が痛いことです。私がしたいこと、東京に行って孫の世話をすること、でもその前に母のお世話があるし・・・。さて、等と考えているこの頃、びっくりの情報でした。昨日クリニックにやってきた甥が教えてくれました。

なんと「広島市中区紙屋町2丁目2番」が再開発されるかもしれないと。いえ、もう「再開発準備組合」が作られ、着々と計画が進んでいるようです。それが載っている日刊建設工業新聞のウェブ版がここにあります。

2
ひゃー、紙屋町2丁目2と言うと、もろに私のクリニックが入っているビルがあります。この一角、エディオンの裏の通りから、本通りまで。県民文化センターの前の道路から電車道まで。サンモールを含んでいて、準備組合の代表はサンモールの社長みたい。下は駐車場や商業施設、上にはマンションという巨大なビルで、2020年に着工し、2023年に竣工と。

ワア、全然知らなかったわあ。ということは、3年間、私たちはどこかに引っ越しておくと言うこと?でも、大家さんには何にも聞いていないし。

電車道沿いには、内科や泌尿器科や脳外科が入っているビルもあるし。そこのドクターたちもみんなどこかに引っ越しておくと言うこと?

で、新しいビルでは、きっと医療フロアもできるのでしょうね。

でもねえ、いまから7年後に新しいビルでと言ったって、私にそこまでエネルギーがあるとは思えません。お金もかかるでしょうし。

今は知ったばかりで、さあ、どうなる?どうする?まだなんにも分らないけれど。

でも、最大の疑問。ここは原爆ドームからどれくらいの距離があるのでしょう?世界遺産のバッファーゾーンにはかからないのかしら。もしかかっても、かき船みたいに、強引にということになれば、いやだなあ。

そんなことを呆然としながら、つらつら思っています。

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (3) | トラックバック (0)

偶然に生かされている。

昨日、無事に広島に帰って来ました。

帰る準備をしていたら、テレビで何度も熊本の「震度4」の情報が流れます。一体、どうしてこんなに続くのだろう、日本だけでなく、地球全体で変動が起こっている、等と夫と話していたら、いきなり「ドーン」ときました。ガタガタ、ギシギシという家の音も不気味で。これはかなわん、こんなのが何度も起こるのでは、神経も参ってしまうし、家や家族をなくした方たちは先行きも不安でしょうし。本当に大変だと痛感します。

自然相手の災害は如何ともしがたいこともあるけれど、でも、これが原発となるとそうはいきません。92歳の母でさえも、川内原発、伊方原発の心配をしています。断層の真上にあって、ここに何かあると、この家ももう住めなくなると。もう、原発がなくても電気はやっていけると分かったんだから、早く原発をやめたらいいのにと。

これだけ熊本・大分の地震が続くことを受けて、原発についての世論は変わってきているか、ぜひ憲法や戦争法案だけでなく、原発についても世論調査をしてみて欲しいものです。

家に帰って、連休中の交通事故について、改めて新聞を読みました。また起こった、渋滞中の車の列にトラックが突っ込んだという、悲惨な事故。いつも大分に帰る時には、診療を終えて出発して、下松のインターでごはんを食べて、ちょうどこの時間の頃、事故があった現場を通ります。もしかすると、今回の事故にあったのは、私だったかもしれません。

それから、島根の邑南で、乗用車に上から1メートルもある石が落ちてきて、助手席の安佐南の女子大学生が亡くなったという報道。強い雨が降って、地盤が緩んでいたのでしょう。いくら「落石注意」と言ったって、どうやって注意したらいいものか。

ちょうどその時に下の道を通っていたという、何ともかわいそうな事故です。これも、もう少し、何秒かずれていたら、亡くならなくって済んだことなのに。

そんなことを考えたら、私が今、この歳まで生きていられるのは、まったく、偶然が重なってのことだと思えます。偶然、生かされている。そう思います。

連休の前半、出雲に墓参りに行った時に寄った、私の好きな高野の道の駅。平日の雨なので隙いていました。

Img_4012

レストランでは、薪ストーブの準備がすっかりできていました。炊いたら、温かいでしょうね。私が食べた「たかの御膳?」。地産地消でうれしいです。

Img_4007 Fullsizerender_219

昨夜帰ってから2時までかかって、レセプト点検終了。今日からまた診療です。

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

別府です。

大分、別府で忙しくしています。帰るのが遅くて(それでも、精いっぱい早く帰ったつもりでしたが、待つ身となれば、限界だったのでしょう)機嫌の悪かった義母も、昨日は、機嫌もなおって、楽しく過ごせました。一緒に巨人戦を見ました。母は大の巨人ファン。私は、カープが勝って母の前でバンザイをしました。母は、巨人の選手は気概がないと言います。

地震は、熊本は頻回ですが、ここはほとんど揺れません。私は、もし大きな地震で家がつぶれたら、一階より二階の方が助かるから、二階に寝ると言いました。夫は、すぐに飛び出せるように、一階の方がいいと言います。どっちがいいのか。結局一階で寝ましたが。

到着した日の晩御飯は、北海道展でお弁当を買っていきました。昨日の晩御飯は、スーパーマーケットで小さいけれど、とてもきれいなカワハギがあったので、煮つけにしました。後は、庭の畑の自家製の野菜たちです。ゴマが一杯かかったのは白和え。マヨネーズのは、玉ねぎとゆで卵のサラダ。ごはんは、いつも精米したてだし、前回帰った時に美味しいごはんがたける電気釜を買ってあげたので、とてもおいしくて。我が家にもこんなお釜がほしいです。

Img_4103

闘病中の兄の所に行ったり、庭や前の道路の掃除等、少々へばっています。持ってきたレセプト等、まったく手つかずです。どうしよう。

庭の様子です。さくらんぼ。少し収穫しました。上の方は、鳥さんに。もう20年間代替わりしながら、それでも頑張って咲いているラベンダー。外へ外へと太陽を求めてでしょうか。

Img_4109 00img_4110

 その昔、父が生前植えてくれたアジサイ。つぼみです。いつもこれが咲いている所は見ていません。レモンもつぼみが一杯。レモンの花はレモンの香りがします。つぼみも少しだけ香ります。

Img_4112 Img_4113

今日もお昼を母と食べてから、広島に向かいます。明るい内に帰り着きたいのです。渋滞はするでしょうが、事故がありませんように。そして、明日までにレセプト!!です。

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (1) | トラックバック (0)

ヒロシマ憲法集会の落合さんのお話

憲法記念日の昨日、憲法集会に参加しました。

始まる前には、平和の夕べのスタッフ5人でチラシを配りました。雨と風の中、傘をさして参加してくる方たちにチラシを配るのは、とても難しいけれど、自分は濡れてもチラシは濡れない様に。よく受け取って頂きました。私には、長年選挙の応援などで培った、ビラを受け取っていただくコツがあります。「こんにちわー」と、明るく正面から。「よろしくお願いします」と目を見ながら渡します。

Fullsizerender_216_2

会のはじめは、尾道の「LIVES」のミニコンサート。男性二人の演奏、歌ですが、これが素晴らしくて。「泥棒が国民ににわからないように○○をしている。」などと、オリジナルの歌は身につまされますし、なんといっても。「アメージング」。これに、途中から峠三吉の「父を返せ、母を返せ・・・」の詩を歌詞にして歌ったのですね。聴いていて鳥肌が立ちました。

今回のこの会は、これまで別々に取り組みをしていた民主党(今は民進党)、社民党、連合などと、広島県9条の会ネットワークや、共産党系の各団体等が一つになって開かれたものです。

戦争をさせないヒロシマ1000人委員会の佐古正明さん、広島県9条の会ネットワークの石口俊一弁護士のあいさつの後、いよいよ我らが「落合恵子」さんの講演でした。

落合さん、いいですねえ。相変わらず、張りのある大きな声、明快でわかりやすく、かつ胸を打つ発言。

Fullsizerender_213

私は、後ろの方からしか写真が撮れないので。緑の前で小さく写っているのが、落合さんです。

落合さんは、北海道五区の補選を取り上げ、みんなが一つになれば、大きな力にすることができると言われました。そして、大切なこと。この場にいる人たちは、みんな志を一つにした人たち。分かり合える人たち。世の中は三つに分かれると。一つは、憲法を変えようとする人たち。一つは、この場にいる人たちのように、憲法は守ろうとする人たち。そして、もう一つ。「わかんなーい、難しいことは考えられなーい」という人たち。その人たちに向けて、私たちがどう説得していくか。それを本気で行動しましょうと。

いわゆる無党派層と言われる人たちですね。そう思います。今回のNHKが行った世論調査、今回のといっても二週間以上前にしている調査をなぜ今まで発表しなかったのか分かりませんが、「憲法を変えるべき」という人たちが大幅に減っていると。あまりにひどい安倍政治がだんだんと国民にも見えてきているのではと思います。でも、やっぱりわからないという人たちが多いのですね。

落合さんは「今日の、雨にも負けず」を「安倍にも負けず」にしましょうと。

作家でもある落合さんは、原爆詩人の「栗原貞子さん」の「生ましめんかな」や、山形の農民詩人の詩等を読み上げながら、実に説得力のあるお話をされました。人々が傷ついて横になっている地下で赤ちゃんを取り上げ、亡くなっていった産婆さん。この場に思いを馳せることができる政治家がいるか、と。

農民詩人の詩は、おばあさんのことを書いた詩です。戦争で二人も息子を亡くしたと。6人の孫が残されて、それらを育てるために、懸命に働いたと。字もかけない、読めないおばあさんの思いの代弁です。最後は、日の丸はなぜ赤いかと。「二人の息子たちの血で赤い」と。

Img_4087

会が始まる前に、一昨年の「8.6ヒロシマ平和の夕べ」に来て、お話頂いたお礼に行きました。山下氏がツーショット写真を撮ってくれました。また、お宝の写真ができました。元気な落合さんを見習って頑張りましょう。少し、力が出てきました。

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (3) | トラックバック (0)

三連休・憲法集会・北海道ラーメン

今日から私も三連休です。でも、雨ですねえ。強風、雷雨もですって。せめて雨は午後の遅くからになってくれたら。でも、この頃の天気予報は本当に当たるのです。

今日は、憲法記念日。この集会に参加します。

001
「8.6ヒロシマ平和の夕べ」のチラシも配ります。雨の中をどうやって配りましょう。傘さして配っても、参加者も傘をさしているので、なかなか受け取ってもらえないかも。何より、多くの方が参加して、落合さんのお話を聞いて頂けたらいいのですが。

その後、急いで九州大分に向かいます。雨と雷の中を地震のまだ収まらない方に向かって。何とか早く到着して、今日の夜は義母と一緒にごはんを食べるつもりです。

せめて、もう、震度5強なんて地震は起こらないでほしい。もう、熊本、大分の人たちはくたびれ果てていますもの。

今日のご飯は、そごうの北海道展でなにか買っていくつもりです。お土産も北海道の物を。いつも広島の物だと、同じような物ばかりなので。

その北海道展ですが。ラーメンがおいしいです。北海道展では、北海道のいろいろなラーメン屋さんが来ます。時には、これは私たちには無理、と言う様なのもありましたが、今回のはとてもおいしいです。だから、二回も食べに行きました。一回目は辛みそラーメンにしました。二回目はふつうの味噌ラーメン。

Fullsizerender_212Img_4066


辛みそラーメン、運ばれて来ると真っ赤。一口すするとむせこんでしまいました。辛い辛い。辛いけど、おいしいです。味噌ラーメンもスープに甘味があり、絶品です。それに、どちらのもチャーシューがとろとろで、これも美味です。日頃「ちから」の中華そばミニばかりを食べているので、私には量が多すぎて食べきれませんが、残すのが残念でした。

さて、大分には、レセプトやスライド原稿の資料を持って行きます。母とのおさんどんを三食ともするので、あまり時間はないかもしれませんが、夜中に頑張らなければ。連休明けには、早々に東京で話をすることになりました。貴重な機会ですので、大切に話をしたい、そのための準備をしっかりしておこうと思います。

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

友人の死・お葬式に思ったこと。

 昨日は、友人のお葬式に行きました。おかしいなあ、ここのところ連絡がないなあと思っていたら、いきなりの訃報でした。

 光市の道上病院の事務長であった藤田賢さんです。観音高校で一緒でした。その後、私が大学病院時代、広島市内の産婦人科にアルバイトに行っていたら、そこの事務長になっていました。事務長として腕を振るって、経営がずいぶん助かったと当時の院長にお伺いしました。

その後、道上医院の事務長に。産婦人科に小児科も作り、大きな病院にすべく奔走しました。私は、その時その時に相談に乗っておりました。私自身もお手伝いに行っていました。

彼の尽力で素晴らしい病院になりました。中でも、働く人たちにやさしい職場。「女性が働きやすい職場」「妊娠、出産をしても無理なく働けるように」という職場作りをしました。

ある日、突然、本当に突然に院長の急死。その夜まで働いていて、夜中の壮絶な亡くなり方でした。院長は、カリスマと言えるほど、ハンサムで背も高く、本当にかっこいい人でした。それに医学部の前には心理学を学ばれた方で、優しいし、とても人気がある方でした。

その院長が亡くなってから、藤田氏の腕が問われました。いろいろと悩んだ末でもありますが、まず、院長の保険から、屋上にずらりと太陽光発電のパネルを付けました。その後の経営が少しでも楽になることを目指してのことです。その他にも、人事をはじめ、いろいろと。

院長に続き、名事務長も亡くされて、病院も大変だと思います。でも、彼は院長と違い、少し亡くなるまでに時間がありました。それが救いになったかどうか。

Fullsizerender_211
お葬式は、それはそれは多くの方たちの参加でした。院長と同じ式場、同じ部屋で行われました。

弔辞も国会議員、院長、市長、ライオンズクラブの会長とそうそうたるものです。みなさん、ありきたりでなく、自分の言葉で暖かい弔辞でした。藤田氏が、そういうお付き合いをしてきたということでしょう。中でも、亡くなった日に最後の面会をした市長の言葉には、涙を禁じられませんでした。彼は、最後の力を振り絞って「ありがとう」と言ったと。

それと、御長男の言葉から、彼がご家族にとても優しい人であったということもよくわかりました。

堂々たる体格だった彼は、痩せていました。でも、安らかなお顔でした。

帰り、運転をしながら、つらつら思いました。私も、同級生が次々と亡くなるという歳になりました。いつ自分の身に起こることかわからない、そのつもりで生きなければと。その時に後悔をしないように、今すべきことをする、少々無理をしてでも言いたいことは言う、会いたい人には会う、いつまである命かわからないけれど、そんな生き方をしようと。そう決心しながら帰りました。

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (1) | トラックバック (0)

益田小蝝さん・益田遙先生

広島YWCA平和活動部会主催の講演会のご案内です。

00

助産師益田小蝝さんは、被爆の惨状の中で赤ちゃんを取り上げ続けられました。その生き方に触れることができる講演会になるでしょう。このような、地道に生きて来た方たちのおかげで、今の広島があるのだと思います。

益田小蝝さんは、広島の合唱指導の第一人者、益田遙先生のお母様です。

話がそれるようですが。益田遙先生が指導を続けて来られている、被爆死した広島二中の生徒たちのことを歌った合唱「レクイエム碑」。毎年、観音高校音楽部OB会合唱団によって歌われています。

今年は、東京でも開催されます。

7月10日
早稲田スコットホール(東京都新宿区西早稲田2-3-1)
『いしぶみ―広島二中一年生全滅の記録―』の朗読と「混声合唱のための『レクイエム碑』」のコンサートです。

今年の広島での祈念コンサートは8月7日(日)東区民文化センターにて開催されます。
(いつもは、8月6日の前の日曜日に県民文化センターで開かれていましたが、今年は日時・場所とも異なりますので注意です)

益田小蝝さんと、益田遙先生、お二人に共通する生き方を見習いたいと思います。

このレクイエム第8章「全滅」。観音高校音楽部OB合唱団でどうぞ。指揮はもちろん、益田遙先生です。

『渋江君は
がん木の石段で二日目の朝
涙の顔で
朝日をおがんで死んだ

手を取りあって
励ましあって
逃げた羽白くんは
南くんと道ばたで
並んで息絶えた

お寺の救護所で
坪木君はいじらしく
夢で親にあうから
いいよと
静かに息をひきとった
(略)
日がのぼり 落ち
五日目の朝
最後の一人が
桜美君が死んだ

8月6日が彼の誕生日
13歳と5日を
せいいっぱい生きて
桜美くんは死んだ

父の歌う
好きな軍歌を
ききながら
父を見上げて死んだ

三百二十二の
広島二中の
1年生はみんな
原爆の中に死んだ』

『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。

広島ブログに参加しています。このバナーをクリックすると、
私のポイントになります。ご協力よろしくお願いします。
広島ブログ

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2016年4月 | トップページ | 2016年6月 »