1971年の原爆忌。佐藤首相。
8.6ヒロシマ平和の夕べのスタッフの山下氏が発掘して送ってくれました。初めて見ました。こんな動画があったなんて。本当にびっくりして、また感激しました。
45年前、時の総理が初めて広島の祈念式典にやってきました。私はまだ学生。医学部の5年生。何の医者になるかを考えている頃でした。同時に被爆二世たちと被爆者青年同盟を作って活動していました。
土砂降りの雨の中のデモ。私たちはデモの先頭でした。機動隊に殴られたりけられたりしながら平和公園に近づくも、当然、厳しい警備で公園に入ることはできません。と、突然、デモの指揮をしていたK君が私たちに向かって、大きく両手を振りました。そして「カイサーン、カイサーン、バラバラに公園にはいれー」と。何の打ち合わせもなかったので、一瞬何のことかと思うも、ああ、そうなのかと理解しました。即座に私たちは、バラバラにそれぞれが走り始め、公園に入りました。
式典の周囲も、私服の警察官で一杯で、中には入れません。いつの間にか一緒になっていた広島女子大の仲間と二人、座り込んでいました。気づかなかったけれど、靴は脱げ、髪は雨で張り付き、ひどい姿だったのでしょう。座り込んで膝を抱えたまま、私たちは、周囲の方たちに呼びかけました。
「みなさん、私たちは被爆者青年同盟です。今日、佐藤首相が初めて広島にきました。この26年間、被爆者は、次々と原爆症に倒れ、厳しい生活を強いられています。」などと。私たちのか細い声に気付いた人たちが、私たちの前にしゃがんでくれました。そして、顔を見ながら、耳を傾けてくれました。次々と人は増え、輪ができました。二人でかわるがわる、必死で話しかけました。
後で知ったのですが、早稲田の女子学生が、花輪を持って慰霊碑に近づく佐藤首相に走り寄って体当たりして、引きずられて行き逮捕されました。母はあの女性が私ではないかと、胸を痛めたそうです。
その後、資料館から出てくる首相を「帰れ帰れ」のシュプレヒコールをしながら待ち構え、出てきた首相の車を取り囲みました。一人の仲間が車のドアに手を差し込み、閉められないようにしたのを覚えています。
この後、広島駅で佐藤首相に新聞記者の夫が声をかけると、「せっかく来てやったのに」と真っ赤な顔で言ったと。
被爆後26年。まだまだ被爆者への対策は十分ではなく、このフィルムには原爆スラムと呼ばれた地域も出てきます。
当時、おりづるの会のMちゃんが話しています。お母さんを白血病で亡くし、父親とおばあちゃんと生きていた少女です。貴重なフィルムです。ぜひご覧くださいませ。
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コメント
もしかして、河野先生のご主人は、大物新聞記者ですか?現総理の大叔父を怒らすなんてすごいですね、関心します。
投稿: こうのみよこ | 2016年5月 9日 (月) 12時31分
河野先生のご主人は、オバマ訪広で、世界の最高権力者で、戦勝国の大統領にインタビューしてみたらいかがですか?おもしろいと感じますがどうですか?核兵器というものを使い、ファシストを撃滅しながらも、ファシスト撃滅しながらも相手の国の法律すべてをアメリカ言いなりの法律にしたてあげ、東西冷戦を作り上げ新たな覇権主義を作り上げたからこそそれをいかに是正していくのが後世の義務だと思ってます。アメリカはファシストを撃滅しながらも原爆投下してファシスト政権をたおしたけれど、自分たちに都合のよい政治にしたてあげたのが、GHQ焚書にあらわれているのだから、アメリカ軍政についてある程度謝罪すべきだとほんらいは感じます。
投稿: 愛ちゃん | 2016年5月 9日 (月) 12時49分
45年前のあの日の式典、私は慰霊碑の近くのラジオ中継席にいました。佐藤首相と10Mほどの近さでした。土砂降りの大雨は芝生にたまり、靴はびしょ濡れでした。
式典のさなか、佐藤首相に駆け寄った学生を阻止しようと私服警官が飛びつき、もみ合った姿が今も目に焼き付いています。そして私の報道席の真後ろで、突然学生風の男性が何かを叫びながら飛び出し、私服の警官に組み敷かれました。芝生の雨の溜り水に横向きに顔を押し付けられた男性は、口に含まされた雨水をブクブクと吐きながら「砂糖帰れ!」「安保粉砕!」と叫んでいました
遠い日の忘れられない思い出ですが、半世紀近くを経て今、あの時の佐藤首相の顔が安倍首相の顔とダブります。
投稿: 無冠の諦王 | 2016年5月 9日 (月) 12時57分