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出雲大社へ。

出雲の平田のビジネスホテルに一泊して、温泉「ゆらり」に入りました。お墓詣りの時には、ここに入るのが決まりになっています。

そして、食事は同じ平田の「おかや」さんで。そこでのお刺身に見入りました。

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蝶が止まっています。薄く切ったニンジンの細工です。ニンジンの模様が蝶のはねの模様になっています。

それも、立体。横から見ると、蝶の体もちゃんと作ってあります。立体を解いてみました。こんな切り方が美しい蝶になるのですね。小さな田舎の町にもこんな腕の料理人がいます。


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昨日は、出雲大社に行きました。祖父母の時代から数えきれないほど出雲には行っていますが、大社に行ったのは、何十年前でしょうか。太い綱以外には何も覚えていませんでした。

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神社の若い方たちが九州の地震災害の募金をしていらっしゃいましたので、みんなで募金をしました。神楽の奉納もしていましたよ。

出雲でのいわゆる観光は、この出雲大社だけで、広島に帰りました。帰り道、トンネルの中で乗用車が横倒しになったひどい事故に遭遇して、震えました。大分の行き帰りも気を付けなければ。今日は診療です。

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憲法集会のご案内です。

 今日から連休の方も多いでしょうね。私は、昨日と今日の二連休。こよみ通りの診療ですので、明日は診療、そして月曜日も診療です。

5月3日、憲法記念日。広島でも憲法集会が開かれます。これに参加して、3日の内に大分に帰ります。(大分の我が家も冷蔵庫が動いたり、電気スタンドが机から落ちたり、戸棚が開いて茶碗やコップ等が倒れているらしい。まわりはブルーシートだらけなのだそうです。母のすむ所は、ほとんど影響はないと。やはり断層の上に立っているかどうかで違うようです。)


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敬愛する落合恵子さんの講演です。これは聴かなければ。ここで、「8.6ヒロシマ平和の夕べ」のチラシも撒かせて頂くつもりです。

この日、もう一つの集会が連動して開かれます。

Img_4006高校生平和ゼミナールも共催だと。若い人たちがこのようなイベントに参加するのは、素晴らしいと思います。繋いでいかなければ、と思います。



















私は今出雲にいます。両親のお墓詣りにきました。霧、小雨、大雨、時に陽がさしたり、目まぐるしく変わるお天気の中を来ました。山陰はひどく寒いです。風もきつく、震えています。

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祭壇とお墓の前でのりとを挙げてもらいました。「お父さん、お母さん、いろいろ大変なんよ」と、心の中で話をしました。今日、早めに広島に帰ります。

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「8.6ヒロシマ平和の夕べ」ご案内3.池田精子さんのお話

「8.6ヒロシマ平和の夕べ」でリレートークをして戴く池田精子さんについて少し補充をしないといけません。

池田精子さんには、2010年の「8.6ヒロシマ平和の夕べ」で、お話して頂いています。(この時、私は司会をしていたので、池田さんがお話される時の写真は撮れていません。会が始まる直前の写真です。すみません。)


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『広島女子商業学校1年生12歳の時、学徒動員として、立ち退き疎開家屋の片付け作業中に被爆、光と熱線で大やけどを負い生死をさまようも、ご両親の懸命な看病で命を取りとめました。

でも、少女の肌は一瞬で変化し、その後の肉体的・精神的苦痛は言葉では表現しつくせないほどひどいものでした。お顔のケロイドは、外に出ると赤鬼が来たと言われ、だんだんと心も荒んできたと。そんなある日、学校をさぼって家に帰ったとき、お父さんが近所の人と話ているのをこっそりと聞いたのだと。そのお父様の深い愛に心打たれて、徐々に立ち直っていかれたのだと。

その後、17回にも及ぶ顔の手術を受けられました。

精子さんは日本ではもとよりアメリカやイタリアなど海外での証言活動も多数行ない、人間の滅亡につながる核兵器の恐ろしさ、戦争の悲惨さについて強く訴え続けていらっしゃいます。』

池田さんは、被爆直後、国や自治体からの援助もなく、被爆者の多くが、経済的にも、身体的にも苦闘を強いられ、次々と亡くなっていく、そんな時から、被爆者運動の原点でもある活動を始められました。

その一部を2013年4月11日からの私のブログに何回かに渡って書いております。「核兵器のない明日を願って-広島県被団協の歩み-原爆被害者団体協議会」に収録されている座談会です。さらにその一部を、ここにコピーします。

池田さんたちは、のちに原爆一号と言われた吉川清さんの家に集まり、つらい立場を話し合いました。それが唯一の慰めだったと言われます。その集まりも「アカの集まり」だと、公安に付け回されます。その集まりが、やがて次の被爆者大会につながっていきます。

池田 初めての原爆被害者大会が千田小学校(広島市立)で開かれたのが、1956年(昭和31年)3月18日でした。その時はお互い肉親でもないのに肉親以上の者が集まったように親近感を覚えたのを昨日のことのように思い出します。それまでは原爆という言葉を使うことはタブーでしたし、結婚したら「ようあんな者をもらってから」と言われ、子どもがいても「離婚して帰らせ、帰らせ」とというようなひどい仕打ちを受けて、ただ我慢して我慢してうつむいて生活していましたから、大会に集まった被爆者たちはお互い手を取り合って泣き合いました。私も当時まだ若かったですから、年配の方から「あんた、本当によう我慢してきたね。よう生きたね」と励まされて、嬉しくて嬉しくてウォンウォン泣きじゃくりました。

 この大会で、国会請願しようということになって、3月20日に45人で白いタスキをかけて第一回の国会請願に行ったんです。私と阿部さんも着物を着て、下駄を履いて参加しました。東京では鳩山首相の音羽御殿を訪れ、夫人にも会ったんですが、私はいつものように陰の方で顔を隠すようにしていると、伊藤サカエさんだったか船越の婦人会長さんだったか、「あんたら一番前に行きんさい」と一番前に出さされたんです。「見世物にせんでもよかろうに」と思いながらも一番前に立つと、年配の人が私たちを紹介して「この原爆で焼かれた姿を見ちゃって下さい」と切々と訴えていました。

その後、県出身の池田隼人さんの私邸も訪ね陳情しました。この請願行動を終えてから、「組織を作ろう。組織がなきゃ何もできん」という話になりまして。それで私も早速、当時住んでいた畑賀の役場で被爆者の名簿をもらい、四十何人かの被爆者がいたんですが、一軒一軒通知を出して集まってもらいました。すると、よく集まりまして、四十人近くが集まってくれて、被害者の会をつくることができました。』

『藤川 
だから被爆者援護を求める請願行動は熱心にやりましたよ。請願のための上京費用は全部自持ちでね。それで、ほとんどの者が宿泊代節約のために夜行列車を利用して上京したもんですよ。汽車の中で寝て、東京駅で顔を洗って、食事はむすびですませて、そして、そのまま手分けして議員会館に行ったり走り回り、頑張ったもんですよ。

池田 そうでしたね。広島を午後二時発の急行「安芸」というのがあって、翌朝八時に東京に着くんです。駅で顔を洗って、国会に行きましたよね。』

池田 私たちは街頭募金にも立ち、カンパのお願いにも回りました。選挙の応援をした町長に助成を頼みに行ったこともあります。この時は苦い思いをしましてね。私は町からちゃんとした助成金を出してもらいたかったのに、町長は「じゃー、わしのポケットから出そう」と財布からいくらか出したんです。その時は情けなくて、頼みに来なければよかったと思いましたよ。助成金を出してもらうことに意味があったのに。』

今回は、 被爆者運動の原点、このあたりを語って頂きます。

福島も含めて、裁判以外に当事者の運動はどうあればいいのか、考えたいと思います。

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新井さん、おめでとう!戻ってきてくれてありがとう。

新井さん、快挙が本当にうれしい。昨夜はテレビにかじり着いていました。いい顔ですねえ。男前ですねえ。

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泣きましたよー。それも、単なる快挙ではない、彼のしんどさを見てきているから。彼の流した涙をしっかり覚えているからです。

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本当に戻ってきてくれてありがとう。貧乏球団だったカープも、新球場と多くのファンのおかげで、大分お金ができたのではないかと思います。若い人を育てては、他球団に出て行く、それはファンだって新井と一緒に悔し涙を流しましたよ。

かつて新井が流したような涙を、もうこれからの若い人たちが流さなくってすみますように・・・。

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「8.6ヒロシマ平和の夕べ」ご案内2.

今日のブログは二つです。

昨日の続き、「8.6ヒロシマ平和の夕べ」のビラの裏面です。

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ビラから、那須さんのご紹介です。

『那須正幹( なす まさもと Мasamoto Nasu・児童文学作家)

1942 年広島市己斐本町(現)に生まれる。3 才の時、自宅で被爆。

70 年処女長編『首なし地ぞうの宝』が第二回学研児童文学賞佳作に入選。
89 年『ぼくらの地図旅行』で絵本にっぽん賞、
93 年『さぎ師たちの空』で路傍の石文学賞、
96 年『絵で読む広島の原爆』でサンケイ児童出版文化賞、
00 年「ズッコケ三人組」シリーズで巌谷小波文芸賞、
『ズッコケ三人組のバック・トゥ・ザ・ヒューチャー』で野間児童文芸賞を
それぞれ受賞。
04 年『江戸っ子ガラス』でサンケイ児童出版文化賞。
05 年「ズッコケ三人組」シリーズで日本児童文学者協会賞特別賞。
12 年「ヒロシマ」三部作で日本児童文学者協会賞。

日本児童文学者協会・日本文芸家協会 日本ペンクラブ会員。』

懇親会は、このビラの裏面の上部にある、寺町の沢山のお寺とお墓が一望に見渡せる、ソアラサービスのセミナールームで行います。

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「8.6ヒロシマ平和の夕べ」ご案内1.

「8.6ひろしま平和の夕べ」のビラが出来上がりました。これからしばらく、平和の夕べのご案内をします。

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       呼 び か け

今年もまた、あの熱い夏がやって来ます。

 被爆71 年目の今年は、東日本大震災・福島第一原発事故から5 年を迎える福島から始めました。

原発と津波の被害地・被災地のフィールドワーク(3 月20日)、「聴かせて福島のこと~広島からおもうこと~」の集まり(3 月21 日)で福島の姿に接してまいりました。

 広島では、すでに多くの被爆者が、核兵器廃絶の悲願が叶うのを見ぬままに、無念の死を遂げられています。

 今年で9回目を迎える「8.6ヒロシマ-平和の夕べ-」は、場所を変え、本願寺広島別院・共命ホールで行うことに致しました。

広島別院は、広島市寺町にあります。周辺には多くのお寺があり、それぞれのお寺の
お墓では、8 月6 日が命日の人のために、一斉に線香が焚かれます。

 その真ん中に身を置いて8.6の意味を考えたく思います。

 平和講演は、那須正幹さんにお願いしました。「ズッコケ三人組」の著者である那須さんは、三歳の時に広島で被爆されました。今は山口県に住まいを移され、上関の原発の反対運動などをたたかい、「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動山口実行委員会」の共同代表もされています。

 リレートークの池田精子さんは、被爆直後、まだ何も援助がない時、被爆者の仲間と共に夜行列車に乗り東京に行き、国会、厚生省、首相官邸などに行き、座り込みをするなどで被爆者の援護を訴えられました。

初期の被爆者運動をたたかわれた、その経験と思いを語っていただきたいと、お願いしました。
 
森松明希子さんは震災・原発事故当時3歳と5か月の2児とともに大阪に母子避難されている方です。

 「福島を訪ねて」の報告は中村周六さんにお願いしています。

 皆さま、今年も意義のある、広島と福島をつなぐ会を準備しました。
集いましょう。そして語り合いましょう!

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カープ三昧、新井、あと一本。

昨日は、カープ三昧。子ども、若い人から年配まで、いろいろな人たちと一緒に楽しく食べ、飲み、応援しました。

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今日がお誕生日のひまちゃんも、車いすでJRを乗り継いで、のりたまさんや音さんのサポートでプロ野球初観戦。しおじいさんも車いすの秀子さんや孫さんと一緒に。

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クリニックのスタッフ、家族、性教協の仲間、観音高校演劇部OB、いろんな人たちが一段となって、楽しかったです。

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写真の右端の彼は、観音のOBの孫さん、新中学一年生。小学時代はソフトボールで大活躍、今日から中学野球部で頑張ると。もう170センチを超えて、将来のカープ選手。頑張って。

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新井が二本のヒットで、2000本安打にあと一本。みんなの前で達成できなかったのは残念だけれど。でも、楽しみはまた後に。こんなのを戴いて、とてもうれしかったですよ。新井の素敵な写真が一杯。これで知ったのですが、新井選手って、189センチもあるのですね。使えなかったけど、これは大切に取っておきます。それにしても、こんなに活躍する新井を代打要員としてしか使わなかった阪神っていったい何なの?本当に帰ってきてくれてありがとう。

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みんな一緒に多いに楽しみました。みなさんありがとう。それにしても、私の観戦全敗記録、どうしましょう。しばらく謹慎しましょうかね。

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音♪さんの革作品展へ。 

昨日のお昼時間、音さんが行っている革教室の作品展に行きました。手作りの作品が一杯。

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 音さんの作品を中心に買いました。このピンクのバッグ、コードホルダーの印は音さんの物だと分かっているので。爪楊枝入れは他の人の作品だと思うけど、彫刻が素敵です。これから持ち歩きます。

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もっと欲しい物か一杯あったけど、ちょうどお給料日前で残念。

手作り、いいですね。私も、これらの作品の足元にもおよばないけれど、孫のためのミニーの次にプーさんを編みましたよ。これを渡すのが楽しみです。えらくミニーを気に行ってくれているので、きっとこれも喜んでくれると思います。

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音さんの作品展の後、お昼ご飯は久しぶりの「しらかわ」で、「ネギかき揚げそば」。かき揚げのネギがパリパリ、山盛りでそのまま食べても、お蕎麦に入れて食べても美味でした。姉はスペシャルのぶっかけそば。豪華です。

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そして、帰り道、夢プラザで、豊平の「もえぎ庵」のパンを買いました。

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もえぎ庵さんは、以前出張手打ちそばをなさっていて、私のクリニックにも、姉の家にも来て頂いたことがあります。姉の家では、テレビの取材がありました。今は、天然酵母のパンも作っていらっしゃいます。今日の朝ごはんに頂きました。パンも手作り、いいですね。おいしいし、健康のためにも。

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「聴いてください、ろう者の声を!」続き

昨日に続いて、丸山正樹さんの講演会のお知らせです。

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昨日のプリントの裏に、丸山さんの思いが書かれています。この文章を読んで、大変僭越ですが、「ああ、丸山さんは信用できる!!」と思いました。以下、引用します。

『小説のタイトル「デフ・ヴォイス」にはいくつかの意味がある。

一つは、そのまま「ろう者の声」。

一般の人(聴者)は、「ろう者はしゃべることができない」と思っているが、実際には「音声日本語」を話すことのできるろう者は多い。ろう学校での日本語発声教育(「聴覚口話法」)のたまものであるが、当然聴者と全く同じとはいかない。中軽度の難聴者や中途失聴者でなければ、好き好んで「声を出したい」と思うろう者はいないのではないか。いわば「聴者から押し付けられた言葉」としての「声」だ。

もう一つは、かなり意訳気味ではあるが、「マジョリティの中で埋没してしまうマイノリティ声」。

ろう者に限らず、在日外国人、障害者、高齢者、難病患者、性的マイノリティ……社会的弱者とおおざっぱにひとくくりはできない彼らのささやかな要望は、圧倒的な「その他多数」の声にかき消され、世間に届かない。いわば「声なき声」。そんな思いを象徴させた。

最後に、「声」そのものではないが、ろう者にとっての「言語」である「手話」。作中にも記したが、以前は「ろうあ者」と言われていたものを自ら「ろう者」と言い換えるようになったのは、「聾(聴こえない)ではあっても唖(話せない)ではない」、という彼らの矜持だ。彼らには「手話」という「言葉」がある。単なるコミュニケーション手段ではなく、自らを表現する「言語」が。そういう意味を込めての「デフ・ヴォイス」。(以下略) 』

 私も、すでに手話サークル、障がい者施設の職員の方、ろう者自身の方等にチラシをお渡しし始めました。ろう者と聴者が一緒になって「言語としての手話を考える」この集会には、大きな関心を寄せて下さっています。

とうぞ皆様、この集会が成功しますように。多くの方がお集まり下さいますように。お力をお寄せ下さいませ。

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「聴いてください、ろう者の声を!」

すでにフェイスブックやホームページでお目にされた方がおありかもしれませんが。私も、実行委員会のメンバーです。言いだしっぺは塩崎さん。ある日「話がある」と呼び出されて渡されたのが、この本でした。

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これを読んで、と。この著者の講演会をしたいと。

外国人の被告と同じように、聞こえない被告の裁判には手話の通訳かつくということは知っていましたが。でも、取り調べには通訳はどうなっているのか、ほとんど筆談?でも、筆談では時間もかかるだろうなあ、小さいことまで丁寧に筆談で取り調べはできるだろうか、等と、漠然と感じてはいました。

 そして、本を読んで。それはミステリー仕立てでとても面白く読みましたが。

私は、なんにも知らなかった、と思い知らされました。これまで、「8.6ヒロシマ平和の夕べ」等、集会をする時には、頻回に手話通訳をお願いしてきました。でも、その手話には、「日本手話」と「日本語対応手話」があるということ。では、私たちがいつもお願いしているのは、どっちなのかしら。

そして、何より胸をうったのは、聞こえない両親の元に生まれた健聴の子の悩みでした。

講演会をするための、まず日にちの決定、会場探しから。紆余曲折を経て、大枠ができてきました。主催は、広島県ろうあ連盟。それと実行委員会。

昨日、ろうあ連盟に行って、実行委員会をしてきました。そこで配られた第一弾のチラシです。

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未だ、完成版ではありません。何より、後援が沢山になっています。でも、日にち、開始時間、会場など基本は変わりません。

ぜひ、この日時を開けておいて下さいませ。

それから、ホームページのご案内です。ここには、丸山さんの著書「デフ・ヴォイス」のあらすじや丸山さんの思い等が書かれています。ぜひ、のぞいて下さいませ。アドレスは以下です。

http://www.deaf-voice.info/

このチラシの裏に書かれている丸山さんの思いで、感動したことがあります。明日、もう少し、この講演会について書きますね。

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「広島観音高校卒業者の会」

昨夜は「広島観音高校卒業者の会」に参加しました。以前からフェイスブック繋がりのこの会が開かれているということは知っていましたが、今回初めての参加です。

会場は、西区南観音の「シェアハウス恩」。ちょうど、春休みの福島の親子が保養に来て、泊めて頂いたシェアハウスです。そのつながりに御縁を感じました。

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その時の福島の親子。「シェアハウス恩」のフェイスブックから写真を頂きました。みんなでお好み焼き食べていますね。薪ストーブが暖かそうです。その時の話を一緒に泊まった平木さんから聞いていました。旅行者の大学生がとてもよく遊んでくださったと。今度はそこに私が行くことになるなんて。

Img_3883シェアハウス恩の主催者の正垣紅さん。自己紹介では、観音高校を卒業後、熊本の専門学校で義肢を作る国家資格を取って、6年間働いたのち、自転車で日本一周を目指したと。その途中で、今度はアメリカに行き、しばらくアメリカでくらしたと。その時のシェアハウスの方にいろいと学ぶことがあり、広島に戻って、シェアハウスを作ったそうです。

今、ここには三人の住民がいて、他にも旅行者がいつも泊っていると。一人の住民は、地震のボランティアに大分に行っていると。そして、二人でみんなの料理を作って下さっていました。有機野菜の手作り料理。どれも絶品です。

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シチュー、絶品。から揚げや炊き込みご飯等、写真の撮り忘れがあって、残念。最後はデザートに焼き立てのシフォンケーキも。料理ができる男性って、本当に素敵。

観音高校の出身者というつながりだけで、話が弾みます。さまざまな年齢、職種、環境の者が一同に会して話をするのは、楽しいですね。自己紹介と共に、豊富な質問があります。私は、高校時代の演劇部のこと、医者になっての被爆者の染色体のこと、福島支援のことや平和の夕べのことなどを話しました。

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途中から、清水十輝君がひっょこり現れました。広島では人気のシンガーソングライター、ラジオの番組も持っていて、みんなよく知っています。

彼は、ヒッチハイカーでいろいろな所を訪ねてもいます。近々シェアハウスを作るのだそう。その先輩の正垣君にいろいろと習っているのだそうです。彼も加わって、さらに話が弾みます。私はみなさんより早めに失礼しました。またまた新たな楽しい仲間ができましたよ。若いみなさん、ありがとうございました。

今日は、午後と夜、大切な会議が二つ。またご報告しますね。

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「むろか」の「はなれ」二階。

先日のHAD同窓会のご報告です。「むろか」の「はなれ」の二階での食事をアップしますね。

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中に入ると一人ずつの箱と、四段に重ねなった大きい箱が二セット。箱の横には電磁調理器がはめ込まれています。

一人ずつの箱を開けると、前菜がはめ込まれています。相変わらず、手の込んだお料理が沢山。たとえば、高宮鶏の白肝のシュー、菜の花のからし和え、春キャベツのてまり寿司、海老の馬鈴薯巻きチリソース、お魚の柏餅、明太子のだし巻き、揚げタコ焼き柚子マヨ等々。

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始まる前に火を着けられた蒸し物は、筍の擦り流しの茶碗蒸しでした。これがうなるほど美味。一段目の箱はお刺身です。ここにも小さいカープの帽子のトマトが。

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二段目からは、鍋の材料です。なんと、ホタルイカのシャブシャブだと。

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ホタルイカがこれもまた、絶品。鍋のシメは細いうどんで。

テーブルには、二か所に、ビールとウイスキー・ハイボールのサーバーが作り付けてあります。部屋の隅には、その他の飲み物がそろっています。お酒、いもと麦の焼酎、白ワイン、梅酒、ウーロン茶、ソーダ、お水、氷・・・。それらを自分たちで自由に作り飲みます。

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最後は、ニンジンの擦り流しと小さいお弁当です。卵の下には海老が一杯。私は、もうお腹が一杯で、一口だけ。後は三浦さんに食べてもらいました。静かな空間で、話が弾みました。これからのHADについても、大体のめどがつきました。おいしく、楽しいひと時をありがとうございました。

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地震について。

 熊本を中心とした地震がいっこうに収まる気配もなく、胸が痛みます。亡くなった方々、中でも、これからの充実した人生が予定されていたであろう大学生たち。遺族の方たちも、どんなに残念なことでしょうか。

何とか生き伸びても、住む所も壊れ、支援物資も十分に届いていなく、食べる物も十分でなく。どんなにか心細く、つらいことでしょうか。

一度でも揺れると怖いのに、これがずっと続くなんて。疲れ切っていらっしゃることでしょう。

避難していらっしゃる方々、広い体育館等にぎっしり横になっていらっしゃる、または外の車の中で休んでいらっしゃる、圧倒的に避難する場所も足りません。

もう少し場所があれば、段ボールなどで家族ごとの仕切りをし、ブラシバシーを確保することもできるでしょうに。今の状態は、ただ、固い床に身を横たえるだけ。何とも、お気の毒なことです。

一刻も早い救助が望まれます。自然が相手ではありますが、行政の手でできることも沢山あるはず。

それに、原発については、本当にびっくり、がっかりです。事故が起きた時に新幹線や高速道路で逃げるように計画されていたという、まるでジョークのようなことが、昨日の原子力規制委員会ではどのように議論されたのでしょうか。事故が起きた時の避難の計画は大変重要な条件になっているはず。何ごとも起こらない内に、大きな事故にならないうちに、何とかしてほしいと強く望みます。

大分の我が家ですが。河野の実家の母ですが、まったく大丈夫だそうです。実家は、別府の隣の日出にあります。でも、別府のいとこのすむマンションは、ヒビが入って中もぐちゃぐちゃになって、避難所にいると。

私たちの家は別府なのですが、そこがどうなっているのか、まったくわかりません。たとえ中がぐちゃぐちゃになっていても、人が住んでいるのではなく、人的被害はないので、そう心配はしません。でも、たとえば、瓦が落ちたりしてご近所に迷惑をかけたりしていないか、それだけが心配です。

今度の休みに帰ってみようかと思うのですが、夫は、ゴールデンウィークでいいと言います。さて、どうしましょうか。

先日の東京、息子の家から東京ドームに行くのに、私の荷物を東京駅のロッカーに預けようとしたのですが、沢山あるロッカーのすべてが一杯で、どうにもなりません。

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でも、ふと見ると、沢山のロッカーのある所に手荷物預かり所がありました。一つ一日600円で預かってくれます。助かりました。もう何10回と東京駅には行っていますが、ここに手荷物預かり所があるとは初めて知りました。
ご存じの方は、何を今さらと思われるかもしれませんが、念のため、地図を載せておきますね。



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東京での一日。

昨夜、最終の新幹線で帰って来ました。束の間、息子一家と過ごしました。どうってことはない、ただ一日孫と過ごしただけのことですが、命の洗濯をしてきました。

朝、孫と一緒にパンを作って食べました。発酵の必要もない、簡単にできるホットケーキミックスとヨーグルトを使ったパンです。孫も粘土感覚で楽しく作りました。孫は、家を出る時からカープのユニフォームとリュックで。私たちは球場に入ってからユニフォームを着ました。すっかり気に入ってくれた私作のミニーちゃんもリュックに入れてあります。

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東京ドームの三塁側は真っ赤。堂林くんの姿も間近に見ました。試合はご存じの通り負け。なんと、今シーズン私が試合に行ったのはすべて負けです。いけませんねえ。しばらく自粛をしないと。まあ、高い内野指定でも、狭い座席にみんなが寄り添うように座って、お弁当を食べる、それだけでも十分シアワセでしたが。

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東京ドームは、風船は禁止です。それに、カープのラッキーセブン、みんなでカープの歌を歌いましたが、それをかき消すように、大音響で、巨人の放送を流します。感じ悪い。それに、自分たちのラッキーセブンには、沢山の女性たちのダンスを交えて、大応援。

甲子園もそうでしたが、ビジターを完全に無視というのは、情けない限りです。広島の球場では、ビジターのラッキーセブンには、その球団の音楽も流すし、ビジターの人たちはみんなで歌を歌って応援するし、風船も飛ばすし。

それが当然と思っている身には、東京ドームや甲子園には、とても違和感があります。

負けたけれど、菊池のホームランで、宮島さんも歌うことができました。

試合の後は、東京駅の向かい、新丸ビルでみんなで食事。駅前は大規模な工事をしています。

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東京駅で送りに来てくれたみんなとさよなら。孫ともほっぺをスリスリしてお別れしました。今度はいつ会えるかな?その時には、ミニーの次のプーさんを作って持って来るお約束をしました。

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東京で、孫と一緒です。

 結局、私は大分には帰らず、東京に来ています。義母の所は、地震はそうでもなく、はなから広島に避難など考えていないということでした。

余震はいつまで続くものなのか、どうか一刻も早く収束することを願います。

私は、昨夜から東京に来ています。息子の家に泊まりました。以前から楽しみにしていた、東京ドームでのカープの応援です。昨年は、とても取ることができなかったチケットを今年はゲットできました。念願の孫一家と一緒のカープ観戦です。

東京駅まで息子が迎えに来てくれて、家まで来ました。孫の寝顔を見て、お風呂にゆっくり浸かって、孫のおもちゃに囲まれて、暖かいおふとんに横になって、とても幸せな時を過ごしました。

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この日のために一生懸命作った編みぐるみのミニーちゃんです。ただ編むだけでなく、リボンを作ったり、スカートをはかせたり、なかなか手がかかりました。この前初めてディズニーランドに行った孫は、ミニーちゃんが大好きだと。朝目覚めて、机の上にあるミニーちゃんを、すっかり気に入ってくれました。苦労したかいがありました。


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朝には、一緒にパンを作って、楽しく朝食を食べました。本当に夢のように幸せな時間です。

それも、まだまだ。これから、みんなでカープのユニフォームを着て、東京ドームに行きます。お弁当を食べながら、カープの応援をして、最終の新幹線で広島に帰ります。

熊本の被災した方々に少し後ろめたさを感じながら、束の間の時を過ごしています。

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HAD同窓会

昨夜は、大きな揺れで飛び起きました。揺れはなかなか止まらなくって、怖くて。すぐにテレビをつけると、またまた大きな地震が九州地方を襲っています。義母がいる大分の地方が震度6弱だと。私の所、広島が震度4。それでも怖かったのに、こんなに揺れ続けて、義母一人ではさぞと思いました。

私は今日の診療後は東京に行く予定だったのですが、中止にして母をむかえに行って、広島に連れて来ようか、と夫と相談しています。

ニュースによると、断層の一つが東北方向に伸びて、それに沿って、大分方向に余震が動くと。

ところで、この断層の南西方向に沿って川内原発が、東北方向に沿って伊方原発があります。川内原発、まだ稼働させていると。怖いことです。

日本は、プレートがせめぎ合っているし、断層だらけだし、火山列島だし。これほど原発の立地に不適な所はないのにと思います。これだけ地震が続くと、それを痛感します。

昨日は、HAD、広島エイズダイアルの同窓会でした。HADを設立して25年経ちます。設立当初と比べて、随分エイズを巡る状況も変わってきました。ここで、事務所の移転等、もう一度活動の見直しをすることにしました。でも、電話相談や日曜検査や、陽性の方のサポート等、まだ活動は必要ですので、あり方を変えるだけなのですが。

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初期の頃、共に活躍した人たちと久々にお会いし、話が弾みました。

一日一組という「むろか」の「はなれ」の二階が奇跡的にとれたので、そこでごちそうも頂きました。にじり口のような入口から入り、水が流れるこんな素敵なしつらえでした。ここで頂いた物をアップするつもりだったのですが、この地震が続いている時に少し不謹慎かな?と思うのでまたにしますね。

テレビでは、まだまだ次々と余震の速報を流しています。九州地方の皆様、どうぞ、この危機を乗り越えて下さいますように、祈るような思いです。

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ソーラー発電で奨学金

昨日は、おかやま山陽高等学校で、一年生に講演をしてきました。

いつも、校長先生にお会いして、お話するのを楽しみにしていたのですが、出張でいらっしゃいませんでした。そして、教頭先生から、校長先生のお手紙を渡して頂きました。それには、悲しいことが書かれていました。いえ、悲しいことだけでなく、とても感動する出来事も。勝手ですが、その一部を転載させて頂きます。

『(略)
 さて、去る3月28日に本校学園長でありました父・原田三代治が亡くなりました。満79歳でした。以前ご相談させていただきました通り、6年前にS状結腸癌にかかり、以来、闘病しておりました。昨年の9月に腹膜播種が判明し、その当は年を越せるかどうかわからない、と言われました。

当時父は、今年の1月末に完成予定であった本校のソーラー発電所の完成を楽しみにしていました。売電収益を全額、おかやま山陽高等学校の実業科の生徒たちに給付する、返還義務のない奨学金制度を作るのが目的でした。

その後、いろいろあって川崎医大付属病院さんに転院し、様々な療法を試しながら、1月27日の発電所竣工式に出席し、皆様の前でスピーチをすることがかないました。

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「これで自分がいなくなっても、20年間は地元の若者の応援をし続けることができる。もうなにも思い残すことはない」

とうれしそうでした。売電契約は20年間続きます。今年1年間は売電状況を確認し、来年度4月から奨学金の支給を始める予定です。

川崎医大さんでは大変よくしていただきましたが、地元で最後をむかえたいという本人の希望で、2月末に、笠岡市内の海の見える病院に再転院しました。ここで毎日、笠岡の海峡を眺めながら、最後を迎えることになりました。

あまり苦しむことなく最後を迎えることができたのが幸いでした。(略)  』 写真は、おかやま山陽高等学校のホームページからいただきました。

同じくホームページからと、学校に展示してあったのを接写したものです。

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私の好きだった前校長先生、やはり、最後まで、いえ、亡くなってもこうしてずっと生徒たちを応援し続ける、真の教育者であったと感動します。

悲しいことですが。原田三代治先生のご冥福をお祈りします。合掌。

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池田まきさんの演説

今日は、おかやま山陽高校の一年生に話しに行きます。久々の長距離運転です。

昨日は、広島カープに行く予定で楽しみにしていたのに、雨で中止。残念でした。今日早く帰ったら行こうかなあ、それとも、すべきことがいろいろと溜まってきたので、それらを片付けるかなあ、などとつらつら思っています。でも、まず、高校生になりたての生徒さんにちゃんと話すことを大切にして行ってきます。

いろいろと大変な社会だけれど、私は私のできる範囲で、すべきことをするべく頑張ろうと思います。

そんなことをつらつら考えていて、昨夜、この演説を聞いて泣きましたねえ。政治家や、これから政治を目指す人の演説で涙するというのは、めったにないことなのですが。これにはまいりました。この人は、すごい。素晴らしい。そして、よくもまあ、こんな人を引っ張りだすことができたものだと感服しました。

自民が新党大地、鈴木氏を取り込んだとか、自民が圧勝と言われていた選挙戦です。でも、野党が追い上げているという報道に、どんな候補者なのだろうかと興味がありました。これを聞いて、まさに鳥肌が立って。心が洗われるような思いがしました。私は選挙区の者ではないけれど、応援したいと思いました。

もう、face bookではいろいろな人がアップされているようですが。改めて、私もここにアップしたいと思います。遠くからですが、エールを送ります。

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「絵で読む広島の原爆」3.

もう少し、「絵で読む広島の原爆」について、書かせて下さい。

昨日書いた原爆の前と後。特に平和公園の所です。

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1940年と1994年の上空からの絵です。1994年の絵には、まだ広島市民球場があります。

1940年の、広島城の所の説明には、大本営跡。「陸軍の作戦計画や動員計画は参謀本部、海軍は軍司令部が担当したが、大本営はその両者を一本化した天皇直属の最高戦争指導機関。日清戦争の時には東京から広島に移された。」とあります。

同じ広島城の北西の端っこにあるのが「第5師団司令部(中国軍管区司令部:被爆の第一報は、この司令部地下の指揮連絡室に通信員として出勤していた比治山高等女学校3年生の、九州と福山の司令部への電話連絡だった。」等と、詳しく書かれています。

 さらに、びっくりしたのは、分かりやすく色分けされた詳しい年表です。ここの1971年に、私たちが大学生のときに作った「被爆二世中心の全国被爆者青年同盟結成」というのも、あるのです。本当に驚きました。

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私たちは、今、この本の作者である、那須正幹さんに、今年の「8.6ヒロシマ平和の夕べ」に来て頂き、平和講演をして頂こうとしています。もう少しで正式にご案内ができると思います。この本が、子どものみならず、大人も含めて、多くの方の目に触れますように。

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「絵で読む 広島の原爆」とG7外相会合

のG7外相会合が終わりました。

昨日、いつも通り自転車で出勤しようとして、さて、平和公園は通れるのかと遠回りしないといけないのかと思いながら行きましたが、ちゃんと通れました。いつも入る入口は閉じられて警察官だらけでしたが、一か所だけ開けてある所があって、そこから入れました。入ってびっくり。これだけの警察官だらけの所は初めてです。びっしりというほど。列を組んで行進している一団もありましたし、植え込みを調べている人も。これは、一般の人かな?と思ったのは、黒服の私服の警察官なのでしょう。あまりに多いので、写真を撮りたいと思いましたが、撮っていると職務質問されそうなので、断念しました。

そして、その平和公園は、ここで生活していた人たちが一瞬の内に焼かれてしまった所だと、想像した人がいるのかな?と思いました。

友人に最近聞いたことです。平和公園に来た人が「ここが公園でよかったですね。もしここに人が住んでいたら、大惨事になったことでしょう」と言ったと。絶句です。爆心地、ここは沢山の人が住んでいたとても賑やかな所だった、それがすべて、そこに住んでいた人たちも、焼かれ、吹き飛ばされてしまって、焼け野原を公園にしたのだと。原爆で焼かれなお生き残った人たちがぼつぼつバラックを建てて住んでいたのを追い払って作った公園だと。それが知られていません。

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「絵で読む 広島の原爆」に書かれている1940年の平和大橋付近、今の平和公園のあたりです。もっと上空から見た、原爆前と後の絵もあります。それを見ると、たくさんの民家があった所が平和公園になっているのが一目でわかります。今の絵には、我が家のアパートもちゃんと書かれていて、その正確さに改めて感服しました。

日常の生活が一瞬にして断ち切られ、焼き尽くされました。それも、広島長崎の原爆で亡くなった20万人と言われる人たちの65%は、女、子ども、年よりでした。

 オバマさんが広島に来られるかもと、しきりに報道されています。来てほしいけど。でも、昨日のケリーさんは「謝罪はしない」といい、被爆者の話を聞くこともなく、献花の時にも、一人、頭を下げませんでした。

オバマさんが、戦後71年経って、やっと来られても、来たよというアリバイ作りのためだけだったら、よけい悲しい。来られたことが、核廃絶に一歩でも近づくことができるなら歓迎ですが・・・。

この「絵で読む 広島の原爆」は英語版も作られています。以前、「はだしのゲン」の英語版をオバマさんの子どもたちあてに送れないかと検討したことがありました。せめて、この「絵で読む 広島の原爆」や、先に紹介した神奈川県の被爆者の「忘れられないあの日」等の絵本が目に触れられたなら、と思います。

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「絵で読む 広島の原爆」1.

 これは、1995年、被爆50年の年の3月31日に福音館書店から「かがくの本」の一冊として初版が発行されました。以来、これまで版を重ねています。対象は「小学校上級から大人まで」とされています。

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扉の文章です。

『 この本には、生存者の証言をもとに再現された、広島の町と、そこに暮らす人びとのようすが描かれています。下絵を見て下さったある被爆者はこう語っています。「平和教材なのでしょうが、私にはなつかしい風景です」。
                             *
再現された場所に、今も、立つことができます。被爆者が飛び込んだ橋の上に立ち、現実の光景と50年前とを見比べることのできる、広島ガイドです。
                             *
核兵器の原理、放射線障害、核軍拡、原子力発電等、被爆後50年間の核に関する基本的な知識を織り込んだ、核問題資料として活用できます。』

文章は、那須正感幹さん、絵は西村繁男さん。お二人で作られました。このお二人は、1989年に二人の小学生が地図を頼りに旅をする「ぼくらの地図旅行」を出版されています。

那須さんは、多くの方がご存じと思います。「ズッコケ三人組」のシリーズの児童文学者です。ズッコケ三人組は2004年12月、シリーズ50冊目となる「ズッコケ三人組の卒業式」で完結。2005年12月には、「ずっこけ中年三人組」が、2015年12月には「ズッコケ熟年三人組」が発行されています。

那須さんは、3歳の時に広島市西区で被爆されています。

西村さんは、この本を出版するにあたり、広島に1年も居住して、大変に苦労をなさったと那須さんの「あとがき」に書かれています。その部を転載させて頂きます。

『 (略)
   
   私の担当は、様々な資料を通して原爆という物を多角的にとらえ、これを文章化することですが、西村さんの主な作業は、戦前から戦後までの広島の町並を、より正確に再現することにありました。

この作業の困難さ、西村さんの苦労は大変なものだったと思います。1年近く広島に住んで、資料や証言者を訪ねまわり、その後も何度となく足を運んで、より克明な絵に仕上げるために、長い時間をかけられたのです。

広島に生まれ3歳で被爆した私が、できるだけ離れた地点から原爆を書こうとしたのと異なり、氏は、徹底的に広島に肉薄して行きました。   (略)     』

沢山の絵と文章から一部だけ紹介のために接写させて頂きました。

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この本について、もう少し、続きます。

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G7広島外相会合に、被爆者は・・・。

今日から、「G7広島外相会合」です。当然ではありますが、ものものしい警備。昨夜ゆーぽっぽに行こうとして、検問で止められましたよ。

せっかくですので、みのりある会合にして頂きたく思います。

が、せっかく広島に来られても、被爆者の話を聞く機会はありません。

メディアセンターには600人を超える内外の記者が集まるそうですが、そこで昨日被爆者が証言をしても、海外メディアの参加はゼロだったと報じられています。

これらについて、時事通信の報道です。

『広島県原爆被害者協議会の坪井直理事長は「人類の幸せのため、核兵器廃絶のための第一歩だと考えたい」と話す。(略)

G7外相の被爆地訪問については「感謝している」と歓迎の意を表す。フランス等でのテロ事件も踏まえ、「人類が仲良くするための声明を考えてほしい」と注文を付ける。

一方、もう一団体の県原爆被害者団体協議会の佐久間邦彦理事長は、「外相会合では被爆者の証言を聞く日程が組まれておらず、被爆の実態を理解するには不十分と指摘。「いろいろな思いを持って生きてきた被爆者の体験は重要と強調する。(略)

佐久間さんは、(オバマ)大統領が2009年にチェコ・ブラハで行った演説で「核兵器を使用した唯一の核保有国として、行動する動議的責任がある」と述べたことに触れ、「自分の言ったことに対し現在どう考えているのか、広島に来て話してほしい」と厳しい口調で訴える。』

私は、坪井さんのコメントにはいつもがっかりさせられています。以前、時の総理が靖国に参拝したときにコメントを求められ「被爆者にはいろいろなな立場の人がいますから、ノーコメント」と言った時には、本当にびっくりしました。

被爆者にはいろいろな立場の人がいます。当然。でも、「被爆者」というくくりの中で、そして被爆者「運動」を行う団体の理事長としては、「戦争につながることにはノーと言わなければ」と思いました。「核兵器廃絶のため」」「戦争を繰り返さないめ」に、「運動」をひっばって行く義務があります。トップの立場の人は、自らの被爆体験を話すことだけではだめなのです。それは、多くの被爆者がまだまだやって下さいます。

こんな時、森滝市郎さんが生きていらっしたら、どう行動されただろうかといつも思います。

今回、せっかく、外相会合が広島で開かれるのですから「被爆者の証言を聞く機会を作る様」申し入れをし、もしそれがかなえられないのなら、「かなえられないのは残念」と海外も含めたメディアに発表する、それくらいの「行動」はすべきだと思うのです。それを「感謝している」だなんて。ため息が出ます。

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昨日までの「忘れられないあの日」の中の一枚です。

この世の地獄  遺体処理  8月8日  広島 19歳 軍人

広島市内から、旧似島陸軍検疫所に送られてきた遺体は数知れず、一部は薪・油で火葬にしたが、大部分は壕を掘って、そのまま埋葬するより仕方がなかった。

真夏の暑さと、原爆により三日間燃え続けた火災の熱で、遺体は腐乱し、その死臭は言語に絶するものであった。(あまりに悲惨なので、これより後は・・・略します)  』

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「忘れられないあの日」その3.

昨日の出勤途中の平和公園です。前日の雨風ですっかり花が落ちてしまいました。

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つぼみからしてきた私の平和公園の桜ルポも終いですね。

これまで、二回書いてきた神奈川県原爆被災者の会の「被爆70年 忘れられないあの日 ――広島・長崎被爆者の詞画集――」の順序が逆になりましたが、その前書きを転載します。

まえがき

本書を1945年8月6日ひろしま、8月9日長崎に投下された原子爆弾によって、命を絶たれた20万人余りの犠牲者と、被爆の後遺症と闘い、苦しみながら亡くなった多くの人々に捧げます。

 この原爆は幾千年の人類の歴史にいまだかってない悲惨な「原爆地獄」でした。生きながら焼かれる肉親を助けることもできず、水を求める人に与えることもできなかった、あの日のことを忘れることはできません。

この悲惨な体験を少しでも理解していたただきたく、神奈川県在住の被爆者が心を込めて描いた絵と証言です。

原爆投下から70年がすぎました。国際司法裁判所(ICJ)の「核兵器による威嚇および使用は一般的に国際法違反である」との勧告的意見にもかかわらず、また多くの国際条約の存在も無視され、核保有国は増大し、新たな核兵器の開発実験が続けられています。

広島・長崎の市長は世界の指導者が広島・長崎を訪れ、原爆の惨状を自分の目で見て欲しいと訴えています。そして核兵器廃絶のために発言し行動することを求めています。

この絵と証言は原爆の惨状の一部を伝えるものでしかありません。目に見える多くの悲しみと共にそれを通して目に見えない傷にも思いを馳せてください。いまも原爆の後遺症は残り、多くの被爆者が体と心の苦しみに耐えています。そして訴えています。「私たちが受けた原爆の被害を知ってほしい。そして核兵器は止めて欲しい」と。

 この「忘れられないあの日」が原爆被害の真実を伝える一助となり「再び被爆者をつくらない」「核兵器も戦争もない平和な世界」の実現に役立つことを願ってやみません。

最後に神奈川県知事をはじめご協力いただいた方々に、心から厚くお礼申し上げます。

            神奈川県原爆被災者の会    』

なお、この本は、神奈川の原爆展などの場では1冊千円で売られているそうです。多くの方のお目に触れますように。英語が分かる外国の方々にも。

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「忘れられないあの日」その2

昨日の続きです。神奈川県原爆被災者の会作「忘れられないあの日」、その一部を接写させて頂きます。

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それはまさに地獄列車(1)(絵は接写していません。(2)のみ接写させて頂きました。)
           8月9日  長崎 15歳 女学生

「救援列車が来る!」
との事で、私達はその世話を命じられた。
入って来た列車を見た瞬間、私は息が止まるかと思うほど驚愕した。
それはまさに地獄列車そのものだった。
焼けただれた顔、皮膚がはがれて赤く腫れ上がった肌。
髪の毛はほこりと血にまみれて逆立っていた。
機関車のあらゆる所に怪我人が縋りついていた。
ギョロギョロとした目で見つめられて、足がすくんだ。

(2)

暫く呆然としていたが、気をとり直して車内に足を踏み入れた。
車内は、埃と、血の臭いと、呻き声で異様なものだった。
傷ついて動けない人を運び出す作業だが、手を握っても、
皮膚がずるずるとむけて手が付けられないので、
肩に担いでホームに並べて寝かせた。
すでに息絶えた屍体もあった。
水!水!と縋り付く負傷者に、手分けして水を飲ませて走り廻った。
戸板やリヤカーに乗せて、海軍病院や学校等に怪我人を運んだ。』

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お母さん死にたくない  8月9日 長崎 15歳 女学生

炎天下、全身火傷をして死んでいる赤ん坊を抱いて虚ろな目で空を見つめていた若い母親。

悲惨な姿の人が一杯いるが、ただただ自分のことで精一杯、だれが救いを求めても何をしてやる気力もない。
お母さん 死にたくない!
いっしょに死んで!
お母さーん 死にたくなーい!

声はだんだん小さくなっていった。
あの声は、未だに私の耳の奥底に焼き付いている。』

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「忘れられないあの日」

神奈川県原爆被災者の会作の「忘れられないあの日」を松本正さんに送って頂きました。

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順番は逆になりますが、この本の「あとがき」を転載させて頂きます。

『 あとがき

「忘れられないあの日」は被爆55年、2000年に刊行されました。その後ビデオテープに収録し、展示・掲示用パネルが製作され、それぞれが役目を果たしました。このたび被爆70周年にあたり、広く世界のひとびとにも伝えたく英文の本書の発行となったものです。

小学校以来絵筆を持ったのは初めてという人、描きながら当時のことが思い出されて涙が止まらなかったという人、眠れない夜がつづ続いたという人、老齢のため自分では描けないからと、下絵を送って下さった人、なくなった人の霊前に祈りを捧げながら描いたという人・・・・・。半世紀余り前のことですから、中には記憶違いや、誤った思い込みがないとは言えませんが、これらの一つ一つは被爆者が心を込めて描いた絵と証言です。

今日なお地球上には数万発の核兵器が存在しているといわれています。私たち被爆者は一日も早く核兵器がなくなり、戦争もない平和な世界となることを願っています。

この絵と証言が被爆の実相の普及と、原爆の犠牲となられた方々の鎮魂の一助となることを望みます。

終わりに英訳について関西学院・ヒューマンサービスセンターの皆様に絶大なるご尽力とご協力を賜り深く感謝申し上げます。

尚、短歌(4,6,7,18,22,44ページ記載)会員三浦文子氏により翻訳され、また「碑文」は大舟観音の英文慰霊碑を使用しました。

                       神奈川県原爆被災者の会
                                          詩画集編集委員会
                                                   2015年4月    』

2000年に刊行されたものに英文の翻訳をつけ、被爆70年の昨年にニューヨークの国連に持って行き、外交官等に配られた物です。頂いた貴重な一冊の一部を接写させて頂きました。

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川は死体で一杯に  8月6日  広島  21歳  軍人

広島は市内を七つの川が流れる、静かな町だった。
夏になると、私達はきれいな川に飛び込んで遊び、秋になると橋の上からハゼを釣って楽しんだ。
それがあの日、ピカの犠牲になった大人や子供の死体で埋まった。
それはまさに地獄絵そのものだった。
軍隊の人が小舟に乗って、竹竿で溺死体を収容していったが、数が多くてかなり時間がかかったようだ。

不思議なことに、この日を境にして、川底に張り付くように一杯いたハゼの姿が消えた。』

明日に続きますね。

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久松産婦人科歓迎会、アンデルセンで。

昨日は、久松産婦人科の新入歓迎会でした。場所は、アンデルセンの仮店舗で。仮店舗は、一階のパン屋さん、二階のカフェには行きましたが、5階のパーティールームは初めてです。コンサートやパーティーや、何度も行ったところですが、こんなおしゃれな会場に変身していました。

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久松産婦人科には、また新しく助産師さんが就職してきて、これで計8人の助産師さんが活躍されます。中にはスーパー助産師の資格を持った方もいると。

私は乾杯の音頭を取らせて頂きました。一緒に入局し、一緒に学んだ一人として。でも、私は勤務医で疲れ果てて分娩のないクリニックを開業しました。彼は、ずっとお産を続け、東京にも医院を作る等、発展させ続けています。

彼が大過なく仕事をし続けているのは、みなさんスタッフのおかげもあること、これからもみなさん一緒に、女性たちが、楽しく安全なお産ができるよう、頑張られますように、ということをしゃべりました。

私の席の隣は四方先生。私に劣らずのカープファン。反対の隣は看護師長さん。助産師一人、一人夜勤だったころから見れば、今は本当にありがたい体制になったことなど、一緒におしゃべりしながら、楽しく食事もしました。アンデルセンもこんな素敵なパーティーができることが分かりました。

皆様、楽しいひと時をありがとうございました。

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オ、オタンジョウビ、オ、オメデトウ。

 いつまでもこんなことで引っ張るのは恥ずかしいと思いますが、今日だけ。これでやめますので。

姉は、義兄が亡くなるまで、毎年のお誕生日には義兄から花束をもらっていて、子どもたちとともに必ずお誕生日の食事会をしていたそうで。だから、夫が私の誕生日に気付かないなんて、本当に信じられないと言います。

「あなたは、私にとても失礼なことをしている」とか、3日、カープに出かける時には「かわいそうな美代子さんは、行ってきます」とか、「もう分かった?」とか、ジクジクと言うものだから、頭をひねっておりました。

「僕がおならを顔にひっかけたこと?でも、おならなら、君もするしなあ」「まあ、私は顔にかけたりしないわよ」などと、頓珍漢なことを言って、ますます私を絶望的にしたり。

3日の夜、プレゼントして頂いたシイタケとみかん羊羹を写真に撮り「みんなが私にプレゼントしてくれる」とつぶやいたのを聞いた夫は、ハッとカレンダーを見て言いました。

「アッ、オ、オダンジョウビ、オ、オメデトウ」

と。私はそばにあった頸枕で夫のおでこをはたきましたよ。

「そのかわり、次の僕の誕生日は忘れてもいいから」などと言いました。

そして、その夜行ったゆーぽっぼでマッサージの券を買ってくれて「お誕生日プレゼント」と言いました。それでおしまいです。

まあ、この年まで二人そろって元気でいること、ありがたいと感謝しなければ、と思い直しました。

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孫が顔を作ったおにぎり、これを持ってお花見に行ったそうです。かわいいねえ、おにぎりも孫も。とても癒されましたよ。そばに住みたいなあ。

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途中で帰ってよかった!

昨日は、天気予報の3時から弱い雨通り、3時になるとポツポツ降ってきて、多くの人が赤いレインコートを着て球場は赤く染まりました。

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日曜なので、思いっきり早く、1時半始まりなのに、11時過ぎには球場に着いていましたよ。ゆっくりコンコースを回り、食べたい物をゲットして、練習や体操を見ながら、のんびり。

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でも、午後4時から大切な会議があるので、3時半、後ろ髪を引かれながら、帰りました。

帰ってよかった!!前回行った時とおんなじ、いったん追いついて狂喜乱舞させて、結局延長で負け。まあホントにどれだけ情けない思いをさせるのでしょうねえ。

言いたいことは山ほどあります・・・。が、ぐっと飲み込んで、球場のこんな物をアップして・・・。

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8.6ヒロシマ平和の夕べの会議。大筋ができて、チラシの原案のチェックもできて。着々と進んでおります。

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そこでも、私、誕生日プレゼントを頂きました。とれとれの大きなシイタケと、江田島のみかん羊羹です。ありがとうございます。

今、皆様には、少しずつお礼の返信をしている所です。時間がかかってすみません。で、肝心の夫について。また明日にご報告です。

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皆様、ありがとうございました。でも、夫は・・・。

昨日の平和公園、さくらが満開になりました。こんな日に60代最後の誕生日を無事迎えることができました。皆様からの沢山のお祝いメッセージ、本当にありがとうございました。

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誕生日というと、当然ではありますが、いつも母を思います。五人の子を産み、育て上げ、73歳で亡くなってしまった母です。妊娠中毒症後遺症の高血圧、心不全、腎不全による透析。もっと親孝行をしておきたかったなあと、なぜか私の誕生日には母を思い、涙ぐんでしまいます。私も、だんだん母が亡くなった年齢に近づいてきました。

沢山のプレゼントを頂きました。毎年、必ずバラを送って下さる山口の患者様。

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スタッフからは、カープグッズです。

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新幹線では、この首枕をして行ききましょう。キャラメルには、小さなカープ選手のチャームがおまけに入っていました。ありがとう、ありがとう。

そして、お昼には姉がランチをおごってくれました。そごうの加賀屋のサクラエビのかき揚げ御膳です。これにアツアツの茶碗蒸しがつきました。そして、加賀屋さんから、誕生日のお祝いを頂きました。ありがとうございます。

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本当にいろいろとありがたくて、うれしい一日でしたが。夫は、私の誕生日に気付きもしません。おめでとうの一言もないし、頂いたプレゼントを持って帰っても孫からのお誕生日おめでとうの電話がかかって、ありがとうね、と話すのをそばで聞いていても、まったく気づきません。

いつもは、誕生日には外食をするのですが、朝、「どこかで食事する?」と聞いても、いや、と。ああ、久しぶりに「おんまく」に行こうか、いや、今日は多いだろうな、やっぱりやめだと。そして、いつも通り、ごはんと味噌汁と煮魚と・・・という食事です。ケーキもありません。まあ、情けない。

今朝になって、私があなたは私に失礼だと言っても、何のこと?と一生懸命が考えて、分からんといいます。意地でも私からは言うまいと思いました。まあ、情けないことです。

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カープ、初観戦。負けでがっかり。

 私のカープ今シーズ初観戦、疲れました。いい調子と思って、喜んで、最後はがっかりというのは、本当に疲れます。前日の中日戦があまりにひどくて、多くのカープファンを裏切ったその翌日だから、まだ引きずっているかもね、と思いましたけど。

どうにも監督の采配、おかしいと思わざるを得なくって。せっかくルーキー、岡田君がよく頑張ったのに。まあ、開幕間もない時だから。もう少し、懲りずに見守り、応援しましょう。

昨日の席はこんな所。なかなかいい所でした。

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満員と言いたいところですが、巨人ファンの席は寂しいですねえ。他の球場で、三塁側、レフト側のカープファンの席を取ろうと思ったら、なかなか大変なのに。

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7回、風船を膨らませて飛ばすのを待っていたら、延々と巨人の攻撃が続いて、ついに同点に追いつかれて、まったく、もう風船を持つ手がしびれましたわよ。

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今日は、デーゲーム、仕事だから行けません。行けない時に黒田だなんて。残念。次は、明日のデーゲームに行く予定だけれど、雨の予報。さて、もういっそ土砂降りで中止になったほうがいいかも、なんて思います。負けてつらい思いをするよりは、と。

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「妻」が母になってはダメなの?

昨日は、休診日で、人と会う約束に間に合うようにお昼に出勤。一週間前には、一輪しか咲いていなかった原爆ドームの向かいの桜、もうこんなに!!一昨日の暖かさで一気に咲いたのでしょう。

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お花見をしていた友人が、私の写真も撮ってくれました。桜が撮ればいい、私の写真は撮らなくても、と言ったけど、せっかくだからと撮って頂きました。

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でも、夜には冷たい雨でした。お花見を切り上げた人たちも寒そうでした。

昨日には、一日かけて、「8.6ヒロシマ平和の夕べ」の呼びかけ文を書き上げました。当分、しなければならないことはこれで終了!!これで心置きなく、カープの応援に行けます。私は今日からです。

さて、昨日書いた産婦人科医の集まりで、話題になったさまざまな世相について。特に、乙武さんのことについて。

私は、性的にアクティブであることは、いいことだと思うけど。でも、、「子どもが生まれて、奥さんが夫婦よりも母になった」ことが不満だったということ、あくまでもこれは彼の言葉として週刊誌に書かれていたことだけれど。それがとてもとてもいやでした。

妻が母になるのは当然。三人もの子どもの子育て、それはそれは大変だったことでしょう。その上に彼のお世話。

男は、妻が母になるのが嫌なのなら、子どもは作るべきではない。私にも覚えがあることなのだけれど、子どもを中にしての夫婦、父として母としての夫婦へと変化していくのは当然。いつまでも恋人同士のような夫婦であるのは、とても無理。性的にも、心と体のゆとりがなければ、無理なのです。子どもがある程度大きくなって、ほっとした時間が持てるようになったなら、その時にはまた恋人同士のような夫婦になれるかも。

それに、子どもが生まれて、彼女は母になったけど、彼は「父」にはならなかったと?そんなことはないはず。子どもにとっては、大切な父親であったはず。でも、クリスマスとお正月というその期間、妻と子どもと過ごすのではなく、恋人と海外へ。やっぱり父親であるよりも、その彼女と過ごすことを選択したということ。うーん、やっぱりねえ、と思ってしまいます。

夫婦のことは、人にはわからない、これでバランスが取れてたのだからという人もいるけれど、でも、彼の告白に奥さんは泣いたというのを読むと、彼女は傷ついていないとでも?それに、恋人である女性は?そんなことを思いました。

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