「被爆者からの遺言」その3.
昨日、私はもうお一方の手記をご紹介したいと書いたのですが、どの方のを読んでも貴重で、やはりこれはみなさんに直接読んでもらうしかないと思うばかりです。
ものすごい体験をなさった、苦難の中で生きいてこられた、これをみんなが読めば、核武装論など吹き飛んでしまうでしょう。核兵器は三度使用してはならないという被爆者の叫びが、すべての手記に書かれています。いろいろと悩んだのですが、そして、とても失礼なことなのですが、お二人の方の手記を載せさせて下さいませ。お一人はお兄様が亡くなる様子が胸を打ちます。一部でごめんなさい。
『わたしの被爆体験、そして子供たちに願うこと
広島3歳被爆 高橋 靖子
・・・夜が明けると母は東雲町の父の兄弟の家に私達姉妹を預け、毎日、兄を探して歩いていました。4日目に柳橋の交番の立て看板に、国民学校に兄が収容されていることがわかり、すぐに行ったそうです。
後頭部から両耳、背中の上半身が真っ黒に焦げて変わり果てた状態の兄だったそうです。
…兄が通学していた山陽中学の生徒は夏休みでしたが、8月6日は雑魚場町というところの建物の強制疎開作業に駆り出されていました。作業に出た仲間は毎日、毎日亡くなり、全滅されたそうです。
被爆した人たちは傷口に赤チンと油薬を塗るだけで、有効な薬もなく水をほしがりながら死んでいったそうです。
終始水を欲しがる兄も、「死んでもいいから、思いっきり水をのませて!」と切望するので、母が軍医に相談すると、「もう望みも無いから上げなさい」と言われて水を飲んだそうです。
水を飲んだ兄は母を見て、「今死ぬのは残念だ、僕をもう一度生んで下さい、きっとだよ。お願いです」と母の手を握り、「みんなをきっと護るよ」といって、昭和20年8月18日、被爆から12日後、中学1年生の兄は息を引き取りました。本当に末期の水だったと母は語りました。・・・』
この方のも、一部でごめんなさい。被爆での直接の死は逃れたものの、その後のご家族のことが書かれています。
『核兵器を廃絶するために語り継ごう
広島14歳被爆 佐藤 良生
・・・終戦になったころ頭髪の脱毛が起こった。母は間もなく高熱を発し、庄原赤十字病院に入院したが、翌日母は亡くなった。原子爆弾病とされた。父は家族の続いての死を思ったという。翌年春、妹が死んだ。
私は下痢に苦しみ、弟は肺結核で肋骨何本かを取る手術をし、高校を退学したが、大学入試検定試験の後、医者になった。
私は肝炎、脊椎腫瘍のオペを受けた。原爆から26年たって胃がんで胃を半分取った。
弟はそれから約10年たって肝臓がんで亡くなった。
被爆した家族4人のうち私だけが生き残っている。
原爆は、このように、強い破壊力、高温の熱線、そしてがんや白血病を起こす放射線を無差別にまき散らす。
私は、国内外で被爆体験の語り部をしている。
海外で語り部をすると、アメリカをどう思っているかと質問がある。私はアメリカ市民を憎いとは思わないが米国政府や大統領は被爆者に謝罪すべきだと答える。すると必ず拍手が起こる。
憎しみはさらに憎しみを呼ぶものだ。これでは戦争も核兵器も繰り返されて終わらない。核兵器の残虐性、無差別性をできるだけ多くの人に語ることが大切だ。そして核兵器を廃絶することが必要だと誰でも信ずるようにさせるのが肝要だ。
被爆者の平均年齢は80歳を超える。私達が語り継ぐ残り時間は少ない。子や孫に、縁ある人たちに自分たちの思いを、それもできるだけ若い人たちに伝えよう。若い人たちの新鮮な心に話しかけよう。
これは、被爆国日本の被爆者の使命なのだ。』
どの手記にも、語り継げる被爆者の時間が残り少ないと書かれています。私達が、それをどう受け止め、繋いでいくか、それが今度は私達の使命なのですね。
読ませて頂いてありがとうございました。松本さま、神奈川の被爆者の皆様に深く感謝申し上げます。同時に、私のこのようなご紹介の仕方をお許しくださいませ。
『河野美代子からだの相談室』
ここをクリックすると私の体の相談室と著書の販売があります。
ぜひ覗いてみて下さい。
| 固定リンク
コメント
頭でっかちの私にとって、無冠の帝王さまのご意見頭がさがります。同調致します。被爆国に対する冷たい批判もうけながらもそれを一歩ずつ乗り越えていかなければなりません。但し、反核の分野で被爆国は国連では生きにくいと若い世代としてかんじます。被爆による様々な重い病気と戦いながら、苦学してお医者様になったなんてすてきです。これこそ医の道ですね。感動しています。被爆国が被爆国の権利を訴えるなと中国とロシアが仕切りにいってますが、訴える権利はあるとおもいます 国連内で、日本に様々な権利を与えるなという風潮こそ、戦後の覇権主義ですね。日本を生かさず殺さずなんて不思議だと思う。被爆に関しては国連内で堂々と訴えていくべきとおもいます。
投稿: 愛ちゃん | 2016年2月25日 (木) 12時13分
美代子先生、抜粋紹介してくださって有難うございます。より多くの人に此の存在を知ってもらえることは被爆者の「本望」と言えるかも知れません。
同じ神奈川県在住ですから当然とも言えますが、身近な人の投稿を採り上げて頂いて、妙なクスグッタイ思いもしています。
最初の川本 都さん、誤植が有った人です。近年横浜へ移住してきたのですが、横浜支部=浜友の会に関心があり、今月初旬、事務所へ見学に現れました。私が仕切る役員会を「これは楽しい集いですネ! 前にいた会は会長のワンマンでしたから・・」と驚いていました。
この席で本の誤植を見付け、県の編集担当者に電話しミスを指摘したのです。何せそれより前に不明だという彼女の被爆時年齢を17歳だと、それだけで県の担当者へ連絡したのは他ならぬ私だったのですから。
彼女がくれた原稿の末尾に手書きでこうありました。
生きるとは 残されること 近松忌 都
次の亀井賢伍君、彼は広島二中の同期です。昔から今でも被団協の経理を任されているこの世界の先達・有名人です。友人の手帳取得などで彼の世話になった奴は数えきれません。私が横浜の会の役員にと要請された際、「彼もなるのなら、」と言う条件を出し、結局彼と私二人揃って浜友の会役員となったのでした。でも彼は肩書を嫌がり、しばらくは皆が推してなっていた「副会長」を平のほうがいいから、と降りたのでした。
そして今回の佐藤良生氏、横浜支部長つまり横浜市原爆被災者の会=浜友の会、現会長です。私が何十年も断り続けて来た被爆の証言を止む無く引き受けたのは、この人から「是非替わってやってくれ」と頼みに頼まれたからでした。
ついでのようですが、葉山在住で親しくしている西純子さん(53p)被爆時2歳ですが、この人の姉さんが、今日取りあげられた高橋靖子さんです。
こんなに神奈川の活動を評価して下さるとあらば、文字に替わって今度は絵の方。神奈川の被爆者が素人で下手ながら夫々の手で描いた原爆詞画集「忘れられないあの日」(神奈川県原爆被災者の会編・発行)もあります。B5版カラー50頁。和英対訳も入れた第3刷は昨年NPTで国連にも届けました。2005年制作ですから入会前の私は関与していませんが、前記佐藤さんの脱毛した頭やら、電車での黒焦げ死体など何人もの絵が掲載されています。
これも先生が未見でしたら差し上げたい。でも来月予定の証言に資料として使いますので、しばらく待っていただけませんか。もう1冊買ってでもと考えます。
投稿: 松本 正 | 2016年2月25日 (木) 16時18分
もし、松本さまや 会員の方々お許しがあれば この度の手記や 詩画集を拝見出来る機会のあることを ゆっくりと待ちたいと思います。
亡くなった義兄から聴きそびれたことでもあるし、わたしの両親も語りたがらなかったことでもあります。 私自身が被爆一世(体内被曝)の立場でありながら つつがなく、今を生かされているありがたい采配に感謝をしている日々です。
つらいけれども 過酷な過去の現実を継承せねば
『過ちは 繰りかえされてしまいそう』ですもの。
投稿: yuumin | 2016年2月26日 (金) 22時03分