三次市甲奴町原爆被爆者の会
昨夜は、びっくりしましたねえ。広島市中区にしては大きい震度3。飛び起きた私の隣で夫はグースカ寝てます。即テレビをつけると、震源地は大分南部で、大分は震度5強というし。朝になって夫に大分で一人暮らしの義母に電話をしてもらいました。そしたら、母も気づかずに寝ていたと。親子じゃねえと感心しました。それにしても、あちこちで火山は吹き出すし、地震が起こるし、こんな日本に原発が50基以上もあるという、本当に恐ろしいことです。
さて、甲奴のジミー・カーターシビックセンターでの被爆者の展示。そこには、これまでの被爆者の運動の歴史が展示してあったのです。
「核戦争を止めてきた被爆者の決意」「イラクの子どもたち」の劣化ウラン弾による被曝と白血病、「第五福竜丸」の被爆、「原爆を許さない国にするために」、「17歳のあなたへ」、「生きぬいて」などなど。「外国人被爆者」、そして「さよなら原発」も。
その一部を紹介しますね。
「生きぬいて」の説明文です。
『私は奇跡的に生き延びることができましたが、
「生きる」とは、「苦しみに耐える」ことに他なりませんでした。
わたしたち被爆者は全身に原爆の呪うべき爪跡を抱えたまま、
苦しみに耐えて生きています。
核兵器は絶滅の兵器、人間と共存できません。
どんな理由があろうとも絶対に使ってはなりません。
私は核兵器が、この世からなくなるのを見届けなければ、安心して死んでいけません。』
「原爆を許さない国にするために」の説明文です。
『「ふたたび被爆者をつくらない」
「核戦争を起こすな、核兵器をなくせ」
「国家補償の原爆被害者援護法を」
と全国から終結した被爆者と支援者は、折り鶴を胸に厚生省を包囲し必死に行動しました。
1994年に作られた「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」は、国家補償としての法にならず、被爆者は原爆被害を軽く、小さく、狭いものとする国と闘いました。原爆症集団訴訟では、原告の勝利があいつぎましたが、国側の裁判引き延ばしで、判決確定を待たず原告が次々と亡くなり、遺影を掲げての抗議行動も度重なりました。』
そして、「17歳のあなたへ」の説明です。
『もうすぐ傘寿(80歳)になる私が被爆者運動を続けているのは、「ふたたび被爆者をつくるな」という願いからです。あなたを含め世界のすべての人々に、あの"地獄"に遭わせたくないから、あの悪魔の兵器がある限り、私は目を閉じられないのです。
青春を大切にしてください。あなたたちの未来はあなたたち自身のものです。自ら考え、自ら歩んで、みずからの手で"平和と未来"をつかみ取ってください。それが"地獄"から生き残った私の願いです。』
三次市甲奴町原爆被害者の会の皆様、ありがとうございました。こういう粘り強い運動をあちらこちらで被爆者の方たちが頑張って来られたからこそと思います。その思いをどう私たちが繋いで行くか、私の心にも命じたいと思います。
ほんの数時間の滞在でしたが、甲奴の皆様には大変お世話になりました。ありがとうございました。いつまでも私の心に残り続けることと思います。感謝でこのシリーズを終えます。
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コメント
昨夜の地震どうされましたか?私は、授乳中に良く聞いているNHKラジオのラジオ深夜便の緊急地震速報で広島県広島市中区が震度5か震度4で大変といってるのであんじてました。
投稿: 愛ちゃん | 2015年7月13日 (月) 11時08分