最初で最後のシャンソン・コンサート
被爆70周年の今年、さまざまなイベントが企画され、実行されています。大きいのも小さいのも、音楽も語りの集会も美術も・・・。
今日は、お一人の被爆者のシャンソンのコンサートのご案内です。
梶川律代さんは、あの日、おうちの引っ越し中でした。舟入から観音へ。律代さんは、妹と押入れに入って防空壕ごっこをしていたと。その時に原爆が落とされ、だから助かったのだと。 真っ黒い雲がモクモク上へ湧き上がったのを下から見上げたと。お父様は爆死。外にいたお母様はその三年後に亡くなりました。孤児になった幼い姉妹はばらばらに。律代さんも親戚の中で育ちました。
律代さんは、このコンサートで初めて被爆の事を語ると、そしてそれは最初で最後だと言われています。
私は、この頃、カルテの保険の欄に「原爆」と印鑑が押してある患者さんに被爆の時の状況を聞くようにしています。その時に分かったのですが。
律代さんは、私と同じ中学校でした。そして、なんと、私の兄と同じ学年、そして同じ部活だったのです。放送部。
そして、先日、中学のアルバムを持って来て下さいました。その一枚に兄と律代さんが並んで写っていました。そして。さらに、恩師の写真。その後に私が入学したときにいらっしてお世話になった先生たちも沢山写っていらっしゃるのです。私の時には中学のアルバムはありませんでした。何しろ、団塊の世代。一クラス63人で一学年13クラスなのですから。みんなの写真を撮るなんて不可能に近いことです。そして、その頃はまだ写真を撮るなんて全然日常的なことではなくって。だから、その頃の恩師の写真なんて私の手元には一枚もありません。
アルバムを接写させてもらいました。
1954年、被爆から9年目のアルバムです。この頃、シベリアから帰って来た先生もいらっしたし、私の担任は、ニューギニアからやっと帰って来られた方でした。だから、授業の合間に脱線して話される戦争の悲惨さにも力がありました。
梶川律代さんのコンサート、たくさんの方が来られるといいのですが。私も、昼休みの間だけですが、行くつもりでいます。
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コメント
すごい年季が入った卒業アルバムですね、先生の患者さんはご高齢で被爆者の方もたくさんおられるから、すごくやさしい対応をしたり、人間関係も構築しやすいんですね。産科系ばかりでなく婦人科系の患者さんもおられるから本当に人間関係をつくらないと大変なんだと感じます。個人の産婦人科のドクターはまさに人間関係だからそれを実践されてるお医者さまだから素晴らしいです。
投稿: 愛ちゃん | 2015年6月11日 (木) 11時11分