「空白の10年」③被爆後の小学校。
昭和22年4月生まれの私が小学校に入学したのは、昭和29年。観音小学校は、旧広島二中の跡に移っていました。校庭には、焼けた二中の講堂があり、ぐにゃぐにゃになった鉄骨が中にあって、恰好の遊び場でした。校舎はボロボロの木造と、急に作られたプレハブでした。
もっと爆心地の小学校はどうだったのか、校舎はいつ作られたのか、ずっと私の頭に疑問としてありました。今回、中国新聞の西本さんの講演では、米軍から返却された動画や、学校を写した写真などが沢山提示されました。そこで、改めて写真をネットで探しました。動画はありませんが、いくつか学校の写真が出てきました。
当時、小学生は3年生以上は、集団疎開していました。ですから被爆は逃れましたが、広島にいた両親や学徒動員で働かされていた兄、姉、もっと下の弟、妹たちが爆死し、原爆孤児が沢山生まれました。家も焼かれ、親もいない子どもたち、「はだしのゲン」には、その孤児たちが生きる過酷な姿が描かれています。
動画では、ボロボロの校舎で走り回ったりケロイドの腕、指も失った少年が鉛筆をはさむようにして勉強する姿が映し出されていました。それらはネットでは見つけることはできませんでした。
これは、幟町小学校。机は、廃墟になったどこかの建物からもって来た物と西本さんは言われました。
近くのNHKの廃屋を借りて授業をするも、すぐに取り壊しのために出なければならず、また外で授業をすることになりました。ムシロを敷いています。私のころもそうでしたが、履物は下駄、体育や運動会などは裸足でしたよ。
昭和23年、屋外の仮設の教室です。この翌年、佐々木禎子さんが入学しました。
写真を沢山載せると書き切れません。まだ続きます。今日は、被爆から数年までの学校の様子でした。
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コメント
これらの写真を見て涙が出ました。
学ぶことの原点を見るような気がします。
投稿: 六郎 | 2015年4月 8日 (水) 08時40分
本当に焼け野原の中の青空教室だったんですね。先生の母校の高校と先生の小学校生活の授業とのつながりは絆かありますね。それにしても佐々木貞子さんの後輩だなんてびっくりします、色々事を総合して伺うと命を大切にする産婦人科医も大事だなと感じています。
投稿: 愛ちゃん | 2015年4月 8日 (水) 10時02分
せつないです。なんといっていいのかわかりません
投稿: | 2015年4月 8日 (水) 20時32分