「空白の10年」②池田さんの講演から
「空白の10年」と言うけれど、僕はそのいい方に抵抗がある、と夫がいいました。被爆者にとっては、空白ではなく、「苦難の10年」というより「見捨てられた10年」と言う方が当たっていると。
今回の池田さんのお話しを聞いて、それはそれは辛い10年を聞いて(決して10年だけではないのですが)夫が言うことが正しいと思いました。
学徒動員で被爆、全身やけどでずるむけになった体で、ひたすら家に帰りたいと歩いていたとき「可哀そうに、女学生が裸で歩いてる」と、カーテンを引き裂いて腰に巻きつけて下さった方があったと。その生地が体に当たってとても痛かったと。
そんな体でも、奇跡的に生き延びて、何か月も経って外に出ると「赤鬼が来たー」と子どもたちが飛んで逃げたと。家中の鏡が隠されていて、必死で探して自分の顔を見たときの衝撃、絶望。12回の手術を受けたのは、きれいになりたかったわけではない、昔の顔を取り戻したかっただけだと。でも、取り戻すことはできなかったと言われます。
懸命に生きていた時、一人の方からの手紙で知って「原爆一号」と言われた吉川清さんたちとの話に出かけて行ったと。「8.6友の会」としたその会は、同じ痛みを持つ者同士の会話、それは楽しくて、それだけが安らぎだったと。
でも、箝口令が敷かれたプレスコード下では、それすらも取り締まりの対象で公安警察に付きまとわれ、やがて「赤」と言われるようになると。ただ、話をし、慰め合い、励まし合うという、その時だけが安らぎの時だった、そんな私たちがなぜ「アカ」なのでしょう、と涙ながらに話されました。
被爆者は、被爆から10年。家を焼かれ、仕事もなく、貧乏で、食べ物もなく、体は蝕まれ、多くの人が死んで行き、生き残ることができても、放射能の影響で体はとにかくだるく、「原爆ブラブラ病」と呼ばれ、怠け者とされ。医療も受けることが叶わず・・・。
被爆から11年、1956年3月18日、千田小学校で被爆者300人が集まり、「原爆被害者の会」が開かれました。まだ「被爆者」という言葉も使われていません。池田さんは、その会で、知らない者同士でも抱き合って泣いたと言われます。「つらかったね」と言い合いながら。その会の写真です。これは、当日の中国新聞記者の西本雅美さんがされたスライドを写させて戴きました。はっきりしませんが、その垂れ幕には、「原水爆禁止運動の促進」「原爆被害者への国家補償を」などと書かれ、もう三度私たちのような犠牲者を出してはならないという意志が打ち出されています。
その年、42人の被爆者が夜行列車に乗って国会請願に行きました。女性が多くて、着物姿に「国会請願」というタスキをかけて。今、その42人の方たちのうち生存なさっているのは、池田さんたち3人だけです。当時の鳩山総理の家、池田勇人大蔵大臣の所、厚生省、そして国会。みなさん、深くうなづいて話を聞いて下さったそうです。鳩山さんの官邸で、ケロイドの顔の池田さんたち、後ろに隠れるようにしてたっていたのを「あなたたち、前に出なさい」と押し出されたと。被爆者運動の初期のころを闘った方の貴重な証言です。
鳩山邸での写真です。そうして、その翌年、1957年昭和32年、被爆から12年経ってやっと「原爆医療法」ができ、被爆者手帳が約20万人に交付されたのです。でも、当初の給付は「認定疾病に対する医療の給付」「年二回の無料の健康診断」だけでした。
池田さんが受けられた数々の差別、とくに被爆者に対する結婚差別、出産の恐怖などについても語られましたが、ここでは省きます。明日は、子どもたちの被害、被爆後の学校についてなどのお話しをします。
(なお、当日スライドとして提示された写真をかってに撮影してここに載せています。マナー違反は承知しています。西本さん、すみません。調べた結果、これらの写真は、すでに著作権が消滅していると判断しています)
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コメント
河野先生のご主人のご意見もっともだなぁと感じています。被爆者の高齢な方々のお話をうかがいながらも、一般人でもょっとのことでアカと言われるのもやだなあと感じながらも、左派の意見ももっともなところもありつつ伺いました。被爆者の高齢な方々いきながらえるのがつらかったんだろうなと感じています。
投稿: 愛ちゃん | 2015年4月 7日 (火) 13時35分
国家の犠牲になった被爆者にたいしてまでも、アカはないのだろうかと感じながらも、そういう方々をアカというレッテルを張らなければならないのは、アメリカが短期間で確実に戦争に勝利をするために原爆を使った事を正当化したいのでしょう。勝てば官軍だから。本当は極東軍事裁判が不公平だと思うのは原爆投下、沖縄戦、シベリア抑留が特定の連合国の覇権争いになり、それらのことは判決に採用されなかったことだと思います。連合国の覇権争いに利用された原爆投下だからこそ被爆者の赤色狩りがあったと思います。原爆の被爆者とシベリア抑留者を赤色よばわりした矛盾が招じています。たしかに初期の国労や動労千葉の組合員にシベリア帰りが多かったことは祖父からきいてますが、やっぱり国家を嫌いになるような赤色レッテルはすべきではないとかんじます。国家が嫌いなるような赤色狩りがあるからある部分で色々と大変な状況なんだと思います。
投稿: 愛ちゃん | 2015年4月 7日 (火) 13時59分
政治的な発言が牽制されがちな場面によくあいますが、
「個人の問題は社会の問題である」と思います。
今、何もしないと、それこそ仁藤さんの言う「綱引き」
に負けてしまいますよね。
先生の活動、勇気を頂いてます。頑張ります。
投稿: 貞永明美 | 2015年4月 7日 (火) 16時05分