「2014年ヒロシマ平和の夕べ」⑤被爆者への救援活動
2014年ヒロシマ平和の夕べの続きです。「核兵器のない明日を願って」からの転載です。
『 講和条約
東西両陣営の対立が深刻化する中、1951年(昭和26年)9月8日、サンフランシスコ講和条約が締結され、翌年4月28日発効した。GHQの占領が解かれ、プレスコードが解除されたのである。二つの動きが本格化した。被爆者自身の援護法要求運動と被爆者を支援する救援活動である。
救援活動として最初に注目されるのは、講和条約締結直前の1951年8月、広島流川教会の谷本清牧師が始めた「シオンの会」と「原爆被災者自力更生会』である。原爆乙女に心の安らぎを与え、その自立を支援しようとした両会の活動は、彼女たちの心の支えになり、その後、彼女たちのケロイドを治すための渡米治療へと発展した。
続いて、原爆孤児を支援する運動が1953年(昭和28年)から始まった。原爆孤児の支援は、1949年(昭和24年)に広島を訪れたアメリカの雑誌「サタデー・レビュー」主宰、ノーマン・カズンズさんの提唱ですでにアメリカ国内で精神養子運動が始まっていた。広島大学の教官だった長田新さんや森瀧市郎さんらは、その運動を国内でも広げようと、2月22日に「広島子どもを守る会」を結成。初代会長には森瀧さんが就任し、孤児施設などで暮らす原爆孤児たちに精神的支援を行った。
原爆症の研究や被爆者医療への取り組みも進められた。人体被害の調査研究は、日本学術会議や国立大学医学部などが中心になり被爆直後から行われたいたが、その成果はGHQに没収されていた。その締め付けが解かれ、日本学術会議は1952年(昭和27年)5月に本格研究のための「原子爆弾災害調査研究班」を設置。9月には広島で第一回の調査研究報告会を開いた。さらに10月に開いた第13回総会では、学術専門家の間で原爆災害への理解を深めるために、被爆者を招いて体験を聞いた。また、国立予防研究所も1953年(昭和28年)11月、「原爆症調査研究協議会」を発足させた。
一方、広島では1953年(昭和28年)1月、行政と医師会が協力して「広島市原爆障害者治療対策協議会」(後の原対協)が設置され、被爆者の健康管理に乗り出した。また、広島市・市議会は長崎市・市議会と共同で同年5月、国会へ「原爆障害者に対する治療援助に関する請願」を提出。請願は8月、衆参両院て採択された。』
それらの動きに合わせての被爆者自身の動きに続きます。
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コメント
被爆者援護法の成立過程の精神的土台にはこんな歴史があったんですね。教科書や三大紙は成立だけを賛美しますが、やっぱり成立するじきが遅すぎたと思うのとやっぱり国庫からだす被爆者医療の予算のありかたへの矛盾とアメリカへの謝罪要求はすべきだろうとかんじます。アメリカの賠償責任は存在しうるのだから。
投稿: 愛ちゃん | 2014年2月 4日 (火) 11時46分
こんばんは!
昨日は お世話になりました。
先生、 声の方は いかがですか?
昨日は、ずいぶん しんどそうでしたが 声がしんどい中、私に 優しい言葉を かけて頂き、心にはりつめた緊張が ときほぐれて スー しました。
たぶん また再検査だと思っていますが。。。
( ̄▽ ̄;)ハハハ
また 寒くなると 天気予報で 言ってましたので
身体には 気を付けて下さいませ。
投稿: のり | 2014年2月 4日 (火) 20時51分
愛ちゃんさま
アメリカへの補償の請求は、すでに国が放棄するとアメリカと約束しましたので、無理なのですね。
無事移植終わりましたか?成功を祈っています。
こうのみよこ
投稿: こうのみよこ | 2014年2月 5日 (水) 08時31分
のりさま
言う通りに検診に来てもらっていますので、必ずいい方向に行きますからね。気持ちはしんどいでしょうが、頑張って下さいね。 こうのみよこ
投稿: こうのみよこ | 2014年2月 5日 (水) 08時32分