「原爆の父」がアメリカ批判をしていた
以下、共同通信社のサイトからの引用です。
『「原爆の父」が米国批判 放射線被害、過小評価と
共同通信社 8月12日(月) 配信
1966年10月5日、ロンドンで記者会見するウィリアム・ペニー博士(PA=共同)
【ロンドン共同=半沢隆実】英国の核開発を主導し「原爆の父」と呼ばれ、米国の原爆開発にも関与したウィリアム・ペニー博士(1991年死去)が日本への原爆投下から約4カ月後、「米国は放射線被害を(政治的な目的で)過小評価している」と強く批判していたことが10日までに、英公文書館に保管されていた文書で分かった。博士は独自に「殺傷要因」を特定するため、英科学者を米国の核実験に派遣する必要性を訴えていた。
米国は当時、放射線による悲惨な被害実態が世界に知られることを警戒、厳しい報道規制を敷いていた。文書は、米国が最重要同盟国で原爆を共同開発した立場にある英国に対しても、核兵器の本質を隠していたことを示している。
文書は原爆被害を調査した英政府機関、医学研究評議会(MRC)のファイルの一部で、45年12月4日にMRC関係者が作成。「ペニー博士は(広島と長崎で)多くが放射線によって死亡したことを示す相当な証拠があると判断している」と記されている。
ペニー博士はさらに「米国はこの見方を軽視し、あらゆる被害を爆風と熱に起因させようとしている」と批判。「この(放射線被害の)問題は、米国で最も重要な政治問題になろうとしている」と背景を指摘した。
爆風効果計算の専門家であるペニー博士は英国での研究を経て、原爆開発を進める米国の「マンハッタン計画」に参加。長崎では観測機から投下を目撃し、その後、広島と長崎を現地調査した。45年12月13日にロンドンで行われた専門家会合で博士は「投下直後の放射線照射により、多くの人々が死に続けたことに疑いの余地はない」と指摘した。
また、米国提供の情報は不十分で、次の原爆実験に英側も参加し、放射線被害について「最大限の情報」を収集することを医療専門家らに呼び掛けた。MRCの記録などによると、英科学者らは博士の提案通り、46年7月にビキニ環礁で行われた実験観測に参加した。
※原爆被害
原子爆弾が爆発した際の熱線で、広島、長崎の爆心地の地表温度は3千~4千度に達した。広島では猛烈な爆風で爆心地から半径2キロ以内の建物のほとんどが壊滅、大量の放射線も放出した。当時広島には市民ら約35万人がいたが、1945年末までに爆発と放射線の影響で推計約14万人が死亡。人口約24万人の長崎では同年末までに推計約7万4千人が死亡した。被爆の5~6年後には白血病が多発、10年後からは臓器のがんが多発するなど、生き延びた被爆者も多くが放射線の影響による健康被害に苦しんでいる。(ロンドン共同)』
以上で引用は終わりです。原爆の投下後、厳しい報道規制、プレスコードが敷かれていたことは、周知の事実ですが。投下から4ヵ月後に、もうこのようなことがあったとは。改めて、情報を隠ぺいすることの罪を感じます。
情報が国民に知らされていない他の国のことをあれこれいいますが、今のアメリカもそして日本も、いかに卑怯なことを政治がしているか、東電の原発事故を見れば分かります。騙されないようにしなければならないのですが・・・。
私は、まだ東京にいます。今日、広島に帰ります。明日からは、大分です。
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コメント
河野先生、
「原爆の父」とは、米国のマンハッタンプロジェクト指揮した物理学者ロバート・オッペンハイマー博士が良く呼ばれていますが(他にも、アインシュタインを初めとする著名な物理学者も時々こう称されますが)、英国にも『原爆の父」はいたのですね。
オッペンハイマーも、後に原爆(特に水爆)を避難して、公職の国家機密を知る権利(Security Clearance)を失ってしまいます。
水爆には、「水爆の父」エドワード・テラーがいます。彼は,レーガン大統領に衛星を使ったミサイル追撃システム、スターワーズディフェンスを勧めたとも言われていたと思います。
投稿: クロス | 2013年8月16日 (金) 01時56分