広島二中竹田雅郎さんの弁当箱。
昨日は、午前中は原爆資料館へ。午後YMCAでの知花さんと中村さんお二人の僧侶による「平和と平等を問う」の講演会へ。そして夜はカラオケ・シダックスのパーティールームでの「はだしのゲン」の関係者の方たちと、はだしのゲンの歌を歌う会にと、フルでした。どれも感動的でしたので、ぼつぼつご報告しますね。
午前中、私たちの「平和の夕べ」のスタッフの神戸に住む竹田雅博さんのお兄さんが、被爆当時広島二中の1年生で爆死。そのお兄さんの真っ黒に焼けた弁当箱が資料館の「二中遺品」に保管してある、それを見せてもらうというので、私も行ったのです。
竹田さんと、前日に沖縄から来られた知花昌一さん、そして中村周六さんと四人で資料館東館の三階の事務所に行きました。
遺品は、空調の効いた保管室から、事務所に移されていました。密封された容器に入っています。
資料館の方が、白い手袋をして出して下さいました。
容器の蓋を開けると、写真と共にしっかりと包装された遺品がありました。あどけない写真。まだ12歳。中学一年生で、学徒動員に出されていたのです。
一緒に保管してあった説明書は日本語と英語の両方で書かれていました。
「 1年6学級の竹田雅郎さん(当時12歳)は、同級生の自宅である舟入河口町の唯信寺まで逃れましたが、8日に亡くなりました。この弁当箱とはしは、父親の俊二さんが雅郎さんが建物疎開作業を行っていた場所で見つけたものです。遺体が唯信寺にあるあることをまだ知らなかった俊二さんは、遺骨の代わりとして、この弁当箱にその場の砂を納めてもち帰りました。」
中身の砂はこぼれるので、別の袋に入れて保管されていました。お弁当箱の蓋の模様から、雅郎さんのお弁当箱だとわかったのだそうです。
見つかった時に、中身がなぜなかったのか、分からないそうです。ほとんど爆心地。あまりの高温で中身に何か変化があったのかもしれません。
当時広島一中の3年の兄昭義さんは、鶴見橋一帯での建物疎開に動員されていました。そのお兄さんが、中国新聞の二中の犠牲者の特集の紙面に語っています。「父が住職から聞いた話では、弟は最期に『天皇陛下万歳』と言ったそうです。何とも言い難い気持ちと、戦争責任の所在を考えざるを得ません」
遺骨は、お寺で沢山の人と一緒に焼かれたため、ないのだと。だから、お墓には、名前は書かれているけれど、中は何にも入っていないそうです。
この後、講演会場のYMCAに向かいました。
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