「2013年8.6ヒロシマ平和の夕べ」③
「広島大学原爆死没者追悼の碑」。そこに記されている当時の飯島学長の碑文についてです。
プリントに掲載したのと違って、これは後ろから撮影したものです。
碑文は、もちろん正面に置かれています。
「昭和二十年八月六日廣島に原子爆弾が投ぜられた。一瞬、莫大な破壊を生じ、無数の人命を奪ったのみならず、その被害は長く今日に及び、身心の傷跡なお癒ゆることがない。本学前身諸学校のうち、廣島文理科大学、廣島高等学校、廣島工業専門学校、廣島高等師範学校、同附属中学校、同附属国民学校、廣島女子高等師範学校、同附属山中高等女学校、廣島師範学校、同附属国民学校、廣島県立医学専門学校、廣島市立工業専門学校は当時市内に所在し、直接被災した。その教職員並びに学生生徒児童は学校の内外において死傷し、また後遺症により没した者多きを数える。爾来星霜三十年を経て被爆により死没せられた人々を悼む心吾人において益々ふかく、核兵器を憎み、その完全なる廃絶と、世界恒久の平和を願うこと切なるものがある。ここに有志相はかり、建碑して追悼の意を表するとともに、廣島大学が人類平和の確立に敢然寄与すべきふかい学問的責務を負う所以を永久に銘記する。
昭和四十九年八月六日
廣島大学学長 飯島宗一撰
元廣島大学教授 井上政雄書
飯島先生は、単なる科学者だけでなく、政治や文化、哲学に通じた論客でした。私たちが学生の頃、学生運動で団体交渉などをするにあたって、教授陣との論争は、ひたすら飯島先生をいかに攻略するかが課題でもありました。その後学長になられた時には、なんと46才の若さだったのですね。
今、これだけの碑文を読んだだけでも、先生の偉大さが分かります。というか、青二才の私たちは、もっともっと先生に学ぶべきことがあったはずだとも・・・。2004年に亡くなっています。
この美しい文字を書かれている井上政雄先生は、書の名を井上桂園先生と言います。広島大学の教授の後は、安田女子大学で多くの学生を育てられるなど、書の世界の偉大な指導者でもありました。1997年に亡くなっています。
このブログを書くために、撮って来た写真を見ていて、ふと何かあるのに気づきました。拡大してみると、こんなのが書かれていました。後ろの角にひっそりと書かれています。もっと、碑文の中に堂々と書かれていていいはずなのですが。
この碑の設計者、佐藤重夫先生です。
広島大学の建築科の教授。1967年の原爆ドームの保存工事を指導した方です。2003年に亡くなっています。
このような先人たちの業績に触れることができただけでも、私は今回の碑の撮影をしてよかったと思いました。
私は今日の木曜日は、県北の中学校に講演に行きます。学校はなんかナビも途中で消えてしまうほどの所にある、全校生徒48人の学校です。先週は大規模の学校でしたが、今週は、一人ひとりの顔を見ながら話ができるはずで、ホットします。雨なので。早めに出発します。
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コメント
オバマ大統領が、核兵器の削減を言ったら、それに賛同して平和を求めているようなコメントを政府は言ってますが、核拡散防止条約(NTP)の核不使用声明に署名していなのですから、安っぽい事ですね。
人間として、3流以下の人が政治をしているのですから。
大学は、学び研究する場で、就職するためだけにあるのではないのですから、広島では平和を学び研究し、一流の人間がたくさん輩出できたら、日本の政治ももっとまともになることでしょう。
投稿: やんじ | 2013年6月21日 (金) 04時58分