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「ヒロシマ」と「フクシマ」その②被爆者の闘い

 前回、広島の被爆者の健康手帳のお話しを少ししました。これを獲得するために、どんな被爆者の努力を要したか。それが如実に語られています。

Dscn4278_1280x960_2「核兵器のない明日を願って―広島県被団協の歩み―原爆被害者団体協議会」

 この中に、被爆者の運動の詳細が書かれています。家を焼かれ、家族を失い、食べ物もなく(栄養を取れず)、病の治療もままならず、職を失って金もなく、疲労困憊を極めた被爆者たち。どこを読んでも、涙が滲みます。

 この最後に、被爆者運動を頑張った方たちの座談会があります。ここから少し引用をさせて戴きます。

池田 初めての原爆被害者大会が千田小学校(広島市立)で開かれたのが、1956年(昭和31年)3月18日でした。その時はお互い肉親でもないのに肉親以上の者が集まったように親近感を覚えたのを昨日のことのように思い出します。それまでは原爆という言葉を使うことはタブーでしたし、結婚したら「ようあんな者をもらってから」と言われ、子どもがいても「離婚して帰らせ、帰らせ」とというようなひどい仕打ちを受けて、ただ我慢して我慢してうつむいて生活していましたから、大会に集まった被爆者たちはお互い手を取り合って泣き合いました。私も当時まだ若かったですから、年配の方から「あんた、本当によう我慢してきたね。よう生きたね」と励まされて、嬉しくて嬉しくてウォンウォン泣きじゃくりました。

 この大会で、国会請願しようということになって、3月20日に45人で白いタスキをかけて第一回の国会請願に行ったんです。私と阿部さんも着物を着て、下駄を履いて参加しました。東京では鳩山首相の音羽御殿を訪れ、夫人にも会ったんですが、私はいつものように陰の方で顔を隠すようにしていると、伊藤サカエさんだったか船越の婦人会長さんだったか、「あんたら一番前に行きんさい」と一番前に出さされたんです。「見世物にせんでもよかろうに」と思いながらも一番前に立つと、年配の人が私たちを紹介して「この原爆で焼かれた姿を見ちゃって下さい」と切々と訴えていました。その後、県出身の池田隼人さんの私邸も訪ね陳情しました。この請願行動を終えてから、「組織を作ろう。組織がなきゃ何もできん」という話になりまして。それで私も早速、当時住んでいた畑賀の役場で被爆者の名簿をもらい、四十何人かの被爆者がいたんですが、一軒一軒通知を出して集まってもらいました。すると、よく集まりまして、四十人近くが集まってくれて、被害者の会をつくることができました。

坪井 阿部さんも原爆被害者大会に参加されたのでは。

阿部 参加するのはしたんですが、まだ精神状態が不安定だったので無我夢中でした。阪神大震災の被災者には精神的ケアが必要などと言われていますが、私ら被爆者は十年以上の間全く放置され、繰り返すようですが、虐げられ虐げられ、我慢の連続でしたから、今のように強い人間じゃありませんでした。ですから会場の温かい雰囲気に接して、涙が止まらずどうしようもありませんでした。同じ境遇に置かれていた被爆者仲間に囲まれ、涙もろい人間になっていたんでしょうね。

坪井 何か悲壮な感じですね。あの当時、被爆者は本当に悲惨な状況ありましたから同じ被爆者に出会い、たまっていたものが一気に噴き出したんでしょうね。

池田 本当にそうでした。

坪井 そして、この大会が終わっていよいよ、みんなが集まらなければいけないということで、その年の五月二七日に県被団協の結成となるわけです。この結成には行政も加わったんですよね。

近藤 そうです。県被団協は行政が音頭を取り、全県ぐるみでできました。その後、愛媛県や長野県、福岡県などにも被団協ができ、八月一〇日の日本被団協の結成となったわけです。

池田 被団協の結成は本当にとても嬉しかったですね。被団協に集まるようになって、「生きていて本当によかった」という気持ちになりました。体がだるくてだるくてやり切れなくても、周囲の者からは横着病と言われ、医者に行くと栄養失調だと馬鹿にされて取り合ってもらえない日々でしたから、心を許せる仲間との語らいは本当に救いでした。

 (この項、まだ続きます。とぎれとぎれになるかもしれませんが、大切なことと思いますので。なぜこのようなことに私がこだわるのか、そのうちにそれらもまた述べます。)

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コメント

被爆者の方が、私たちの時には誰も助けてくれなかった、家も食料もなにもかも自分でなんとかしなければいけなかったと言われます。
これは東北で被害を受けた人達を批判する言葉ではありません。
「ヒロシマも復興できたからフクシマも」と聞きますが、ヒロシマの復興は被爆者の市民運動も大きいと思います。
被爆者手帳を持っているから、医療費が無料だと批判される人がいますが、東北の震災で寄付されたお金や、ボランテアの活動費用、無償の仮設住宅を考えると、被爆者が自ら勝ち得た生きる権利である被ばく手帳で使われたお金は、決して大金ではないと思います。
医療費が免除されるより、病気になる心配や病院へ通う手間ひまを考えれば、例え医療費が有料でも健康であるほうがましだと考えるのが普通だと思います。
被ばくして、病気になり癌になったら手術すればいいなんて言う人は、まともでなく、壊れた部品は交換すればいい人を車や機械のように思っているのでしょう。
自分はいつも安全な場所にいて。
フクシマの子供達も、他人の子供だから、被ばくさせても構わないのでしょうね。

投稿: やんじ | 2013年4月10日 (水) 13時22分

30年前、九州に転居したとき 近所の歯科医院にいって被爆者手帳を出したら「これは何ですか?」と受付の人に尋ねられて ビックリしました。今は どこでも通用しますが・・・。

第一回の集会は 千田小だったのですね(小学4年の時です)校庭には被爆によって焼け曲がった鉄骨が 無残さを残していました。 
吉島の飛行場からもらってきた芝生を 児童が手伝って校庭に植えた事を 懐かしく思い出しました。

実家の印刷業では ずっと坪井さんにお世話になっていました。ときどきテレビでお姿を拝見して 私たちも頑張って伝えなくてはと感じています。

投稿: yuumin | 2013年4月10日 (水) 22時05分

やんじさま
その通りで。こうして理解を示して下さる方があるのはうれしいです。被爆者の苦労を全く逆にとらえて、フクシマの人たちに押し付けようとしている研究者たちをちゃんと見張らなければ、と思います。こうのみよこ

投稿: こうのみよこ | 2013年4月21日 (日) 12時04分

yuuminさま
yuuminさまは千田小学校だったのですね。観音の私の小学校も卒業するまで鉄骨むき出しの行動が残っていました。いつもありがとうございます。こうのみよこ

投稿: こうのみよこ | 2013年4月21日 (日) 12時06分

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