「ヒロシマ」と「フクシマ」その④被爆者同士で支え合って
二回にわたって引用した「核兵器のない明日を願って」の座談会、遡りますが、今日はその初めの部分を引用します。
坪井 広島県被団協は一九五六年(昭和三一年)五月二七年に結成されました。原爆投下からすでに十年余り経っていたわけですが、それ以前の被爆者の会結成の動きはどうだったのですか。
近藤 広島市では、原爆投下の年の一二月に町内会役員らによって広島市戦災復興会が結成され、被爆者の世話に当たりましたが、被爆者自身は被爆により大変な状況に置かれていました。加えて、GHQ(連合軍総司令部)のプレスコード(原爆報道規制)下ということもあって、とても表立った動きができる状況にはなかったですね。被爆者の動きが始まったのは、一九五一年(昭和二六年)にサンフランシスコ講和条約が締結されてからだと思います。
高橋 「原爆一号」と言われた故吉川清さんらが「原爆被害者の会」を結成したのが、一九五二年(昭和二七年)のことでした。この会は映画「原爆の子」の撮影に協力した被爆者たちがお互いを励まし合うために作ったもので、被爆者の会としては初期のものだったと思います。私もこの会に参加して、大いに励まされ勇気づけられましたが、会は間もなくして「八・六友の会」「原爆被害者の会本部」など三つの団体に割れてしまいましてね。原因は会員の増加に伴い意見対立が生じたためです。私は吉川さんのつくった「八・六友の会」に出入りしたんですが、文字通り親睦会でしてね。花見に行ったり、酒を飲んだりでした。政治的な運動と言えば、原爆ドームの保存のための署名集めをしたことぐらいでしょうか。援護要求を言い出したのはずっと後になってからです。
池田 私も「八・六友の会」に参加していました。阿部さんらと一緒に一ヵ月か二ヵ月に一回、吉川さんの所に集まって、愚痴を言い合ったりするんです。当時は周囲の誰にも悩みを聞いてもらえませんでしたから、会に参加するのが何よりの楽しみというか救いでしてね。夜遅くまで真っ暗な夜道を歩いて帰ったこともしばしばでした。
藤川 夜道の中を、海田、奥海田を経て畑賀まで帰るのは、女の足では大変だったでしょう。
池田 それが全然さみしくないんですよ。「友の会」に話を聞きに行くのが何より楽しみでしたからね。
坪井 今なら大変ですがね。当時被爆者は被爆者同士だけしか理解し合えない、そういう状況に置かれていたんですね。阿部さんの住む海田町(安芸郡)での組織作りはどうだったんですか。
阿部 海田町でも会結成は遅かったですね。後に県被団協の事務局長を務められた桧垣益人さんが町内各戸を回られ、被爆者たちに会結成の働きかけをされたのは県被団協結成二・三年前のことでした。当時、私たちは「死に損ない」などとののしられ、虐げられ、苦しみのどん底にありましたから、桧垣さんが訪ねて来て下さった時はとても嬉しかったです。桧垣さんは本当に一生懸命でして、各戸を回ったあと地域ごとに被爆者を集めて集会を開き、海田と東海田の二つの原爆被害者の会をつくられました。会はその後、一つになりましたが、会づくりに奔走された桧垣さんの苦労は大変なものだったろうと思います。
坪井 藤川さんの所はどうでしたか。
藤川 県北でも会結成は遅かったんですが、三良坂はその中で一番早かったんです。援助物資の配布がきっかけでした。県北の被爆者にも一九五二年ごろから古着、ノート、鉛筆などの援助物資が届き始めましてね。私の住む三良坂町では最初、その配布を婦人会に依頼していたんですが、婦人会では誰が被爆者か分からず、困り果てたようです。それで翌年、婦人会長が私の所へ相談にやって来て、被爆者の皆さんで配ってほしいと要請されたんです。それを受けて、夏に、多分八月六日だったと思いますが、約三十人の被爆者が集まり、十五円のかき氷を食べながら配布方法などについて話し合ったのを思い出します。その時に「友の会」をつくり、お互い話し合い励まし合っていこうというような話になりまして。その年の暮れに届いた義援金や援助物資を困っていね被爆者に私たち被爆者自身が配ったのですが、その活動が事実上の「友の会」誕生になりました。
坪井 県内各地とも会結成の取り組みが始まったのは講和条約締結後のようですね。その後、一九五四年(昭和二九年)三月にビキニ被災事件が起き、それをきっかけに原水爆禁止の声が高まり、第一回原水爆禁止世界大会が広島で開かれました。この頃から被爆者の動きも活発になってきましたね。
(ここから、4月10日の千田小学校での初めての原爆被害者大会のお話に続きます。前後してしまいました。)
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