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「ヒロシマ」と「フクシマ」その⑤番外編・吉川清さんと私の個人的なこと

 ちょうど、昨日、「広島市原爆被害者の会」主催で、「反核運動の先人知ろう」という会が開かれました。この会が開かれることを書いた中国新聞4月8日の記事から少し引用します。

「広島市被害者の会は、被爆地広島などで反核運動の先頭に立ってきた先人について学ぶ会を年に数回開催する。核兵器も原発もない世界を目指し、ヒントを探るのが狙い。初回は「原爆1号」と呼ばれた吉川清さん(1986年に74歳で死去)を取り上げ、13日午後1時半から中区大手町3丁目の平和会館で開く。

 吉川さんは、広島では初の被爆者組織を結成するなど被爆者運動を担ってきた。原爆ドームの近くで土産物店を開き、観光客にケロイドを見せて原爆の悲惨さを訴えた。そのため、「原爆を売り物にしている」との批判も受けた。(後略)」

 昨日の会には35人くらいの方が集まってお話しをしたそうです。中でも、昨日まで引用した座談会で話していらっした池田精子さんが沢山お話しして下さったそうです。

 その座談会に参加された方も、もう藤川一人さん、高橋昭博さん、近藤幸四郎さんが亡くなっています。

 池田さんは、私たちの「平和の夕べ」でもお話しいただきましたが、大腸のがんの手術を受けながらも、若い人たちに体験を話し続けていらっしゃいます。そのお話しは壮絶です。

 女学校一年の時に被爆。全身のひどいやけどでとても助からないと言われていたのが、ご両親の懸命の看護があってか、奇跡的に生き延びることができました。顔のケロイドの手術は15回にも及んでいます。顔がひどいとき、近所の子どもたちにも敬遠され、絶望していたときに、こっそり父親が近所の人に彼女の話をしているのを聞いて、心改めて生きようとしたことなど。

 その池田さんが、胸を張って生きること、被爆者が、その体で平和を訴えなければ、という力を学んだ吉川清さんのお話しはぜひ私も聞きたかった!のですが。いかんせん、土曜日の午後の診療時間で、どうしようもありませんでした。

 私は、ここにきわめて個人的で、少しテーマと外れるので迷ったのですが、ちょっとだけ吉川清さんの思い出を書きますね。

 初めて吉川さんのことを知ったのは、小学生の時。平和公園で吉川清さんの話を聞きました。そのケロイドだらけの背中を見せてのお話しには、ただただびっくりしたという、強烈な印象でした。

 平和公園で「被爆者の店」として屋台で土産物を売る吉川さんに原爆を売り物にしているという社会の批判も聞いてはいました。でも、吉川さんは物を売るだけでなく、その被爆の体験を話すという、大命題がありました。

 時が経って、私が吉川さんと個人的に親しくさせていただいたのは、高校を卒業し、広島大学に入学したその年です。入学試験を終え、ホットしているときの新聞に「ヒロシマで映画をつくる、それに出演する女性を募集する」という、オーディションの知らせでした。ちょうど何もすることがない休みだし、演劇部だったし、で、そのオーディションに応募しました。

 面接で、これまでした劇をその場で演じてみるようにと言われ、私が高2の時の公演、県大会で優勝した「広い黄色い土地」の中国の少女の役を演じました。日本軍が中国に侵略し、そま足音にじっと隠れていた少女が「もういやだ―」と叫ぶところです。

 その審査員に監督と吉川さんもいらっしゃったのです。その場で、別室で待つように言われ、やがてやって来た一団に「さらにこのセリフを演じてみて」と言われ、本を渡されました。その一部のシーン、母親が倒れ、病院に運ばれるとき。必死に母親に呼びかけながら、一緒に伝い歩くシーンです。そこを監督が下から私の顔を見上げるようにしながらずっと着いて歩いていました・・・。

 その映画についてはいろいろとあったのですが、結局主人公の友人役で出演しました。この度、何気なくその映画についてネットで検索してみたら、キャストに私の旧姓の名前が出ていて、びっくりしました。加藤剛、望月優子などと共に、私の昔の名前が出てる、あはは、と夫に見せて笑いました。

 その映画「ヒロシマ一九六六」はここに あります。今、このあらすじを読むと、広島と安保闘争、ベトナム戦争を絡めた、よく分かる興味深いストーリーなのですが、当時の私はまだ幼なかったですね。監督の白井更生さんは、「24時間の情事」の助監督であり、第一回目の監督作品でした。今なら、いろいろと話ができると思うのですが、もう肺がんで亡くなっています。

 その映画作りにも吉川さんは、若い監督に付き添いながら、一生懸命でした。私も、ごはんをたべに連れて行ってもらったり、奥様がしている「原始林」というお店に連れて行ってもらったり。ケロイドの不自由な手で歌を作り、その場で歌って下さったり。吉川さんも監督と共に私の家に来て、父親と原爆の話をしたり・・・。

 その時に、「私は子どもができんのです」と悔しそうに話されたのが脳裏に残っています。

 若い人をかわいがる人でした。後に夫が吉川さんを取材したときに、夫がその時の私と結婚していると知って、とってもびっくりされたそうです。

 つい懐かしくて、どうでもいい若いころの私のことを書いてしまいました。

 まだ被爆者医療や被爆者の闘いと原発についてとか、書きたいことが沢山あります。ちっとも面白くないことかと思いますが、もう少しお付き合い下さいませ。

 

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コメント

(ご連絡)
先生、DVDは我が家にまだありますので、ごゆっくりご覧になってください。
ご迷惑でなければずっとお手元におかれてても大丈夫です!

投稿: もものすけ | 2013年4月14日 (日) 13時52分

夫の兄も 二中時代に東練兵場での野外作業中に被爆しました。同級会に出ると子どものいない人が 多いと云っていました。勿論,義兄夫婦にも 子どもが授からず 義姉が亡くなって以来 不自由な体で一人暮らしをつづけています。多くの介護スタッフのお力添えで自宅での暮らしを続けていますが つらいことです。
 無精子症が思春期の大量の被爆が影響していないとは
云い切れないかな・・と 一人思っています。

映画観てみたいです。その時期、広島を離れていたので
全然知らなかったです(残念)。
 

投稿: yuumin | 2013年4月14日 (日) 20時57分

長谷川さん、女優もされていたんですね。すごい

投稿: ⑦パパ | 2013年4月15日 (月) 06時14分

河野先生が応援に駆けつけられた宝塚市長選、見事維新候補を破って現職再選。憲法を変えて再軍備に走る発言の自民や維新には同調できる訳もありません。
絶対に戦争という名の暴力で紛争は解決しません。そして私たちの子供や孫を戦地に行かせる事を認めてはいけないと思います。

投稿: なんでも辛口 | 2013年4月15日 (月) 07時18分

もものすけさま
ありがとうございます‼講演に行く車の中で4巻見ました。と言うか、聞きながら、ですか。そしたら、運転がちっとも苦痛でありませんでした。続きはゴールデンウイークに九州に帰る時にします。家で見始めると、私は歯止めが効かなくなって、徹夜になってしまいますので・・・。本当に面白くって。感謝です。こうのみよこ

投稿: こうのみよこ | 2013年4月23日 (火) 10時05分

yuuminさま
精母細胞が強い放射線で破壊されるのでしょうね。多くの被爆者、それも近距離被爆の方にはお子様がいらっしゃいません。高橋昭博さんもそうでした。お気の毒です・・・。こうのみよこ

投稿: こうのみよこ | 2013年4月23日 (火) 10時12分

ナナパパさま
若いころの部活の延長ですよ。こうのみよこ

投稿: こうのみよこ | 2013年4月23日 (火) 10時14分

なんでも辛口さま
はい、維新を破って本当に良かったです。どんどん戦争への道を進んでいる今の情勢、何とかしないといけません。今回の選挙、その意味でも良かったです。こうのみよこ

投稿: こうのみよこ | 2013年4月23日 (火) 10時18分

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