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「平和を語る会」秋葉さんの講演の続き

 一昨日は、「主権回復の日」として政府の式典が行われたそうです。その報道で、本当にびっくりしました。「主権回復」と言うことは「主権在民」となったことと思ったら、「天皇陛下バンザーイ」がされたと。首相など三権の長がそろって「万歳」をしたとのこと。これには、本当にびっくりしました。 

この記事 を読んで、さらにびっくりしたこと。児童合唱団が、壇上でなく、檀上の天皇や閣僚に向かって舞台下から「翼をください」などを歌ったとのこと。こんな歌い方をさせられたのは、児童合唱団の子どもたちにとって初めてではないでしょうか。

 更にびっくりしたこと。首相は『直後に米軍のトモダチ作戦を持ち出し、「熾烈に戦った者同士が心の通い合う関係になった例は古来、稀だ」と2月の日米首脳会談で語った「完全な日米同盟」をアピールするような文言を続けた。』

 同じ日に行われた秋葉さんの講演での「日米地位協定」。前泊博盛著の同名の本から

●日本のどこでもも基地にできる
●基地で働く米兵や家族はビザなしで日本中自由に行き来できる
●航空法などの国内法規は守らなくて良い
●犯罪をおかしても特別待遇

このような「不平等な同盟である」と。そして、このことをボストンの総領事に話した所、この内容については、すべて分かっていたと。ということは、外務省ではこれらはみんな周知のことであるということなのでしょう。このような協定の元での「完全な日米同盟」なのですね。

 そのためなのでしょうか、NPT・核不拡散条約再検討会議に向けての第2回準備委員会で「いかなる状況下でも核兵器を再び使用されないことが人類の共存のためになる」との声明に日本は署名しませんでした。外務大臣は広島の岸田氏であるにもかかわらず・・・。

 話が前後しましたが、新聞を読んであんまりビックしたものですから。

1201x797 日立の原発推進の立場にある吉成氏の基調報告のまとめです。例えば、空間的不平等とは「都市に住むものが利益を受け、地方に住むものが原発立地となる不平等」。時間的不平等とは「今生きている私たちではなく、将来の子孫に核廃棄物の迷惑をかける行為」。拡散・転用のジレンマとは「原発での生成物が核兵器をつくることに転用されうること。」また、経済的不合理とは、「古い原発は儲かるが、新しい原発は安全基準がとても厳しくなって、それをクリアするのは大変で、大金がかかって儲からない」のだそうです。さらに、最後の「確率が低いはずなのに、頻繁に起こる事故」。

 このような分析はとてもよくできていて、理解できるのですが、それにもかかわらず、原発を作り、売ろうとする日立の立場と言うのが良く分かりません。これらを聴けば、「だから、原発はもうやめましょう」となるのが素直だと思うのですが…。

 秋葉氏のお話しの中で、エジンバラに行かれた時の「スコットランドの独立がなるかどうか」という所も興味深かったので。

Dscn4411_1280x960 スコットランドは素晴らしい理念を持って独立を目指しているのですが、今は五分五分なのだそうです。もし独立が実現すれば、沖縄の人たちにも力を与えることになるかもしれません。(これはあくまでも河野の思いです)

秋葉さんは、ベルリンではオットーハーンの授賞式だけでなく、大学での講演など忙しくされました。

 オットーハーン平和メダル受賞について、また秋葉氏の講演の内容について(この授賞式の時ではありませんが) このブログ に詳しく書かれています。

Dscn4399_1280x960 またMPI中堅国家構想ついて。これは何なのかという方のためにもう一回お話しさせていただきますね。

 なお、この会には、広島ブログの方たちにも沢山来て戴きました。ナナパパ、ナナママさんご夫妻、緩和ケア医・薬剤師さんご夫妻、やんじさん、音♪さんなど、みなさんお忙しい中、本当にありがとうございました。 

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「平和を語る会」

昨日は、「平和を語る会」が無事開催されました。ゴールデンウィークも始まり、あちらこちらで沢山のイベントや講演会が開かれている日、参加者が来て下さるのか、とても心配でしたが、スタッフ以外で計83人の方がいらっしてくださって、ほっとしました。

 初めは、久保田圭二さんのお話し。平和の夕べの実行委員会のメンバーでもある久保田さんは、私たちにもこれまであまり語って来られなかった、原爆孤児として生き抜いて来た、そのお話しをしてくださいました。

 二歳にして原爆ドームから一キロの近距離で被曝。家はつぶされ、両親は殺され、一人のお姉さんとも離ればなれになり、久保田さんは祖父母と過ごしました。小学校三年から新聞配達をし、中学卒業と同時に、自力で生きて行くようにと祖父母から言われ、夜間高校へ。そこを1年で辞めて様々な仕事をした後、商業系の高校に再入学。20才で金融関係に就職。

 そこでの就職試験の面接で「両親がいなくて、就職できると思うのか」と言われたエピソードなどを聞いて、これまで、いろいろな人にさまざまなことを言われて来たのだろうな、と思いました。持前えの負けん気と頑張りで、計画通りの人生を歩んで来られました。その結婚観も。全く人生に対して無計画な私とは正反対でおもしろかったです。私たちは、若者に大人気だったグラタンの店「リゾート」の元オーナーということくらいしか知りませんでしたが、金融機関を辞めた次の日からもうオーナーとして店に立っていたこと。それまでに勤務しながら宅建や調理師の免許などを取得するなどその頑張りがとても役に立ったこと。

 行列ができるほどのお店をスッパリ辞めて、5年前、それまで別々に生きて来たお姉さんとピースボートに乗り、二人で北半球の世界一周をしました。この度、5年ぶりに再びピースボートに乗り、今度は南半球を回って来られました。後半はその楽しいお話しでした。船の中では、台湾の反原発の活動家の方の講座や、久保田さんは、福島の原発事故の放射線被害についての講座をしたとの報告もありました。

 今は、野菜を作り、癌サポートや図書館の本修理などのボランティア三昧の生活を送っていらっしゃいます。

 それにしても、両親祖父母と姉の楽しい家庭が、一瞬にして地獄と化し、その後の厳しい生活を余儀なくされた、でも、頑張りでここまで生き抜いてこられたということが良く分かりました。

 久保田さんのお話しの後、今度は秋葉さんのお話しです。秋葉さんは、4月の4日から24日までの間、アメリカでニューヨーク、ボストン、ヨーロッパでエジンバラ、ベルリン、ジュネーブなどを回られ、あちらこちらで講演をし、大切な人々に会うなど、まさに走り回ってこられました。その行程に沿ってお話しいただきました。

Photo ニューヨークではAFS国際本部、AFS USA、国連大使、MPIの事務所などに行き、それぞれの人たちとお話しなさいました。

 その後、以前秋葉さんが教官を務めていらっしたボストンのタフツ大学で開かれた「Japan Roundtable」へ。タフツ大学の外交・法律大学院である「フレッチャー・スクール」に在学中の日本人学生が中心となって開催する日本関連のシンポジウムです。今年のテーマは「核」。この会で三人の方が基調講演を行いました。

 一人はハーハード大学のKoga Keiさん。核抑止力 アメリカと日本の関係と東アジアについて。
もう一人は日立の原発を造り、売る立場の吉成康男さん。そして、秋葉さんの三人です。どの人の講演も聞いてみたい魅力あるタイトルでした。

 その中の原発推進の吉成さんのお話しを少し詳しく話して下さいました。(長くなりますので、続きは明日にします。)

今日は、これからの「8.6平和の夕べ」に向けての打ち合わせですが、私はパスです。これからクリニックにこもって、原稿書きをしなければなりません。もう締切が来ています・・・。

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「ヒロシマ」と「フクシマ」その⑩甲状腺癌について山下氏のアメリカでの発表

 今日の午後一時からは、平和の夕べ実行委員会主催の「平和を語る会」が開かれます。連休に入って、沢山の行事が開かれる今日、なかなか参加しにくい状況とは思いますが、多くの方にお話しを聴いて戴きたいと思います。ここに 詳しく述べています。よろしくお願いします。なお、会場は会議室(1)に変更されました。地下に降りてすぐの会場です。

 私は、まだこの「ヒロシマ」と「フクシマ」のシリーズで原爆医療のお話しをしなければなりません。これまで資料の整理に時間がかかってしまいました。

 何しろ、被爆者医療については、長年かかってここまでたどり着き、それでもまだ黒い雨の地域の被曝について、厚労省が認めていないため、被爆者の闘いは続いています。

 先日のあの恥を知れ!!と言いたいNPTでの「いかなる状況下でも核兵器が二度と使われないことは人類生存の利益」とする共同声明に賛同しなかった日本。

 その会、核拡散防止条約(NPT)再検討会議第2回準備委員会に参加し、ジュネーブ大学などでで証言した佐久間邦彦さんは、生後九カ月の時に爆心地から3キロの己斐町の自宅で被曝。母に背負われて逃げる時に黒い雨を浴びました。

 黒い雨の被曝を認めないことは、福島での低線量被曝に対しての日本、厚労省の方針の意図が見えてしまいます。広島では、まだ黒い雨の地域の低線量被曝の健康被害について決着がついていないにも関わらず、「ヒロシマ・ナガサキの例から低線量の被曝の健康被害はない」と言い切る福島の関係者・科学者・医師たち。

 福島での子どもが甲状腺がんですでに3人が手術を受け、あと7人の細胞診が陽性であったと発表されたのが2月です。その後の報告、発表が全くないのは一体どうしてなのでしょう。すでに7人の子どもたちも手術を受け、その病理組織の結果もとっくに出ているはずなのです。マスコミは一体何をしているのでしょう。早く発表せよと迫らないのでしょうか。

 あの山下氏俊一氏、記者会見では、3人の子どもの甲状腺癌と7人の疑いは、原発事故による影響とは思えないと言った、その記者会見の模様はここに アップしています。

 その山下氏が今年の3月11日、ちょうど震災から2年のその日アメリカの米国放射線防護・測定審議会(NCRP)の第49回年次総会で「福島原子力発電事故と包括的健康リスク管理」と題する記念講演を行っています。
 なんと、記者会見と全く異なる、その舌の根も乾かないうちにこんなことを言っているのです。記者さんたちは、こんなバカにされて何ともないのでしょうか。怒らないのでしょうか。それが不思議です。

1 その学会で使われたスライドの一枚です。ネットから戴きました。「76名の吸引細胞診が行われ、そのうちの10例が悪性または悪性の疑いと診断された。10例のうち3例がすでに甲状腺手術が行われ、すでに甲状腺癌と診断されている」と。

 学会でははっきりとこの様に10例と言われています。

更に、驚くのが、こんなスライドが出されていることです。

2日本の国立癌研究センターのデータを使ってのスライドです。日本人の甲状腺癌の10万人当たりの発症率です。ここの15-19才の所を見て下さい。

 すでに現状はこのグラフの如くであると発表されているのですが。私は??なのです。38000人の10人なのだから、点線で書かれているグラフはもっと上に伸びるはず。38000人に10人は、10万人に26.3人となって、うんと上に飛び出すはずなのですが・・・。(しかも、それがscreening effect?さしています。)

いずれにしても、とっても高い発症率です。これまでの日本では、15-19才の甲状腺癌は10万人当たり1人なのですね。 それを山下氏はアメリカで堂々と発表しています。日本の記者会見とは大違い。

 日本で言うことと、アメリカで言うこととの違い、かつて広島のABCCが行っていたのと同じだと思いました。

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フィリピン・セブの子どもへの文房具、ありがとうございました。

 昨年9月、私もメンバーに入っている(ただ入っているだけです)友人が代表をしている広島フィリピン友好協会が「セブのストリートチルドレンの子どもたちに文房具を」と呼びかけました。

ここに その時の私の記事があります。おかげさまでとっても沢山の文房具が集まりました。クリニックまで持って来て下さった方、YMCAへ持って来て下さった方、また遠方からわざわざ送って来て下さった方々。福井、埼玉など、それに福島の方まで。

 その文房具をセブの子どもたちに届けた報告書が来ました。ブログを見て提供して下さった多くの方々へのご報告のためにも、ここにその報告書を掲載させていただきます。フィリピンまで持って行ったのと、残りはこの度すべて船便で送ったとのことです。

 子どもたちの笑顔がうれしいですね。皆様、本当にありがとうございました。

 なお、広島フィリピン友好協会のHPはここに あります。ぜひ覗いてみて下さいませ。

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昨日の一日。皆様ありがとうございました。

 昨日の一日。ひまちゃんはうれしくって前夜眠れなかったそうです。

 まずshiozyさんと秀子さんとのりたまさんでバスセンターでひまちゃんをお迎え。無事ひまちゃんはバスで到着したのだけれど。バスに出発地点の表示がないものだから、次々と到着するバスのどれに乗っているのか分からなくって。私たちが待っている所からうんと離れだ所に到着したバスから、運転手さんの介助で降りて来るひまちゃん。びっくりして車いすを持って走りました。

 菓子博。大勢の人で疲れました。他の人のルポにあるように試食ももらえず、購入も難しくて、腹ペコで・・・。かろうじて私とのりたまさんが買った麩菓子やビスケット、おまんじゅうなどわずかなお菓子で外のテーブルで一休み。顔出しになるので、写真はアップできなくてすみません。

 延々と並んでやっと入ったお菓子のメーカーの館。それでも、ほとんどのメーカーでは整理券打ち切りなどで参加できず。一か所だけ50分待ちでランチパックの作り方と試食ができました。試食は広島風焼きそばとイカのフライがパリパリと入ったの。空腹もあってオイシカッタですよ。それだけです。

最後に広島のお菓子を買えたので、ひまちゃんもやっとおみやげができて良かったです。

 すでに足は疲れていても、これからが本番のカラオケでのパーティー。

5

4 豪華なお部屋。次々と運ばれる豪華な食事。 6 1 楽しい歌。中でも、キノピーの歌は、みんなお腹が痛くなるほど笑い、楽しくて。

 それにnsncyさんの歌は、みなをうならせました。が、nancyさんの歌は動画で撮ったため、それを写真にする方法が分からなくって。アップできなくてごめんなさい。いつか動画としてアップできればいいのだけれど。

2 それでも、何よりびっくりしたのが、突如乱入した三人の男性。前日ヨーロッパから帰られたばかりの秋葉さんたち。本当にびっくりしました。小さな花束をもらったひまちゃんはこの後秋葉さんの乾杯の歌に大泣きしましたよ。うれしいサプライズ。ありがとうございました・・・。私も、息が詰まるかと思うほど、感動しました。

 シダックスの方たちにもよくして戴いてありがとうございました。

 ひまちゃんは、午後9時45分のバスに無事乗って、お家に帰りました。皆様のおかげで楽しい時間を過ごすことができました。ありがとうございました。

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菓子博・電動車いすについて。これも差別のパターン。

 今日は、いよいよひまちゃんのお誕生日です。一日ひまちゃんと過ごす予定です。昨日、私のクリニックの車いすの空気を一杯にしようとして、空気注ぎが壊れているのを発見。買いに行くこともできなかったので、今日の朝から動きます。

 一日のことはまたご報告します。が、・・・その前に、どうしても腹の虫が収まらないので、今言っておきます。

 菓子博の「電動車いす入場制限」についてです。

 初日、ひまちゃんのこともあって下見のつもりで会場入り口に行ってみたら、入口の看板に「入場についての注意書き」が書いてありました。例の「危険物は持ち込むことができません」などと一緒に「電動車いすは入場できません」と書いてあって、もう、びっくりしました。これは何とかしなければ、と思っていたら、やはり即動きがあってというか、障がい者や県の障がい担当の方からの抗議があって、「平日だけ」認めるとなって、それが休日でもO.K.となったと報道されています。

 しかし、それでも、混雑時には手動に乗り換えていただく場合があると。それにつき、事前に予約をするように、などと。以下、新しく出された実行委員会の声明文です。


『ひろしま菓子博2013の会場内における障がい者用電動車いすの利用について
この度は、ひろしま菓子博 2013 の会場における電動車いすのご利用に関して、お騒
がせしましたことをお詫び申し上げます。
当実行委員会は、電動車いすの利用者をはじめ、多くの皆様にご来場いただきたいと
考えています。このため、一般社団法人広島県身体障害者団体連合会及び公益社団法人広島市身体障害者福祉団体連合会との協議を踏まえ、全ての開催日にひろしま菓子博
2013 の会場へ電動車いすで入場することを可能としました。
ただし、会場が混雑した場合や車いすの機種によっては、危機管理上の観点から電動
車いすから手動の車いすに乗り換えていただく場合があります。
何卒、ご理解ご協力いただきますようよろしくお願いいたします。以下略』
 それに、昨日の知事の記者会見を見て、思いました。実行委員会も知事も、障がい者に対しての「お詫び」など一言もありません。「お騒がせしたことへの」お詫びなのですね。どうして「不快な思いをさせて申し訳ございませんでした」といえないのでしょう。

 それに、初めっから今までどうして「電動車いすが危険なのか」の説明が全くなされていないのです。手動は危険でなくって電動は危険。これが私にはわかりません。

 知事が言っていました。「一般の入場する人も車いすの人も両方の安全を考えなければ。安全が一番大切なことです。なにも障がい者来るなとか、そういうことではありませんよ。」

 ああ、この人も、差別が分かっていないと思いました。あたかも、障がい者の安全のためにというスタイルをとって巧妙になされるのが障がい者差別のパターンなのです。

 慣れない人に車いすを押してもらうことほど怖いことはないと言われます。小さな段差に突っかかったりということはしょっちゅうですし、舵を取るのもとても難しいことなのですね。車いす体験で自分が載ってみると分かります。私は、車いすダンスクラブの釜山公演のサポートで付き添って行ったことがあります。その時にも、どうして私はこんなに車いすを押すのが下手なのかと嘆きました。

 それよりも、自分で自分に慣れた車いすで動く方がはるかに安定して安全なのです。何よりも、障がい者自身が、電動車いすで街に出ることがどれだけ怖いことか、しっかり自覚した上で訓練を積んでいます。それに、人に迷惑をかけないようになんて、いやというほど痛感していることなのですね。

 街中の歩道は自動車が車庫に入るために斜めにしてある所が多く、波打っています。そこを斜めになりながら車いすは通らなければなりません。それを避けて車道を通るのは、もっと怖い。そのような中で、しっかり運転の訓練をしています。

 また、電動車いすはそれぞれの障害によって、自分で運転しやすいようにその人に合わせて作られています。

 私のクリニックには、右足が少しだけ動く方がいます。その右足でとても器用に電動車いすを操作します。バックも切り替えも、私やナースが手を出さないで自分でしてもらった方がはるかに上手です。また、彼女は、声も出ません。足元にワープロ式のパネルがあって、それを足で操作して文章にし、自分の意志を表明します。私たちはそれを読み、会話します。

 手動に移動させられたら、彼女はそのパネルも取り上げられることになるのですね。

 混雑時には、入場制限はみんなにされるべきもの。電動車いすの人にだけその負担を強いるのは、それが差別なのですよ。

 本日の毎日新聞に大きく記事がでていました。それによると、『05年に愛知県で開かれた国際博覧会「愛・地球博(愛知万博)」は電動車いす利用者向けの充電コンセントも用意するなどハード・ソフト両面でバリアフリーに力を入れた。開幕間際には1日に約28万人が来場し、計5時間20分も入場制限する混雑ぶりだったが、電動車いすの利用者の事故はなかったという。』

 また、『大阪市で26日開幕する「'13食博覧会・大阪」は、11日間の会期中に約55万人の人出を見込むが、車いす(電動含む)利用者への入場制限はない。担当者は「万が一、過剰な混雑が生じた場合は、車いす利用者だけでなくすべての方に入場制限を実施する」と話す。』

 もうひとつ。車いす利用者駐車場 が用意してあるそうです。が、これも見てびっくり。出入り口の真反対。広島城の横ですよ。何キロ離れているのでしょう。1000円で、それも予約制だそう。これなら、もっと近くの駐車場に止めた方がうんと便利です。

 ひまちゃん、電動車いすでアート祭り堪能したそうだけど。私にもう少しゆとりがあったら、電動車いすごと迎えに行って連れて来るのに、と残念です。電動車いすはバスに乗らないのですよね。

 私、この期に及んでも「危機管理のため」だの抜かしている実行委員会の事務局長って何ものなのだろうと思ったら、県教育委員会の人だったのですね。さもありなん!!

 今日は、ひまちゃんと一緒に楽しんできます!!

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ひまちゃんのお誕生日・平和を語る会。

 いよいよ明日のひまちゃんのお誕生日、嬉しいことにまたメンバーがお一人増えました。あの、有布戀さんです。うれしい!大歓迎です。計15人です。

 日程が決まりました。

11時40分 ひまちゃん、バスで出発―午後1時10分広島バスセンター着・のりたまさん、はなまるさんと河野でお迎え―車いすで菓子博会場へ。会場前正面でshiozyさんと秀子さんと合流。秀子さんも車いす。

午後6時パーティー会場へ。本通りシダックス(パルコの近くです)パーティールーム。午後9時まで。ひまちゃん、バスセンターへお送り。

午後9時40分 ひまちゃんバスに乗ります。ひまちゃんはバスの到着地からは、介護タクシーでお家へ帰ります。

 以上です。皆様、ご協力よろしくお願いします。楽しく過ごしましょう!!

001 ところで、こちらも近づいてまいりました。今度の日曜日の講演会です。

 会場は、地下一階会議室(2)は(1)に変更しました。皆様よろしくお願いします。

 私は、先日の原発被曝労働の樋口さんの講演会の前にチラシを配りに行き、一昨日はお昼時間に、記者クラブに配りにも行きました。コツコツ広めることが大切!!

 久保田さんは、3か月にわたって、南半球を一周して、3月末、無事帰広されました。船の中のことも含めて、「私の生い立ち」のお話しをして戴きます。

 秋葉さんは、このひと月近く、アメリカ、ヨーロッパの都市を回って講演され、途中オットー・ハーン平和メダルの受賞をされました。そして本日広島に帰られます。なんと、4月27日には東京で講演があるそうで、また東京へ。それを終えて広島に帰って、この講演をしてくださいます。ありがたいことです。

 一人でも多くの方に聴いて頂けますように。お待ちしますね。

 私は、この度の風邪は、肺がブツブツ、ヒューヒュー言って、呼吸が難しくなって、どうもこれまでに経験したことがないような具合の悪さでした。昨夜ふと、これは、薬のせいではないかと思いいたり、思い切って、薬を変えてみました。そしたら、うんとよくなって、昨夜は、ほとんど目が覚めることなく眠れました。

 ああ、よかった。ひまちゃんのお祝いの会ではカラオケで歌おうと思っていたのです。これは間に合わないかもしれませんが、でも、咳でみなさんに迷惑をかけることはなさそうです。さあ、もう一息、頑張って治しましょう。

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ひまちゃんのお誕生日・「じゃまいか」のサムギョプサル。

 ひまちゃんのお誕生日が近づいてまいりました。25日午後6時から3時間。シダックスの本通りクラブで。

 参加の方、その後増えました。ゆかりんさんがご都合が悪くなって残念。でも、nancyさん、緩和ケア薬剤師さん、それに、なんととびっきりのゲストですよ、ナナちゃんが加わって下さいます。ナナちゃん大好きのナナパパ、ナナママにはお会いしても、ナナちゃんに会えている人はまだそれほどいないでしょう。皆様、どうぞお楽しみに!!結局参加は次の方たちになります。

ひまちゃん、shiozyさん、のりたまさん、はなまるさん、銀蔵さん、音♪さん、たまーさん、ナナママさん、キノピーさん、さとうしゅういちさん、nancyさん、緩和ケア薬剤師さん、ナナちゃん、それにこうのみよこの計14人です。

 それから、お部屋ですが、前回お話ししたのと異なります。人数が増えたので、また元に戻って、パーティールームになります。「河野」で予約していますので、カウンターで訪ねて下さいませ。

 それでは皆様お楽しみに!!元気でお会いしましょう。私は、本調子になるのはもう少し。頑張って治さなければ・・・。

 昨日の韓国語の教室は、課外授業。私がお願いして、連れて行って戴きました。先生からとってもよかったと聞いていた、流川の「じゃまいか」。ここにぐるナビがあります。

Dscn4384_1280x960 サムギョプサルの専門店。食べ放題のコースは三種。その中の2480円のをお願いしました。飲み放題はつけず、飲み物は単品にしました。先生は生ビール、私はウーロン茶で。

 ジンジャーやハーブなど4種のサムギョプサルはカリカリに焼きます。宮崎産の立派なお肉です。キムチも焼いて。チーズは溶かして、フォンデュのようにして食べます。

 私は、食欲が戻らず心配でしたが、やっと、この時から食べることができました。良かったです。すでに1.5キロやせましたが、少し取り戻したかもしれません。

Dscn4386_1280x960 Dscn4387_1280x960鍋の端っこからは、余分な油が出てきます。こんなお鍋ほしいと言ったら、通販で頼んであげますと先生が。

 焼いたお肉やごはんやキムチや白ネギなどを沢山のお野菜で包んで戴きます。味噌やたれも自由につけて。

Dscn4388_1280x960 Dscn4389_1280x960 ほかにもナムルや焼き野菜、大根のサラダ、チヂミなど、たくさん頼みましたよ。もう、食べきれないくらい。

 チヂミの横のは、ふわふわ卵のスープです。


Dscn4390_1280x960 Dscn4391_1280x960 私がお願いした白ごはんは多すぎて、半分も食べられません。それを先生がキムチチャーハンにして下さいました。

 お肉、ソーセージ、ねぎ、キムチ、ごはん、ゴマ油、コチジャンもあるし、完璧なおいしいチャーハンになりました。写真がきれいでなくってすみません。でも、この焦げそうにカリカリのをこそぎ落して食べるのが香ばしくって。

 栄養のあるものをしっかり食べたので、風邪は吹っ飛んだかな?と思いましたが、自転車で帰るのが寒くって。ぶり返したみたいに、夜通し咳込んでしまいました。やれやれ・・・。

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「ヒロシマ」と「フクシマ」その⑨原発労働者・差別の構造

 昨日は、午前中家でおとなしくした後、午後二時からの写真家樋口健二さんの講演会に行きました。「原発被曝労働の実態」。

 樋口健二さんは、四日市ぜんそくや多久野島の毒ガス被害者、そして原発労働者の実態などの写真を撮り続けている方です。

 福島では、3.11の事故以来、毎日多くの労働者が危険な放射線を全身に浴び、命を削りながら収束作業を続けています。

 それだけでなく、原発施設では、日常の運転中でも、停止した定期点検中でも、被曝労働がなければ維持できません。

 日本に原発が導入されて以降、登録され、放射線管理手帳が発行された被曝労働者は50万人を超えたとのことです。

 そして、どのようにして労働者が集められて行くか。下請け、孫請け、ひ孫受け、寄場や労働者の町から人出しと呼ばれる親方や暴力団によって集められ、手帳の被曝線量は改ざんされ、結局白血病やさまざまな病で早くに亡くなってしまうという、そんな実態を自ら撮った写真をスライドにし、沢山お話しして下さいました。福島だけでなく、これまで沢山の事故が起こり、それが隠され続けた実態もわすれそうになります。

 結局原発労働者は「差別の構造」なのだと。

 そんな人たちの犠牲の上に原発の・この社会の繁栄は成り立っているのだと。

1995年、イギリスBBCで放映された番組です。日本では、原発企業の圧力で放映されなかったと。それぞれ8分あまりです。(1)だけでも見て戴けたらと思います。

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「こだま」の平野寿将さんの春のお料理

 風邪は、今、やっとピークを越えたかな?と思うくらいです。熱は下がったけれど、まだ胸はぜいぜい言っているし、時々咳込みます。それに、さっぱり食欲がなく、食べ物が入りません。昨日お昼にはちからの中華そばミニをたべようとしたのですが、半分しか入りませんでした。

 そんな時に、よりによって、産婦人科医の「47会」でした。同期の者が不定期に集まって、食べ、飲み、話し、翌日はゴルフという会です。私のみゴルフはしませんので、前日の会だけ参加です。

 そして、それがなんとあの「こだま」だったのですね。平野寿将さんのお料理が戴ける「こだま」です。私には三回目。とっても楽しみにしていたのですが、何しろ体調不良につき・・・。どうにも食べられなくって、あまりにもったいなくって。持ち帰ることができるものだけ持って帰らせてもらいました。

Dscn4361_1280x960 Dscn4362_1280x960 前に行ったときとまた季節が変わって、今回は春のお料理です。

 まず、竹原の朝掘りたけのこと生のきくらげ、湯葉の煮物。例によって、素材のおいしさがそのまま戴けます。

 美しいハマグリの器では、大きなハマグリをわさびで戴きました。
Dscn4363_1280x960 Dscn4364_1280x960 春のワタリガニ。甘酢は上からかけて戴きました。後でお野菜の煮物もカニの甘酢もすべて飲みます。

 大好きなウニのプリン。甘目でたっぷりウニが入っています。それには、今回はソラマメも入っていました。

Dscn4365_1280x960 Dscn4366_1280x960 私が食べられたのは、ここまで。悲しい!!あいなめの焼き物にはタラの芽が。

 それに吸い物にはタイの切り身をこんがり焼いたのと、ジュンサイがたっぷり。このおつゆは飲みました。

Dscn4367_1280x960 Dscn4368_1280x960お刺身は無理でも、炊き合わせは持ち帰りです。

 何と、煮物の飯蛸のおいしそうなこと。ソラマメ、タケノコと組み合わせもサイコーです。



Dscn4369_1280x960 Dscn4370_1280x960 お魚の付け合せは緑、白、紫の三種のアスパラ。この内の緑とホワイトは生です。

 お楽しみ、ごはんは今日はワタリガニの卵かけご飯なのです。ワタリガニの出汁と身がたっぷり。

Dscn4371_1280x960 Dscn4373_1280x960 私の卵は双子。これを溶いて卵かけごはんに。お代りができず、残念。残った卵は同期の者に加わって一人参加して下さった先輩にお分けしました。

 児玉さん、平野さん、ありがとうございました。こんどまた体調を整えて行かせて下さいませ。

 今日は、向原のアート祭りに行こうと思っていたのですが、家でおとなしくしています。午後は原発労働者の実態の講演会に行くつもりでいます。

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「ヒロシマ」と「フクシマ」その⑧専門家の役割

 これまで、福島で散々ひどいことを言って県民をだましている専門家のことを語ってきました。もちろん、私だけでなく、多くの方が憤っています。県民、特に子どもたちの健康、命に関わるものなのです。山下俊一とか中川恵一とか、大橋弘忠氏とか。なぜこの人たち、科学者である人たちがこんな発言をするのか、私にはわからないことでした。

 この方も、東大の教授なのですが、例の国会の厚生労働委員会で「国会は一体何をやっているのですか」と怒った児玉龍彦先生が語っているのがありました。これを見て、本当にそうだとすっきりしました。専門家とは何ぞや。専門家の責任・役割とは何なのか。見てみて下さい。

 一方、こんな動画がありました。

 私の先輩の大学の教授で、製薬会社からお金をもらったというか、旅行費用を出してもらったと逮捕され、そして自死された方がありました。とっても好きな先輩でしたので、私までつらいと思いました。どうしてこんなことになったのか、と。

 原子力安全・保安院の専門家の委員会の先生方は、本業とは別に、委員として公務員に匹敵するかなりの報酬をもらっているはず。その上でなおかつ、原発関連の会社からお金をもらっている!!自死された先生とどういう違いがあるのでしょうか。

 もう、本当にこの日本の社会は狂っている!!その犠牲になるのは子どもたちだ!!と言わざるを得ません。

Dscn4358_1280x960 風邪ひいて、熱が出て。だから関節が痛い、食欲がない。体がだるい。ああしんど。手抜きみたいに動画のアップだけでごめんなさい。熱冷まシートが気持ちいいけど・・・。

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岡山山陽高校での講演・忌野清志郎第2段。

 昨日は、岡山山陽高校で講演をしました。一年ぶりに行く高校は、やっぱり活気があって、元気よく挨拶する生徒たちは活き活きとしていました。

Dscn4346_1280x960_2 地産地消の弁当コンクールで最優秀賞となったお弁当は近々売り出されると聞きました。機械の製図検定で一位になった生徒、高校スイーツ選手権では準優勝、ゼロハンカー大会で優勝などの幕がかかっていて、変わらず頑張っている様子がうかがえます。

 世界一車高の低い車を作ったのは、自動車専攻の生徒たち。昨年ギネスの認定を受けたことは知っていましたが、それが載った立派なギネスブックを見せて戴きました。



Dscn4348_1280x960 Dscn4350_1280x960 校長先生には、面白いお話しをいろいろと伺いました。世の中不景気であると、高校も資格や技術が身につく勉強ができる所に多くの生徒が集まると。今年の機械科は受験生が1.5倍もあったと。

 毎年行われる中学生へのオープンスクール。昨年は、機械科の生徒たちは1.5メートルもある大きな鉄板を作り(縁を曲げる技術がなかかな難しいと聞いています)、それで大きなダチョウの卵三個を目玉焼きにして中学生に食べてもらったのだそうです。ダチョウの卵は味が濃厚でおいしいのだそうです。

 製菓専攻の生徒たちは、スイーツを作って食べてもらったと。中学生たちはさぞ喜んだことでしょうね。

 毎年この高校で話ができることは、私自身にも大きな励みになっています。また来年、無事来れますように!健康管理をちゃんとしなければと自分にいいきかせながら帰りました。

 昨日の「ひまちゃんのお誕生日のお祝いの会」の参加者にnancyさんも加わって下さることになりました。バンザイ!!nancyさんは、デザイナーだけれど、歌手でもあります。素敵な歌を聞かせてもらいましょう!!皆様、お楽しみに!

 昨日の忌野清志郎氏の動画「ラヴ・ミー・テンダー」。すでに亡くなっていた父親の誕生日にチェルノブイリの原発事故が起こり、反原発の詩を書いたそう。そして、亡くなった母親の遺品を整理していたときに、第二次世界大戦中の恨みつらみが書かれた日記を発見し、それを読み、強い衝撃を受け、反戦・反体制の歌詞を書くようになったと。これはウィキペディアからの受け売りです。

その「ラヴ・ミー・テンダー」に続いて、もっと直接原発について語っている歌「サマータイム・ブルース」をどうぞ。



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ひまちゃんのお誕生日・忌野清志郎

 先日お知らせした4月25日の「ひまちゃんの誕生日祝い」。参加のお知らせありがとうございました。以下の方々の参加の確認です。場所は同じシダックス本通りクラブですが、参加人数の関係でパーティールームでなくなります。部屋は当日カウンターで尋ねて下さい。(河野で予約しています)まだ参加は受付けますので、面白そう、ひまちゃんや参加のメンバーと会いたい、という方はどうぞ、コメントにご連絡をお願いします。

ひまちゃん、shiozyさん、のりたまさん、はなまるさん、銀蔵さん、音♪さん、たまーさん、ナナママさん、女社長のゆかりんさん、キノピーさん、さとうしゅういちさん、それにこうのみよこの計12人です。面白そう!!ですね。楽しみです。

 このごろ、3.11の東北大震災やそれに続く福島原発の事故や、国会、憲法が危ないという状況になって、この人が生きていて下さったら!と思うことがしばしばです。特に、筑紫哲也さん。この方が生きていたら、どんどんと発言して下さっただろうになあと思います。

 それから、忌野清志郎。彼が生きてたら、いっぱいいろんな歌を歌ってくれただろうなあと思います。彼は、原発などの歌を歌ったら、放送禁止になったり、CDの発売がストップしたり、いろいろとあっても、ライブには沢山のファンが駆けつけて、放送禁止何てものともしないところがありました。

 nancyさん に教えてもらったこの曲。彼が亡くなったのが、2009年5月。その二年後から始まる今を予言しているような歌です。これは、20年も前から歌っていたと。この中の「長生きしてえな」は、ちょっと胸が詰まります。nancyさん、ありがとう。  芸能界やミュージシャンで原発のことを言う人は山本太郎だけなのですね。そしたら、彼のように干されてしまう・・・。


 

 今日は私は岡山山陽高校に行きます。毎年、新一年生にお話ししています。生徒が活き活きした大好きな高校です。一人で車で行きます。久々の遠出。そろそろとゆっくり行こうと思います。

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「ヒロシマ」と「フクシマ」その⑦被爆者の後障害その2

 昨日の続きです。これは、平成23年度の広島県の冊子ですが、元の論文について見落としていました。<注>本章は放射線被曝者医療国債協力推進協議会の協力を得て「原爆放射線の人体影響1992」の総論部分を掲載したものである。と書かれています。うーん、1992年かと躊躇するところもありますが、でもいろいろと探していて、一番よくまとめられていると思いますので、後障害の部分のみ引用続けます。

「2)白内障

 白内障は放射線の直接的障害であり、放射線の種類と量に大きく影響される。被曝にみられるレンズ混濁は線量と完全に相関している。また、広島の原爆は長崎原爆に比し中性子線量を多量に含んでいるため、同じ線量でも広島被爆者のほうが混濁を示す比率が多い。原爆に起因する白内障は眼の後極中央部に位置するのがその特徴である。最近の被爆者診察においては被爆者が老齢期に入ってきており、老人性白内障(周辺部位からの混濁を特徴とする)も加わって中央部ならびに周辺部からの混濁状態を示し、多彩な様相を呈している。

3)染色体異常と体細胞突然変異

 原爆被爆者の染色体については末梢血のTリンパ球ならびにBリンパ球、骨髄細胞および皮膚線維芽細胞について報告されており、いずれも被曝線量と正の相関をもつことが示されている。2Gy以上の被爆者ではリンパ球や骨髄細胞の30%以上に染色体異常がみられており、なかにはまったく同一の異常性(クローン)を示す細胞もみられる。さらに重要なことは、骨髄の中にある造血の起源を伴っている幹細胞にも、染色体異常が証明されていることであり、このことは被曝後40年後でも継続して染色体異常がみられていることや、白血病が多発していることの一因とも考えられている。体細胞突然変異はリンパ球や赤血球を用いて各血球表面に産生されている蛋白質の違いにより、内在する突然変異を推定するもので、いずれも被曝線量と正の相関が認められている。

4)胎内被爆児の知能遅滞(小頭症)

 胎内被爆児にみられる知能遅延は胎児の週齢と受けた放射線量によって、その頻度は異なる。8~15週齢の胎児は最も障害を受けやすく、また、放射線量に比例して重度精神遅滞が現れている。他の障害と異なり、0.2Gyあたりに閾値が示唆されている。

5)機能異常

 最近になって特定の器官における機能異常状態が把握されるようになり、その異常性が被曝線量に関連のあることが指摘されてきた。

 副甲状腺機能亢進状態は持続的な高カルシウム血症と副甲状腺ホルモン値(血清上昇)から推測可能である。図8に示すように(ここでは略します)0.5Gy以上では有意な有病率上昇がみれている。また、この傾向は若年被爆者ほど高いことが明らかとなっている。一部の症例の機能亢進症例は腺腫または過形成によることが手術により証明されている。甲状腺機能低下も被曝線量との関連が指摘されている。

2.増加示唆群

 悪性腫瘍のなかで増加示唆があるものの、まだ決定されていないものとして食道癌、唾液腺腫瘍、泌尿器癌、卵巣癌、悪性リンパ腫などがある。1987年頃より皮膚癌についての研究がなされ、被爆者に皮膚癌が増加しているとの報告があるが、まだ被曝線量との関係は明らかにされていない。(注:最近、被曝線量と明らかに相関するとの報告が出た)。組織型では、一般集団と異なり基底細胞癌の占める比率の高いことが指摘されている。特定の体液免疫能および細胞媒介免疫能検査においても示唆的変化があるが、年齢をはじめ数多くの因子が関与しているため確定的とはなっていない。

 悪性腫瘍以外の死亡率(約半数は心臓血管疾患)をみた最近の報告では当時40歳以下で2Gy以上被曝した人では死亡率が高くなっているとのことである。」

 以上でこの冊子からの引用は終わります。要するに、被爆者は被曝後何十年たっても、その放射線の影響を受け続けているのであって、個人にとっては決して「過去のこと」ではないのです。ということを私は言いたくて、延々と引用しました。まだ、飛び飛びになりますが、このシリーズ続けます。

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「ヒロシマ」と「フクシマ」その⑥被爆者の後障害その1

 私が、しつっこくこのシリーズを書く目的は、「被爆者だけ医療費がただなのはおかしい」という声に、怒ったからというのが、本音ではあります。被爆者への医療補償は、決して国が率先して「くれた」物ではなく、どれだけの被爆者が命がけで闘かったかをキチンとみておきたいと思ったこと。そして今被爆者がおかれている状況が、どのようなものであるかということも。「被爆者だけでなく、国民の半分は癌になる」という声に応えておきたいと思ったのもあります。

 原爆医療法の制定と、いまだに行われているその改定にものちに述べますが、今日は、被爆者の後障害について、その悪性腫瘍などについての統計です。

この統計は、広島県健康福祉局 被爆者支援課 平成23年7月発行の「原爆被爆者援護事業概要」からです。

その第1章  原爆被害の実態 2.人体への影響の 後障害について。一部抜粋します。

『原爆放射線の人体への後障害のなかで最も重要なものの一つは悪性腫瘍の発生である。1950~1985年の35年間のRERF(放影研)の集計では、白血病、乳癌、肺癌、胃癌、結腸癌、多発性骨髄腫などにおいて明らかな放射線量との相関が認められている。白血病は1950年頃より、甲状腺癌は1955年頃、乳癌、肺癌は1965年頃より、胃癌・結腸癌・骨髄腫は1975年頃より優位な増加が認められている。被爆者集団の年齢増加とともに各種腫瘍における発生頻度の推移が明らかである。

1)悪性腫瘍

 白血病:1回に多量の原爆放射線を受けた被爆者のなかに白血病の多発がみられたが、原爆被爆者白血病には四つの特徴がみられている。a)原爆に起因したと考えられる白血病のピークは1950~1953年頃にみられたこと、b)被曝放射線線量の増加に比例して白血病の発生増加があり、線量と白血病発生率がほぼ直線的であること、c)同じ線量を受けた被曝群でも、被曝時年齢が若い人ほど、白血病発生率も高いこと、d)細胞形態別では、急性白血病と慢性骨髄性白血病の比は1.5:1で、日本全国平均では4.5:1であるのに比し、広島の被爆者では慢性骨髄性白血病の発症が非常に多いことなどである。

 甲状腺癌:甲状腺癌は被曝10年頃より増えはじめ、1970年頃まで発生増加がみられている。この多くは被曝時年齢が20歳以下の人で、しかも50rad以上の線量を受けた人に多い・・・。組織型のうえで、放射線誘発甲状腺癌に特有な像は見出されていない。

 乳癌:乳癌は被曝10年頃より増加しはじめ、20年後には有意の増加がみられている。乳腺組織に被曝した線量ともよく相関(線形)している。また、被曝時年齢が10歳未満であった女性にも放射線関連乳癌が過剰に発生しており、被曝時年齢が若い人ほど乳癌リスクが高い傾向にある。乳癌組織型上、被曝時年齢、放射線量などで放射線誘発癌を特徴づける傾向はみられていない。

 胃癌:胃癌は1975年頃より有意に増加してきており、発生率は高線量群に有意に高く、被曝時年齢が30歳以下の群に有意に高い。組織型別にみると、低線量群では高分化腺癌が多く、逆に高線量群では低分化癌が多い傾向にある。なお、最近の研究では血清フェリチン濃度が低い原爆被爆者では胃癌のリスクがとくに高いということが明らかにされた。

 肺癌:肺癌は1955年頃より増えはじめ、1965年以降有意に高く発生している。喫煙量が多いほど肺癌リスクも高くなるが、放射線はそれに相加的に作用していると考えられ、被曝線量が高くなるにつれて肺癌リスクも高くなっている。肺癌は、白血病・胃癌同様、被曝時年齢が低いほど、発癌リスクが高くなる傾向にあるが、当時の年少者(当時10歳以下)はまだ50歳代であり、最終的結論には至っていない。組織型では扁平上皮癌に比して腺癌が多い傾向が認められているが、まだ結論的ではない。

 骨髄腫:骨髄腫は1975年頃より増えはじめ、被曝集団の老齢化に伴い、1970年代後半には1Gy以上被爆者は0Gy被爆者に比して5.3の相対リスクを持つようになっている。骨髄腫の型では前骨髄腫ないし中間型骨髄腫とよばれるような、良性の蛋白異常症と悪性の蛋白異常症(骨髄腫)の中間に位置する所見をもつ症例が被曝集団で見い出されている。』

(まだ、白内障、染色体異常などが続きます。なお、掲載されている表や図は省きました。被爆と被曝の違いは、掲載されている通りに再現しています。面白くないことと承知していますが、もう少し続けます)

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良かった!!宝塚市長選。

 宝塚市長選で、現職の中川智子さんが再選されました。今、心から喜んでいます。

__ 11日に一日だけ応援に行ったのですが、その時の人々の反応がとってもよかったので、これは行けるのでは?と思ったのですが、でもやはり心配でした。昨日は落ち着かない一日を過ごしました。

 前回は全く無所属での立候補。それも民主の風が吹く中で、その民主の候補も破っての当選でした。今回は、自民党推薦の候補と維新公認の候補も。自民と維新、両方を相手にしなければならない、しんどい選挙戦でした。

Dscn4340_1280x960 まず行ってみてびっくりしたのが、このポスターです。医師会というのは、まず自民の候補を応援るすものと思っていたので、本当にびっくりしました。

 これは、これまでの四年間、中川市長が市民の「いのち」を大切にして市政を行って来た、それを評価されたことだと思いました。

 かなり疲弊していた宝塚市立病院の経営の立て直しを強力に行い、医師を30名も増やし、もう少しで黒字という所まで漕ぎつけました。今の時代、医師を増やすというのは、とっても困難なことなのです。

 借金だらけの市政も、138億円の赤字の削減をしました。

 それも、すべての小・中学校の給食は自校方式にし、すべての学校の図書館に司書を置きました。それをしても、なお市政の健全化ができています。

 公園で子どもを遊ばせていたお母さんが選挙カーに走り寄って来て、「もっと給食のことをしっかり言って下さい、ほかの候補はみなさん、給食は民営化をとか、センター方式にとか言っています」と訴えられました。

 中川市長の実績を市民がしっかり見ていることを実感しましたし、それに。

 維新がこの度初めて大阪以外の首長候補を伊丹と宝塚の二市で擁立しましたが惨敗でした。橋下氏も二回も応援にきましたし、平沼氏も来ました。それに自民からは石破氏も。

 結果は中川氏43347 維新の候補23561 自民推薦の候補9748票と圧勝でした。

 維新は、大阪では支持されているのでしょうが、少し思い上がっているのでは?と思います。だって、伊丹や宝塚に来て、大阪都構想に、伊丹や宝塚も入るべきだなんていうと、住民は反発するのは当然でしょう。何で大阪に吸収されなあかんねん、と。それに平沼氏なんて、宝塚の市長選に来て、「従軍慰安婦何てなかった。南京大虐殺もでっち上げ」なんて言ったのだと。全く、空気が読めないというか・・・。これで地方の市長候補の応援になると思っているのが、おかしい。今、維新だったら、何を言っても受け入れられるなんて思っているのではないかと思いますね。

 相乗りか自民、維新がほとんどの地方の首長選挙。全国でも画期的な中川氏の当選です。さあ、これで二期目に入ります。これまで蒔いた種を花開かす時と中川さんも言っていました。これからの市政を存分に力をふるってねと、応援したいと思います。

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「ヒロシマ」と「フクシマ」その⑤番外編・吉川清さんと私の個人的なこと

 ちょうど、昨日、「広島市原爆被害者の会」主催で、「反核運動の先人知ろう」という会が開かれました。この会が開かれることを書いた中国新聞4月8日の記事から少し引用します。

「広島市被害者の会は、被爆地広島などで反核運動の先頭に立ってきた先人について学ぶ会を年に数回開催する。核兵器も原発もない世界を目指し、ヒントを探るのが狙い。初回は「原爆1号」と呼ばれた吉川清さん(1986年に74歳で死去)を取り上げ、13日午後1時半から中区大手町3丁目の平和会館で開く。

 吉川さんは、広島では初の被爆者組織を結成するなど被爆者運動を担ってきた。原爆ドームの近くで土産物店を開き、観光客にケロイドを見せて原爆の悲惨さを訴えた。そのため、「原爆を売り物にしている」との批判も受けた。(後略)」

 昨日の会には35人くらいの方が集まってお話しをしたそうです。中でも、昨日まで引用した座談会で話していらっした池田精子さんが沢山お話しして下さったそうです。

 その座談会に参加された方も、もう藤川一人さん、高橋昭博さん、近藤幸四郎さんが亡くなっています。

 池田さんは、私たちの「平和の夕べ」でもお話しいただきましたが、大腸のがんの手術を受けながらも、若い人たちに体験を話し続けていらっしゃいます。そのお話しは壮絶です。

 女学校一年の時に被爆。全身のひどいやけどでとても助からないと言われていたのが、ご両親の懸命の看護があってか、奇跡的に生き延びることができました。顔のケロイドの手術は15回にも及んでいます。顔がひどいとき、近所の子どもたちにも敬遠され、絶望していたときに、こっそり父親が近所の人に彼女の話をしているのを聞いて、心改めて生きようとしたことなど。

 その池田さんが、胸を張って生きること、被爆者が、その体で平和を訴えなければ、という力を学んだ吉川清さんのお話しはぜひ私も聞きたかった!のですが。いかんせん、土曜日の午後の診療時間で、どうしようもありませんでした。

 私は、ここにきわめて個人的で、少しテーマと外れるので迷ったのですが、ちょっとだけ吉川清さんの思い出を書きますね。

 初めて吉川さんのことを知ったのは、小学生の時。平和公園で吉川清さんの話を聞きました。そのケロイドだらけの背中を見せてのお話しには、ただただびっくりしたという、強烈な印象でした。

 平和公園で「被爆者の店」として屋台で土産物を売る吉川さんに原爆を売り物にしているという社会の批判も聞いてはいました。でも、吉川さんは物を売るだけでなく、その被爆の体験を話すという、大命題がありました。

 時が経って、私が吉川さんと個人的に親しくさせていただいたのは、高校を卒業し、広島大学に入学したその年です。入学試験を終え、ホットしているときの新聞に「ヒロシマで映画をつくる、それに出演する女性を募集する」という、オーディションの知らせでした。ちょうど何もすることがない休みだし、演劇部だったし、で、そのオーディションに応募しました。

 面接で、これまでした劇をその場で演じてみるようにと言われ、私が高2の時の公演、県大会で優勝した「広い黄色い土地」の中国の少女の役を演じました。日本軍が中国に侵略し、そま足音にじっと隠れていた少女が「もういやだ―」と叫ぶところです。

 その審査員に監督と吉川さんもいらっしゃったのです。その場で、別室で待つように言われ、やがてやって来た一団に「さらにこのセリフを演じてみて」と言われ、本を渡されました。その一部のシーン、母親が倒れ、病院に運ばれるとき。必死に母親に呼びかけながら、一緒に伝い歩くシーンです。そこを監督が下から私の顔を見上げるようにしながらずっと着いて歩いていました・・・。

 その映画についてはいろいろとあったのですが、結局主人公の友人役で出演しました。この度、何気なくその映画についてネットで検索してみたら、キャストに私の旧姓の名前が出ていて、びっくりしました。加藤剛、望月優子などと共に、私の昔の名前が出てる、あはは、と夫に見せて笑いました。

 その映画「ヒロシマ一九六六」はここに あります。今、このあらすじを読むと、広島と安保闘争、ベトナム戦争を絡めた、よく分かる興味深いストーリーなのですが、当時の私はまだ幼なかったですね。監督の白井更生さんは、「24時間の情事」の助監督であり、第一回目の監督作品でした。今なら、いろいろと話ができると思うのですが、もう肺がんで亡くなっています。

 その映画作りにも吉川さんは、若い監督に付き添いながら、一生懸命でした。私も、ごはんをたべに連れて行ってもらったり、奥様がしている「原始林」というお店に連れて行ってもらったり。ケロイドの不自由な手で歌を作り、その場で歌って下さったり。吉川さんも監督と共に私の家に来て、父親と原爆の話をしたり・・・。

 その時に、「私は子どもができんのです」と悔しそうに話されたのが脳裏に残っています。

 若い人をかわいがる人でした。後に夫が吉川さんを取材したときに、夫がその時の私と結婚していると知って、とってもびっくりされたそうです。

 つい懐かしくて、どうでもいい若いころの私のことを書いてしまいました。

 まだ被爆者医療や被爆者の闘いと原発についてとか、書きたいことが沢山あります。ちっとも面白くないことかと思いますが、もう少しお付き合い下さいませ。

 

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「ヒロシマ」と「フクシマ」その④被爆者同士で支え合って

 二回にわたって引用した「核兵器のない明日を願って」の座談会、遡りますが、今日はその初めの部分を引用します。

坪井 広島県被団協は一九五六年(昭和三一年)五月二七年に結成されました。原爆投下からすでに十年余り経っていたわけですが、それ以前の被爆者の会結成の動きはどうだったのですか。

近藤 広島市では、原爆投下の年の一二月に町内会役員らによって広島市戦災復興会が結成され、被爆者の世話に当たりましたが、被爆者自身は被爆により大変な状況に置かれていました。加えて、GHQ(連合軍総司令部)のプレスコード(原爆報道規制)下ということもあって、とても表立った動きができる状況にはなかったですね。被爆者の動きが始まったのは、一九五一年(昭和二六年)にサンフランシスコ講和条約が締結されてからだと思います。

高橋 「原爆一号」と言われた故吉川清さんらが「原爆被害者の会」を結成したのが、一九五二年(昭和二七年)のことでした。この会は映画「原爆の子」の撮影に協力した被爆者たちがお互いを励まし合うために作ったもので、被爆者の会としては初期のものだったと思います。私もこの会に参加して、大いに励まされ勇気づけられましたが、会は間もなくして「八・六友の会」「原爆被害者の会本部」など三つの団体に割れてしまいましてね。原因は会員の増加に伴い意見対立が生じたためです。私は吉川さんのつくった「八・六友の会」に出入りしたんですが、文字通り親睦会でしてね。花見に行ったり、酒を飲んだりでした。政治的な運動と言えば、原爆ドームの保存のための署名集めをしたことぐらいでしょうか。援護要求を言い出したのはずっと後になってからです。

池田 私も「八・六友の会」に参加していました。阿部さんらと一緒に一ヵ月か二ヵ月に一回、吉川さんの所に集まって、愚痴を言い合ったりするんです。当時は周囲の誰にも悩みを聞いてもらえませんでしたから、会に参加するのが何よりの楽しみというか救いでしてね。夜遅くまで真っ暗な夜道を歩いて帰ったこともしばしばでした。

藤川 夜道の中を、海田、奥海田を経て畑賀まで帰るのは、女の足では大変だったでしょう。

池田 それが全然さみしくないんですよ。「友の会」に話を聞きに行くのが何より楽しみでしたからね。

坪井 今なら大変ですがね。当時被爆者は被爆者同士だけしか理解し合えない、そういう状況に置かれていたんですね。阿部さんの住む海田町(安芸郡)での組織作りはどうだったんですか。

阿部 海田町でも会結成は遅かったですね。後に県被団協の事務局長を務められた桧垣益人さんが町内各戸を回られ、被爆者たちに会結成の働きかけをされたのは県被団協結成二・三年前のことでした。当時、私たちは「死に損ない」などとののしられ、虐げられ、苦しみのどん底にありましたから、桧垣さんが訪ねて来て下さった時はとても嬉しかったです。桧垣さんは本当に一生懸命でして、各戸を回ったあと地域ごとに被爆者を集めて集会を開き、海田と東海田の二つの原爆被害者の会をつくられました。会はその後、一つになりましたが、会づくりに奔走された桧垣さんの苦労は大変なものだったろうと思います。

坪井 藤川さんの所はどうでしたか。

藤川 県北でも会結成は遅かったんですが、三良坂はその中で一番早かったんです。援助物資の配布がきっかけでした。県北の被爆者にも一九五二年ごろから古着、ノート、鉛筆などの援助物資が届き始めましてね。私の住む三良坂町では最初、その配布を婦人会に依頼していたんですが、婦人会では誰が被爆者か分からず、困り果てたようです。それで翌年、婦人会長が私の所へ相談にやって来て、被爆者の皆さんで配ってほしいと要請されたんです。それを受けて、夏に、多分八月六日だったと思いますが、約三十人の被爆者が集まり、十五円のかき氷を食べながら配布方法などについて話し合ったのを思い出します。その時に「友の会」をつくり、お互い話し合い励まし合っていこうというような話になりまして。その年の暮れに届いた義援金や援助物資を困っていね被爆者に私たち被爆者自身が配ったのですが、その活動が事実上の「友の会」誕生になりました。

坪井 県内各地とも会結成の取り組みが始まったのは講和条約締結後のようですね。その後、一九五四年(昭和二九年)三月にビキニ被災事件が起き、それをきっかけに原水爆禁止の声が高まり、第一回原水爆禁止世界大会が広島で開かれました。この頃から被爆者の動きも活発になってきましたね。

(ここから、4月10日の千田小学校での初めての原爆被害者大会のお話に続きます。前後してしまいました。)

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宝塚市長選。

 昨日は、とっても寒かったですねえ。真冬みたいでした。たった一日だけ応援に行ける宝塚市長選。その日がそんな寒い日に当たったのも、運の着き。そう思いますが、それにしてもまあ、寒かったこと。春の選挙のはずが冬の選挙でした。車から振る手は、冷たい雨でビショビショ。顔にも冷たい風が吹き付けて。

 邪魔をして悪かったかな?と思いながら、とっても久しぶりにアナウンスをしました。思い返せば、初めて選挙のアナウンスをしたのが、20才の時の市議選。部活の演劇研究会に来たアルバイトの求人に応じたものです。後に市議会の大物になった自民党の人。今はその息子さんが市議になっています。おそらく、今回が最後のアナウンスになるでしょう。

 宝塚市長選は、混沌としています。現職と、維新の会と、自民党推薦の候補。それに汚職で逮捕、有罪が確定した元の市長まで、それにポスターに「宝塚威新の会」という字が書いてある無所属の女性などが出馬して賑やかです。

 自民党推薦の候補は、元市の職員。初めての女性部長に現職が抜擢した人なのですね。勢いのある自民党てす。でも、円安、株高、景気高揚と言っても、まだ地方に住む人たちにとって、その景気が良くなったという実感が持てないままで、それが地方の首長の選挙にまで影響を及ぼしているとは思えませんでした。

 維新の会は、橋下氏が応援に来ていますし、幹事長がこの時期に「大阪都構想は、宝塚市などの兵庫の市も含む」と表明しました。宝塚の市民は、伝統のある「宝塚」が「大阪都」に吸収されるのはごめんと、反発しているようでした。行政単位は、大きくなればいいというものではない、そこの住民にとっては、「顔が見える行政」がきめ細かく対応できるという実感があります。

 それでも、自民党も維新の会も両方とも勢いがある党です。組織を持たない現職にとっては、キビしい選挙選だと思いました。

 しかしまあ、とにかく寒い選挙戦、私はたった半日だけですが、くたびれ果てて帰ってきました。ずっと続けなければならない各陣営とも大変でしょう。もう一息、体に気をつけて頑張って下さいね!!

914x1280  ところで、行き帰りの新幹線の中で読んだ本はこれです。

 家族のある人、ない人、障害のある人も、さまざまな女性たちが、福島原発事故を語っています。ウソをふりまいて来た科学者や医師たちの「言語録」も。とても重い本で、まだ途中です。読み終えて、またご紹介しますね。

 それから、最新の「図書新聞」も。水戸巌さんのお連れ合いの水戸喜世子さんへのインタビューが長文の記事となっていました。水戸喜世子さんについては、ここから 書いています。その力強い生き様。同士としてともに生きてきた夫と二人の息子さんを失うという事態。その前後の闘いも本当に重く、感動的な記事でした。

 そのインタビュー記事の全文はここに 掲載されています。学生時代に「広島の救援連絡センター」の一人として走り回った、あの時代のことと重なって、新幹線の中で涙がこぼれました。羽田闘争・三里塚などなどご夫妻の救援活動、反原発、人権活動・・・。この偉大な先人のことをもっと知りたい、今、そう強く願っています。

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「ヒロシマ」と「フクシマ」その③被爆者の国会請願

 昨日の続きです。昨日の後に、被団協の分裂、被爆者の運動をする人たちへのアカ攻撃がすごかったこと、任都栗被団協・自民系の人が出て、別の組織をつくったこと、原水禁運動へのかかわりなどが語られた、その後を引用します。

坪井 となると、被爆者にとっては被爆者の大会の方が大事だし、印象も深かったんでしょうね。

阿部 そうです。被爆者大会に集まって来た人たちは表情も心も本当に温かくて、近所の人たちとは全然違いますからとても勇気づけられました。大会に行くと、救われた気分になったものです。

藤川 そうそう、大会に参加すると気分が全然違って来るんです。

坪井 被爆者大会での感激は、会ができた以上に強かったようですね。(そうですね、など3行略)

藤川 だから被爆者援護を求める請願行動は熱心にやりましたよ。請願のための上京費用は全部自持ちでね。それで、ほとんどの者が宿泊代節約のために夜行列車を利用して上京したもんですよ。汽車の中で寝て、東京駅で顔を洗って、食事はむすびですませて、そして、そのまま手分けして議員会館に行ったり走り回り、頑張ったもんですよ。

池田 そうでしたね。広島を午後二時発の急行「安芸」というのがあって、翌朝八時に東京に着くんです。駅で顔を洗って、国会に行きましたよね。

坪井 当時は蒸気機関車で顔が真っ黒になったでしょうから、顔を洗わないと国会に行けなかったでしょうね。…(笑い)ところで、請願費用は全部自分持ちということでしが、当時はまだ会費は集めていなかったんですか。

池田 会費はまだなかったです。

藤川 双三郡では年会費が一円だけ。これじゃーどうしようもないから、上京費用は全部自分持ちだったですよ。

池田 私たちは街頭募金にも立ち、カンパのお願いにも回りました。選挙の応援をした町長に助成を頼みに行ったこともあります。この時は苦い思いをしましてね。私は町からちゃんとした助成金を出してもらいたかったのに、町長は「じゃー、わしのポケットから出そう」と財布からいくらか出したんです。その時は情けなくて、頼みに来なければよかったと思いましたよ。助成金を出してもらうことに意味があったのに。

(この後、拠点づくりのためのお金をどうするか、代表の森瀧先生への攻撃、1964年の被団協の分裂などの話しが続きますが、略します)

坪井 その当時も国会には毎年行っていたんですか。

藤川 そうです。それも春に行き、夏に行き、秋に行きですよ。

坪井 
請願は主として被爆者援護法の問題だったんですか。

藤川 
そうです。

近藤 
もちろん援護法ですよ。

坪井 
核兵器廃絶の問題はまだそれほどでもなかったんですか。

藤川
 核兵器廃絶も最初から当然ありましたよ。

坪井 
当時から二本柱だったわけですね。

藤川 当時の請願行動は今と大分違っていましたね。理解のある県会議員さんがいて、東部の県会議員さんなんですが、私たちの請願に同行してくれ、段取りも議員さんの方で、「きょうは厚生省に行きましょう」とやってくれました。厚生省に行くと職員に、「被爆者の話を真剣に聞きなさい」と迫るんです。だから、厚生省の職員も私たちの話を本気で聞いてくれましたよ。ありがたかったですよ。

坪井 厚生省も当時はまじめだったんですね。今の厚生省には被爆者の声に耳を傾けてくれるような熱心さはないですよ。「はいはい承っておきます」という感じで・・・。

藤川 当時は熱心に聞いてくれましたよ。被爆者手帳の一本化の時も、「特別と一般の二種類の手帳があることは被爆者の差別を招く。差別しないようにしてほしい」と要望したら、翌年には一本化されましたから。差別という言葉を受け止めてくれたと思うんです。

坪井 そういう時代もあったんですね。

池田 私たちの国会請願も必死でしたからね。当時だって、こちらが黙っていてやってくれたわけじゃありません。何度も何度も頼みに行かなければ、動きませんでした。国の方からしてあげようなんてことは一度もありませんでしたよ。

坪井 こっちの熱意も今と違っていたんですね。

近藤 いま池田さんや藤川さんの話されたのは県被団協の請願行動ですが、私は当時、職域でしてね。県労被爆連(県労会議被爆者団体連絡協議会)です。カネがなかったという状況は私らも全く同様で、夜行列車で行き、ホテルは一人分の宿泊費で四・五人もぐり込んだりして苦労しましたよ。請願では、厚生省、大蔵省、官邸などを回りましたが、役所は冷たかったですよ。広島県出身の国会議員のところへ行けばいいんですが、役所は本当に冷たかったです。

(まだ被団協ができる前のことも引用したいと思います。少し間があくかもしれませんが。私は、今日は今から宝塚に行きます。宝塚市長選の応援です。帰りは最終の新幹線になるでしょう。明日はブログ、書けないかもしれません・・・)
 

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「ヒロシマ」と「フクシマ」その②被爆者の闘い

 前回、広島の被爆者の健康手帳のお話しを少ししました。これを獲得するために、どんな被爆者の努力を要したか。それが如実に語られています。

Dscn4278_1280x960_2「核兵器のない明日を願って―広島県被団協の歩み―原爆被害者団体協議会」

 この中に、被爆者の運動の詳細が書かれています。家を焼かれ、家族を失い、食べ物もなく(栄養を取れず)、病の治療もままならず、職を失って金もなく、疲労困憊を極めた被爆者たち。どこを読んでも、涙が滲みます。

 この最後に、被爆者運動を頑張った方たちの座談会があります。ここから少し引用をさせて戴きます。

池田 初めての原爆被害者大会が千田小学校(広島市立)で開かれたのが、1956年(昭和31年)3月18日でした。その時はお互い肉親でもないのに肉親以上の者が集まったように親近感を覚えたのを昨日のことのように思い出します。それまでは原爆という言葉を使うことはタブーでしたし、結婚したら「ようあんな者をもらってから」と言われ、子どもがいても「離婚して帰らせ、帰らせ」とというようなひどい仕打ちを受けて、ただ我慢して我慢してうつむいて生活していましたから、大会に集まった被爆者たちはお互い手を取り合って泣き合いました。私も当時まだ若かったですから、年配の方から「あんた、本当によう我慢してきたね。よう生きたね」と励まされて、嬉しくて嬉しくてウォンウォン泣きじゃくりました。

 この大会で、国会請願しようということになって、3月20日に45人で白いタスキをかけて第一回の国会請願に行ったんです。私と阿部さんも着物を着て、下駄を履いて参加しました。東京では鳩山首相の音羽御殿を訪れ、夫人にも会ったんですが、私はいつものように陰の方で顔を隠すようにしていると、伊藤サカエさんだったか船越の婦人会長さんだったか、「あんたら一番前に行きんさい」と一番前に出さされたんです。「見世物にせんでもよかろうに」と思いながらも一番前に立つと、年配の人が私たちを紹介して「この原爆で焼かれた姿を見ちゃって下さい」と切々と訴えていました。その後、県出身の池田隼人さんの私邸も訪ね陳情しました。この請願行動を終えてから、「組織を作ろう。組織がなきゃ何もできん」という話になりまして。それで私も早速、当時住んでいた畑賀の役場で被爆者の名簿をもらい、四十何人かの被爆者がいたんですが、一軒一軒通知を出して集まってもらいました。すると、よく集まりまして、四十人近くが集まってくれて、被害者の会をつくることができました。

坪井 阿部さんも原爆被害者大会に参加されたのでは。

阿部 参加するのはしたんですが、まだ精神状態が不安定だったので無我夢中でした。阪神大震災の被災者には精神的ケアが必要などと言われていますが、私ら被爆者は十年以上の間全く放置され、繰り返すようですが、虐げられ虐げられ、我慢の連続でしたから、今のように強い人間じゃありませんでした。ですから会場の温かい雰囲気に接して、涙が止まらずどうしようもありませんでした。同じ境遇に置かれていた被爆者仲間に囲まれ、涙もろい人間になっていたんでしょうね。

坪井 何か悲壮な感じですね。あの当時、被爆者は本当に悲惨な状況ありましたから同じ被爆者に出会い、たまっていたものが一気に噴き出したんでしょうね。

池田 本当にそうでした。

坪井 そして、この大会が終わっていよいよ、みんなが集まらなければいけないということで、その年の五月二七日に県被団協の結成となるわけです。この結成には行政も加わったんですよね。

近藤 そうです。県被団協は行政が音頭を取り、全県ぐるみでできました。その後、愛媛県や長野県、福岡県などにも被団協ができ、八月一〇日の日本被団協の結成となったわけです。

池田 被団協の結成は本当にとても嬉しかったですね。被団協に集まるようになって、「生きていて本当によかった」という気持ちになりました。体がだるくてだるくてやり切れなくても、周囲の者からは横着病と言われ、医者に行くと栄養失調だと馬鹿にされて取り合ってもらえない日々でしたから、心を許せる仲間との語らいは本当に救いでした。

 (この項、まだ続きます。とぎれとぎれになるかもしれませんが、大切なことと思いますので。なぜこのようなことに私がこだわるのか、そのうちにそれらもまた述べます。)

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ひまゃんの誕生日パーティーをします。

 ひまちゃんのお誕生日が来ます。その日、4月25日にお誕生日のお祝いをします。平日なのですが、皆様の参加をお待ちします。(木曜日で私は休診日なのです!)

 

ひまちゃんのブログ はここにあります。ひまちゃんは、最愛のトラ吉さんとお父様を相次いで亡くしました。今、ヘルパーさんと近所にお住まいのお母さまなどのサポートを受けながら、一人で暮らしています。

 お誕生日当日は、県北からバスで広島バスセンターに来て戴きます。そこに私のクリニックの車いすを持ってお迎えに行き、「菓子博」に行きます。今、のりたまさんとはなまるさんと私で菓子博を回る予定です。もっと多くの方の参加があればうれしいです。

 菓子博の後、いよいよお誕生日のお祝いのパーティーです。

時:4月25日午後6時から。パーティールーム3時間の貸切。もちろん、遅刻、早く帰るのはO.K.です。

場所:シダックス広島本通りクラブ(本通りの中、パルコの近くです。河野の名前で予約をしています。)パーティールーム。☎082-246-0087

料金:一人4500円。プレミアムSHIDAXコース。飲み放題付き。アルコール、ソフトドリンク90種類の飲み放題です。
プレミアムSHIDAXコースプレミアムSHIDAXコース3200円、飲み放題1300円。計4500円。早割りで10%オフ。その分ひまちゃんの参加費とお祝いにします。

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東京で、セミナーと孫。

 昨日は、午前中の役員会の後、夕方まで「産婦人科医のための女性保健医療セミナー」。子宮頸がん予防ワクチン、低用量ピルなどについて4時間びっしりとお勉強です。全国から自腹で参加したみなさん、当然私もですが、本当に参加してよかったと言われていました。

 また、今年の夏に福島県会津若松出おこなわれる「性教育指導セミナー」。その前日に行われる県民公開講座の一部をこの会が受け持ちます。毎年のことなのですが、私たちが劇をし、それを受けて北村邦夫氏が、参加者、特に若い人に向けて講演をします。

Photo その配役と練習も。脚本を書いた先生、それを会津弁に直した先生の指導の下、とっても楽しく行われました。会津弁は、いま行われている大河ドラマが参考になります。三人の高校生模様が描かれ、それに震災と原発事故で大変な福島での開催、最後はとても感動的で、初めての練習なのに、涙が出そうでしたよ。

 そのあと、懇親会もそこそこに、私は息子夫婦と孫に会いに行きました。二週間前にも会ったばかりですが、また一段としっかりして。人見知りが激しくて、やっと仲良くなれたころにバイバイしなければならなくって。あんまり抱けなくってちょっと悲しいままでした。

 会ったのは、東京駅の近くのレストラン。

Rscn4325_1280x960 孫が着て来たのは、出生祝いに音♪さんが手作りして下さったワンピースの一つ。レースの背中に天使の羽がついていて、とってもかわいくって。今はジャンバースカートとして、夏になるとこれ一枚のワンピースにして着られます。

 大分離乳食も進んだみたいですが、いつ一緒に食べられるようになるのか、待ちこがれます。


Dscn4319_1280x960 Dscn4321_1280x960 そのレストランでは、丁度九州の食材フェアをしていました。アミューズはフォアグラとコンソメのジュレの角切りが入った小さなスープ。鯛のカルパッチョ。メインは、私はお肉。霧島豚です。でも、カルパッチョも豚も全部は食べられず、息子に食べてもらいました。

Dscn4326_1280x960 Dscn4330_1280x960 デザートになって、びっくり。その前に夫妻から、お誕生日おめでとうございます、と、プレゼントをもらいました。それもびっくりだったのですが。それを聞いていたお店のフロアの女性が「こんな風にしてみました」と、私には素敵なプレートにしてくださったのです。本当にびっくり、感激しました。

 こんなさりげない心遣いが人を幸せな気持ちにさせるのだとよくわかりました。

 最終の新幹線で広島に帰りました。もう、当分一家には会える予定はありません。今度会うときには、うんと大きくなっているでしょう。

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東京。素敵なホテルです。

 東京にいます。昨夜は大変でしたあ・・・。せっかく、早い新幹線に乗れて、夜10時半には東京駅に着く予定でしたが。そして、娘と一緒に駅のそばで韓国料理を食べるつもりでしたが。

 小田原と新横浜の間で新幹線がストップしました。大変強い雨で運行停止したと。見通しは不明ということでした。

 娘には、すぐに連絡を取りました。新宿駅まで来ていたのですが、家に帰るように伝えました。娘はとってもがっかりして、とってもお腹が空いていたので、駅で立ち食いソバを食べて帰ったそうです。今日は娘には用があって会えません。

 私は、閉じ込められた席で、よく本が読めました。娘が大好きでおみやげにと思って買っていた、むさしのおむすびを食べました。そして持って来たお茶がほとんどなくなったので、車内販売で一本買って、もうこれでO.K.。じたばたしても仕方がありません。朝までここでいても大丈夫と覚悟を決めて。

 でもその内新幹線は動き始めて、約一時間遅れで東京駅に着きました。土砂降りの雨。歩いて目的のホテルに着くまでに、ずぶ濡れでした。初めて泊まるホテルです。ひどい目にあったなあと、着くとすぐにフロントでは乾いたおしぼりを二つ出して下さって、そして、暖かいおしぼりも出して下さいました。ありがたい、このサービスは?

と思ったら、何もかも素敵なホテルでした。ビジネスホテルとしては、サイコーでしたよ。

Dscn4280_1280x960 Dscn4283_1280x960ふわふわのスリッパ、足指ぱっとも、青竹踏みも。豊富なアメニティグッズ、左端のは面白いドライヤーです。

Dscn4282_1280x960 Dscn4285_1280x960机にはポストカード。将来でも、自分の好きな日に届けて上げるというサービスも。あやめなどの折り方付きの折り紙も。

 部屋中写りそうな大きな鏡、ベットも大きくて、シングル部屋なのですが、ゆうゆう二人は寝れます。

Dscn4286_1280x960 Dscn4288_1280x960朝ごはん。そんじょそこらのバイキングとは違いました。
野菜でも、サラダと温野菜、これは田楽味噌で、それに野菜のシャブシャブ、たっぷりのねぎとセリをゴマダレで。卵焼きにはサクラエビが刻んで入っています。かすべ煮がおいしくって。かすべって何ですか?と問うとエイのひれですだそうです。コラーゲンだっぶりでした。山芋はすりおろしでなく、たたきにしてありました。これはご飯にかけて。席使用中のお知らせはお手玉です。
Dscn4287_1280x960 Dscn4289_1280x960 フロントもレストランも15階。朝ごはんはカウンターで東京駅を見ながら戴きました。フロントには、自由にお茶やお水が飲めるように素敵なカップやさまざまなお茶が用意してあります。

 初体験の大満足のホテルでした。東京駅の八重洲口からすぐの「龍名館」。JTBのパックで、新幹線往復と朝ごはん付きのホテルとセットで40900円。お勧めです。今日はこれから夕方まで会議です。広島には最終の新幹線で帰ります。

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「ヒロシマ」と「フクシマ」その①負けねど飯館!!

 3月31日、広島平和記念資料館で「ひろしま・ふくしまを結ぶワンコインシンポ私たちは、今、どこにいる?」が開かれました。

Rscn4231_1280x960_2 シンポジストの一人、佐藤健太さんが活動している「愛する飯館村を還せプロジェクト 負けねど飯館!!」のHPはここに あります。

 その活動の一つ、行政では、18才以下の児童・生徒と妊婦さんを対象に「生活健康手帳」を発行し、配布していましたが、このプロジェクトでは、配布対象にならなかった19才以上の村民すべてに無料発行しています。

 その目的として、(1)万一、将来健康被害が生じた場合に備えるために自分たちで生活行動を記録しておくことが大切であること、(2)記入が困難だったり過去のことを思い出せなくて仲間どうしが集まって話し合ったり、お互いにフォローし合う機会を増やすことが避難生活では大切であり、そのためにも健康手帳を役立ててもらうこと」としています。

 飯館村については、私もこの日から 何回かにわたって書いております。まだまだ全村避難が続く中で、本当に困難な生活を余儀なくされている人々。

 もう、言い切れないくらい沢山の思いがおありのこと思います。

 この手帳について。将来に備えて大切な物となるはずです。しかし、広島・長崎の「被爆者健康手帳」のような、健康診断や医療費の補助がセットされている物ではありません。将来、それらがちゃんと保障されるように、それが目指すもの一つともなります。

 それについて。特に子どもたちの甲状腺がんなど、心配なことは起こっていますが、それだけてなく、それに留まるものであるのか否か、それは慎重にフォローしていかなければならない物でもあります。

 すでに甲状腺がんの手術を受けた子どもたち、その医療費はどうなっているのか、その報道が全くないので、わかりません。誰が負担しているのでしょうか。原発のせいではない可能性が、と言っている彼らです。この後も子どもたちをはじめとして、健康被害が起こったときに、その医療費はどうなるのでしょう。それが心配なことでもあります。

 そんなことを考えていた時、一人の広島の被爆者の方からの発言がありました。被爆者手帳を使うのが後ろめたいことがあると。友人の中に、「被爆者はいいよねえ、医療費が無料なのだから」と言う人がいるのだそうです。「今、被爆者でなくとも、年を取ると、人の半分は癌になる時代。それなのに被爆者だけ医療費が無料になるなんて」と。

 それに対して、秋葉さんは、そうして国民を分断させるのが彼らの意図の一つと言われました。これまでご苦労されたのだから、堂々とつかっていいのです、と。

 私はそれらの発言を聞いていて、涙が出そうでした。先日話しした中川恵一氏もそうなのですが。そんないやしいことを言う人は、今生きている被爆者だけを見て言うのでしょう。これまで、よく知られている白血病で亡くなった佐々木禎子さん初めとして、どれだけの被爆者が若くして悔しい思いで亡くなって来たことか。

 それも、被爆者の特徴である重複癌、一人で二つも三つも癌になって。

 そして、大切なこと。被爆者手帳、医療費の補助は、国が率先してくれたものではないということです。そこまで来るのに、どれだけの被爆者が、苦労して苦労して命がけ運動をして、やっと手に入れた物だと言うことを知らないのでしょう。

 これまでの被爆者の歩み、これをちゃんと見なければと思うのです。そして、そんなことを言われた被爆者は、その先輩たちの闘いの重みを知って、きぜんとして跳ね返さなければと思います。

 これらについて、とぎれとぎれになると思いますが、ゆっくりと書いていきたいと思います。

 私は今日は診療後東京に行きます。関東地方は、春の嵐が吹き荒れるとしきりに報道されています。さて、無事ホテルにたどり着けるでしょうか。

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神原の枝垂桜。誕生日ありがとうございました。

 昨日は、午前中、どうしても「神原のしだれ桜」が見たくて、姉に付き合ってもらって行ってきました。

Photo  残念ながら曇りで、明るい青空に桜と言うわけにはいきませんでしたが、それでも堪能することができました。

Dscn4254_1280x960 Dscn4258_1024x768 そばには若い「そめいよしの」も満開でした。とってもきれい。

 そして、畑でお野菜を作っている方にお野菜をどっさり分けていただきました。無農薬で作っているのだそうです。


Dscn4261_1280x960_1024x768 ねぎ、分葱、水菜、レタス、ほうれん草など…。これからも、電話をすればお野菜を配達して下さると。いい方とお知り合いになれました。

 そうしてのんびりして・・・。うちに帰って一休みして・・・いざ病院へ。検査結果が出て、またお話ししますね。

 2日の誕生日は、たくさんの方におめでとうと言ってもらって、やっぱりうれしかったです。もうこの年ではうれしくないなんて思っていましたが・・・。でも、ここまで無事生きることができたということはやっぱりめでたいことなのだと思いました。

Dscn4248_1280x960 Dscn4238_1280x960 その日は、クリニックのお花見でしたが、残念ながら雨。クリニックでみんなでお弁当を食べました。

 スタッフから戴いたプレゼントです。お取り寄せしたみたい。ありがたいことです。



Dscn4242_1280x960 Dscn4240_1280x960 皺が取れる化粧品。








Dscn4245_1280x960 Dscn4244_1280x960_2
数々のお花。








Dscn4249_1280x960 Dscn4250_1280x960かわいいケーキも。他におまんじゅうも。

 本当にありがとうございます。

 私は、クリニックの仕事の後、一人カラオケで歌って帰りました。来年も無事誕生日が迎えられるよう、気をつけなくっては!!

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きょうも昨日の続きの動画です。

昨日の大橋教授の動画、まだいろいろとあります。経歴を調べてみると、彼は、東電の社員だったのですね。東電社員から東京大学の教授へ。うーん、こんなことになっているとは。大橋氏の経歴です。

1952年  岐阜県生まれ
1971年  岐阜高等学校 卒業
1975年  東京大学原子力工学科 卒業
1980年  同 博士課程 修了
1980年  東京電力株式会社
1986年  東京大学助教授
1998年  東京大学教授 現在に至る

そして、北陸電力の「原子力安全信頼会議」というまるでジョークみたいな会議の委員となって、毎回出席しています。

・会議名 原子力安全信頼会議
 ・設置日 平成23年10月1日
 ・委員(五十音順・敬称略)
   石田 寛人  金沢学院大学 名誉学長
   大橋 弘忠  東京大学大学院工学系研究科システム創成学専攻 教授
   大場 恭子  金沢工業大学科学技術応用倫理研究所 研究員
   山王 竹夫  志賀町 副町長
   高田 千恵子 石川県婦人団体協議会 会長
   中村 明子  弁護士
   菱沼 捷二  津田駒工業株式会社 代表取締役社長

さらに、これもエエーッなのですが。文部科学省の「原子力システム研究開発事業(安全基盤技術研究開発)」のプログラムオフィサーとして任命されて、本当に大活躍なのですね。以下は、文科省のホームページからです。

プログラムディレクター(PD)

茅 陽一

公益財団法人地球環境産業技術研究機構 理事長

東京大学 名誉教授

プログラムオフィサー(PO)

出光 一哉

九州大学大学院工学研究院エネルギー量子工学部門 教授

大橋 弘忠

東京大学大学院工学系研究科システム創成学専攻 教授

澤田 隆

日本原子力学会 理事・事務局長

山名 元

京都大学原子炉実験所原子力基礎工学研究部門 教授

山中 伸介

大阪大学大学院工学研究科環境・エネルギー工学専攻 教授

昨日の、佐賀での動画の続きがあります。


それから、電力会社が学者だけでなく、メディア、ライター、芸能界に至るまでの幅広く、大変なお金の力でこの社会を動かしている構図がみえますので、この動画も見て下さい。

 私は、元気なのだけれど、ちょっと体調をくずし気味ですので、今日の午後は初体験の検査を受けます。

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山下俊一氏、大橋弘忠氏の動画

 私が、しつっこいくらいにこのブログで言って来たのは、中川恵一氏だけでなく、多くの科学者、医師があまりにいい加減なことを言っていることが許せないからです。そのために、どれだけの子どもたち、その親たちがつらい目に合っていることか、それを痛感するからです。

 もう少し、この日本の偉い人たちが何を言って来たのか、すでに言及したことではありますし、多くの方がもう知っていることなのですが、あらためてここで動画を見て戴きたいと思います。

 山下俊一氏、長崎大学から福島大学に赴任し、でも、また長崎大学に戻るらしいですが。これは、最も許せない発言です。このような講演を福島のあちこちでして回ったから。多くの親子が、なあんだ外で遊んでもいいんだ、マスクもしなくっていいんだ、笑って暮らせば放射能は来ないんだなどと思い込んでしまったと、福島の女性たちが話して下さいました。そうなると、これはもう犯罪の域になると思います。ヨウ素も飲まさないで、外で大いに遊びなさいなんて言って、そうして今、子どもたちの甲状腺がんが起こるようになったとしたら・・・。

 しかも、この人は、決定的な間違いをしています。「100マイクロシーベルトまでは」と発言していますが、これは後で福島県のHPで「10マイクロシーベルトの間違いでした」と訂正されています。全く、専門家と言われる人たちがなんという間違いをするのでしょう。間違いでなく、実は、何にも知らない、知らないで講演しているとしか思えません。佐高信さんが、小出裕章さんとの対談で、「専門バカという言葉があるけれど、そうでなく、専門もバカ」と言っていますが、まさにそうなのでは、と思うのです。

もう一人、これも東京大学の偉い人ですが。平成17年12月25日に行った佐賀県での公開討論会での発言です。佐賀の玄海原発で、プルサーマルが導入されるに当たって佐賀県が行った公開討論会です。この討論会には、九州電力の社員が動員されたということが後になって報道されました。それで、大橋さんの言葉に拍手があったり、小出さんの発言に笑い声が起こったりというのは、納得できます。この討論会は、ここに「佐賀県の原子力の安全行政」としたサイトで、全部が公開されています。それにしても、大橋さんの顔つき、小出さんを馬鹿にしたような薄ら笑いの表情、斑目さんが、「結局はお金でしょ?」と言ったときのあの表情とおんなじなのですね。ぜひこの動画も見て下さいませ。

そう言えば、中川恵一氏は、「水に含まれるセシウムは煮沸すれば消える」と発言し、それは間違いでしたと訂正したと、彼の本の中に書いてありました。

それから、彼はテレビの番組で「プルトニウムの半減期は2万4000年」「僕が生まれた50年前には、今の1000倍のプルトニウムがあった」という発言をしています。あれえ?半減期が2万4000年、2万4000年経って、やっと半分になるのだったら、50年前と今も変わらないのでは?と思うのですが・・・。

 こうして、科学者と言われる人の発言を見て行くと、なんだか絶望しそうになるのです。

昨日、皆様から沢山のおめでとうのコメントやプレゼントを戴きました。本当にありがとうございます。誕生日については、また明日書きますね。それから、シンポジウムについても長くかかりますが、きちんと書くつもりでいます。

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東京大学中川恵一氏講演と動画

 一昨日、3月31日のシンポジウムに参加して、いろいろと考えることがありました。それらを少しずつ検証してお話ししたいと思います。

 本来なら、話が出た順番にすべきことなのかもしれませんが。私がずっと引きずっている中川恵一氏のことについて、秋葉さんが取り上げて下さいました。一生懸命ブログに書いても、あんまり反響もないし、自己満足に終わっているのかも、何て落ち込みそうだったので、とてもうれしかったのです。その内容については、

ここから二日にわたって 私のブログで述べているところのことです。でも、秋葉さんらしく、キチンと動画を流して、『「ヒロシマ」そして「被爆者」はこんな風に使われています   それは科学的事実ですか?本当のことですか?倫理に適っていますか?』という問いかけをされました。

 この中川恵一氏は「かってに飯館に来て、いろいろと住民に語ったりするので困っている」と佐藤さんは言われました。が、中川氏は県や村長の委託を受けて飯館に来ているのですね。

 私はこの中川氏の広島での講演を聴きました。そして、すべて録音しています。そこでは聴いていて、体が震えるような思いをしました。  その前に、この東京大学の放射線科の准教授がどんな人であるか、例えば、この動画を見て下さい。


 

 この人が、広島で講演をした時に言ったことを述べます。

『飯館村というのは、とっても素晴らしい村で、老人ホームも素敵なのがあって、でも、そこを出て行かなければならなくなって。避難先で住民は、酒は飲む、たばこは吸う、そしてパチンコをする、そうして寿命を縮めるんです。チェルノブイリで避難させられた人たちはみんなストレスで寿命を縮めました。でも、命令に背いて自分が住んでいたところに戻った人たちは、みんなどんどん寿命を伸ばして長生きしているんです。』

 そんなデータが本当にあるのか、では飯館の人たちはあの放射能の濃度が高い所へ戻った方が長生きできるというのでしょうか。年寄りはまだいいのです。問題は子どもなのです。年寄りだけ帰ってもらうということもできません。

それから、彼が言ったこと。

『チェルノブイリで害があったのは、子どもの甲状腺がんだけです。でも、甲状腺がんは死なない癌なのですね。チェルノブイリでは6000人のこどもが癌になりましたが(これも間違いです。すでにブログで言いましたが)死んだのは15人だけです。』

 私は、チェルノブイリで「赤いネックレス」と言われる首の手術痕を沢山の少年少女たちがつけているのをとっても痛々しいと思ってみましたし、中沢啓治さんが「チェルノブイリに行ったとき、甲状腺がんにかかった少女が医者に後半年しか生きられないと言って泣いてね、可哀そうでねえ」と話されたのを聞きました。「死んだのは15人だけ」と言ってのける中川氏は人間として、医師としても許されない人だと思いました。

『韓国では、若い女性が甲状腺がんになっています。これは、乳がんのがん検診を受ける女性が増えて、マンモグラフィをするついでに首も見ておきましょうと、首の撮影もちょっとする、その被曝のせいで甲状腺がんになる人が増えたのです。』

 私は韓国の女性の甲状腺がんが増えているその原因をいろいろと調べましたが、いまだにその原因はわからないというのが、現状です。道路を作る舗装の材料に放射線物質が混ざっているのではないか、とか、ウクライナから小麦粉を買うのが原因ではとかいろいろと言われていますが、マンモグラフィのついでに首もレントゲンで写すなんて、どこにもありませんでした。しかも、首を診る、甲状腺を見るのは、レントゲンではなく、超音波のはずです。この人、ほんとうに医者?と言いたくなりました。

 ところが、画像を探していて、こんなのがありました。ここでは、中川氏は超音波で乳房も甲状腺も診る、だから甲状腺がんが沢山見つかると言っています。しかも、見つけて手術をするのが無駄であるかのような言い方です。



 もう、この人の言うことは訳が分からない。およそ科学者としては不適格なのでは?韓国でも、乳がん検診はマンモグラフィ(レントゲンによる検査)が主流です。それも、国の方針として、日本と同じ2年に一回。一方ではマンモといい、一方では超音波と言う。そのデータもなにもなしにこんなことを言い続けました。

 それから、これもすでに書いたのですが、

『西日本に逃げた人はわざわざ放射能濃度が高い所に逃げているのですね』とウソを言ってのけたこと。

 一昨日のシンポジウムで、広島に避難しているお母さんの話を聴いても、その大変さが胸に詰まるのです。そんなことを数々言って騙す、一体何のために?そう疑わざるをえません。

 それに、広島の被爆者は長寿だと。これについての反論を今日のブログの最初にリンクしています。

Rscn3913_1280x960  私がなぜこのような一人の医者の言うことにムキになって反論するのか、なのですが。やはり飯館の中学生にあまりにいい加減な講演をした(しかも白衣を着て)その怒りが原点です。

 さらにその当の本人が、広島まで来て、このヒロシマ、原爆医療に取り組んでいる医師が沢山いるこの広島で、とんでもない講演をしたこと。さらにいいますが、これは言わないでいた方がいいのかもしれませんが、言います、この人を呼んだのが、◯電病院の医者だということ。これは、あまりにわかりやすい構図なのですね・・・。

 シンポジウムについては、まだ続きます。

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お花見。亀仙人。

 昨日は、お花見日和でした。

1280x850 平和公園の桜もちょうど満開。午後からは陽も射して気持ちの良いお花見になりました。

Dscn4225_1280x960  平和公園の川土手に毎年の恒例のメンバーが集まりました。

 昨年は、この会にはだしのゲンの中沢啓治さんが来られていました。乾杯ではなく、献杯をしました。毎年毎年、一人ずつメンバーが減って行きます。寂しいことですが、一年ぶりに合うみんなと話が弾みます。

 異業種の人たちのそれぞれの近況報告でがまた楽しくて。

 大学教授だったK先生は、老人ホームに入られました。そこの食事がおいしくないのだと。月々25万円を払って、とてもまずい食事で。今、年金は25万円よりも少ないので、自分の貯金を少しずつ出さないといけない。その蓄えがあるうちに死なないといけないなどと、寂しいことを言われます。

 食べ物がおいしくないなんて、一番つらいこと。私だったら耐えられません。いつもではなくとも、たまにはおいしい物を食べられないと。時々、差し入れを持って行ってあげなくては、と思いました。

 車いすダンスくらぶの中井さんは、今度カナダでの公演を実現したいと言われます。素晴らしい!!

 元アキハバラ塾の塾長河口さんは、今、コスカレードに力を入れています。タイに行って、大人気だった話をしてくれました。お花見に連れて来たコスカレード仲間の小さな子どもも一緒に行ったのだと。

Photo  河口さんは、亀仙人、小2の男の子はワンピースのルフィになったのだと。今、世界中で日本のアニメが人気なので、さぞ受けたことと思います。昨日も彼のface bookは800人ものタイからのアクセスがあったのだそうです。これからも、ぜひヨーロッパなどに進出してほしいですね。

河口さんの亀仙人、ブログから戴きました。あんまりそっくりなのでおかしくって。

 まだまだ話は弾みましたが、午後からはシンポジウムに参加したくって私は途中で抜けました。

 来年もまた一人も欠けることなく、お花見ができますように。

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