「はだしのゲン」中沢啓治さんが亡くなりました。
「はだしのゲン」の中沢啓治さんが亡くなりました。
以下は本日報道機関に配布された文章です。
『 中沢 啓治逝去のお知らせ
「はだしのゲン」の作者、中沢 啓治は12月19日午後2時10分、肺ガンのため入院先の広島市民病院で死去しました。享年73才でした。葬儀は「葬儀・告別式は行わず、家族だけで見送ってほしい」との故人の強い意志に沿い、すでに12月21日、家族葬にて執り行いました。訃報のお知らせが遅くなりましたことにつきまして、ここに謹んでお詫び申し上げます。
中沢は1939年3月14日、広島市に生まれ、原爆の閃光を直接浴びました。父と姉と弟の3人を直爆で失い、その後、妹と母も原爆に奪われました。戦争と原爆を憎み、その思いをぶつけるように1966年「黒い雨にうたれて」(1968年発表)、1972年「おれは見た」を執筆。1973年には代表作となった「はだしのゲン」の執筆を始めました。「はだしのゲン」は文字通り中沢の分身でした。
その「はだしのゲン」が18カ国語に翻訳(翻訳中含む)され、欧米、アジアなど多数の国で出版ないし出版準備が進められていることを中沢は心から喜び、「はだしのゲン」が生み出す国際世論が核兵器廃絶の力となることを願っていました。
網膜症と白内障のため筆が採れなくなり、2009年に引退宣言。2010年には肺ガンの告知を受けて手術。以後、入退院を繰り返し、一時は危篤状態に陥ったこともありましたが、その都度、不死鳥のように蘇ってくれ、原爆の証言活動を続けて来ました。命の重さ、生きることの大切さを身をもって示してくれたと感じています。「原爆に負けてたまるか、この目で原爆の最後を見届けてやる」の一念だったのだと思います。
無念にもこの度は病に勝てませんでした。死去の前日、新刊の「はだしのゲン わたしの遺書」(朝日学生新聞社刊・12月20日発行)が手元に届き、それを見届けるような旅立ちでした。ガン患者とは思えない穏やかな死でした。あの愛くるしい表情が今にも蘇って来そうな気がします。
いま中沢は星となり、ゲンと共に空から核兵器のない平和な世界の出現を願っていることと思います。私たち遺族は中沢の願いが叶うことを信じ、その一助となれるよう頑張って生きて行きたいと考えております。
最後に、中沢が生前皆様から賜ったご厚情に対し深くお礼申し上げます。なお、遺族への取材はご遠慮いただきますよう、ご配慮のほど宜しくお願い致します。非礼のこと重々承知しておりますが、故人を静かに見送りたいとの遺族の気持ちをどうぞご理解くださいますように。もしお問い合わせがごさいましたら、広島平和記念資料館の前田館長あてお願いいたします。
遺族一同 』
しばらく、中沢啓治さんについて書きます。
その「はだしのゲン」が18カ国語に翻訳(翻訳中含む)され、欧米、アジアなど多数の国で出版ないし出版準備が進められていることを中沢は心から喜び、「はだしのゲン」が生み出す国際世論が核兵器廃絶の力となることを願っていました。
網膜症と白内障のため筆が採れなくなり、2009年に引退宣言。2010年には肺ガンの告知を受けて手術。以後、入退院を繰り返し、一時は危篤状態に陥ったこともありましたが、その都度、不死鳥のように蘇ってくれ、原爆の証言活動を続けて来ました。命の重さ、生きることの大切さを身をもって示してくれたと感じています。「原爆に負けてたまるか、この目で原爆の最後を見届けてやる」の一念だったのだと思います。
無念にもこの度は病に勝てませんでした。死去の前日、新刊の「はだしのゲン わたしの遺書」(朝日学生新聞社刊・12月20日発行)が手元に届き、それを見届けるような旅立ちでした。ガン患者とは思えない穏やかな死でした。あの愛くるしい表情が今にも蘇って来そうな気がします。
いま中沢は星となり、ゲンと共に空から核兵器のない平和な世界の出現を願っていることと思います。私たち遺族は中沢の願いが叶うことを信じ、その一助となれるよう頑張って生きて行きたいと考えております。
最後に、中沢が生前皆様から賜ったご厚情に対し深くお礼申し上げます。なお、遺族への取材はご遠慮いただきますよう、ご配慮のほど宜しくお願い致します。非礼のこと重々承知しておりますが、故人を静かに見送りたいとの遺族の気持ちをどうぞご理解くださいますように。もしお問い合わせがごさいましたら、広島平和記念資料館の前田館長あてお願いいたします。
遺族一同 』
しばらく、中沢啓治さんについて書きます。
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コメント
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ゲンには原爆のことだけでなく、生き様も教えてもらったように思います。
ご冥福をお祈りいたします。
投稿: うさこ | 2012年12月25日 (火) 13時36分
なんというか、被爆された方が亡くなられると通常とは違った感情というか、涙すら出ない悲しみというか複雑な寂しさがわきます。
核廃絶が遠のいてしまうような怖さも。。。。
しかし、被爆者の方々は今を一生懸命生きてくださっていてお身体がしんどいのに頑張って様々な活動をしてくださって。。。。頭が下がる思いと感謝の気持ちとゆっくりしてください…という気持ちと…
小学校1年生の時に平和学習でみたはだしのげんの映画が衝撃的すぎて、消防署から発せられる夕方6時のサイレンが怖くて怖くて仕方がなかったことや、アメリカ人は悪い人(当時の教育はそういうものでした。今はちがいますよね。)と教えられたいうのをを思い出します。
今ではサイレンも大丈夫だし、アメリカの方も偏見は全くなくなっていますが、偏見がなくなっているのは後の長崎や沖縄戦を深く勉強したからでした。
中沢さんはゲンに姿を変えてこれからもずっと世界各地でマンガや映画で核廃絶を訴えてくれるはず。
私も子供がもう少し大きくなったら広島に来られる方に原爆の恐ろしさを伝えていけたら…と思います。
投稿: けいちゃん | 2012年12月25日 (火) 15時48分
お久しぶりです。
わたしも「はだしのゲン」の作者である中沢さんが亡くなったことは驚きました。
はだしのゲン、わたしはむかしアニメも見ましたし、原作も読んだことがあります。
かなり衝撃的であったことを覚えています。
お笑いタレントのまちゃまちゃさん(摩邪さん)が、「踏まれても踏まれても麦のように強くなれ!」というはだしのゲンの名言が好きなんですよ、と言っていたことを覚えています。
中沢さんの死は決して無駄にしてはいけませんね。
ご哀悼の念を表します。
投稿: ハセケン | 2012年12月25日 (火) 17時10分
うさこさま
そうなのです。生き様なのですね。中沢さんは本当にまっすぐで。ゲンの正義感溢れた姿そのものなのですね。これからは、元にますます活躍して戴こうと思います。ありがとうございました。どうぞお元気で良いお年をお迎えくださいませ。こうのみよこ
投稿: こうのみよこ | 2012年12月31日 (月) 10時42分
けいちゃんさま
そうなのですね。ゲンが子どもたちに読まれ続けているのは、そのまま、ありのままの被爆の姿が強烈であっても、その後のゲンの生き方に共感するからだと思います。核兵器の怖さを知らなければなりません。特に、核武装論者には知ってもらわなければと思います。いつもコメントありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いします。いいお年をお迎えくださいませ。こうのみよこ
投稿: こうのみよこ | 2012年12月31日 (月) 10時45分
ハセケンさま
私も、どれだけゲンのこの言葉に励まされつづけたことか、と思いを新にしています。つらいことは一杯あったけれど。ゲンであり続けたいと思います。それが中沢さんの重いに報いることだと。コメントありがとうござまいした。こうのみよこ
投稿: こうのみよこ | 2012年12月31日 (月) 10時46分
「はだしのゲン」は体験した者しか語ることのできない貴重な事実に基づいて描かれています。
描写について様々な議論がありますが、戦争の悲惨さを表現するにあたり過剰すぎることはありません。
世代を超えて語り継ぐべき作品と思います。
平和な時代に平和を論ずることは容易い。
戦争で家族が犠牲になった作者の無念さは単に一個人の問題にとどまらず、日本、世界の課題でもあるはずですから。
投稿: 齊藤暁 | 2014年6月29日 (日) 20時23分