中沢啓治さん、これでいったん終了です。
原発について中沢さんにお話しを伺ったことがあります。中沢さんは、世界初の核実験が行われた米国のトリニティ・サイトや、同じく米国のネバダにある、巨大な核実験場など、世界のあちこちに行かれています。
私に語って下さったこと。
『チェルノブイリに行った時、かわいそうでねえ、甲状腺がんで、後一年の命と医者に言われたまだ若いかわいい女性が、「私は死にたくない」と泣いてねえ』と。それと同じことが「はだしのゲン 私の遺書」にも載っています。以下、同書からの引用です。
『 その後の福島の事故は、「やっぱりきたか」という感じで受け止めました。
ぼくは以前から、日本は地震列島なのだから、原発に頼るのは非常に危険だと思い、原発には反対でした。「原爆と原発はちがう」と言って、この地震の多い国で原発を増設してきた日本政府、それをだまって受け入れてきた日本人に、憤りを感じてきました。
原発がある地域に行ってみると、立派な図書館とか公民館とかができているわけです。みんな金がほしいんです。原発を維持するのも、みんな金じゃないですか。
そういうふうに慣らされてしまっている。でもちょっと待てよ。もし事故がおきたらどうするんだ。そういう、まったをかけるようなものがないといけないのに。
地震と天災だけは防ぎようがないのですから、それに備えて、風力や火力などの代替エネルギーを使うしかないと思っています。
(中略)
中でも、旧ソ連(現ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所を訪れたことは、とても強烈な印象でした。
ものすごくきれいな土地に、原子炉が立っているのです。事故をおこした四号炉にも入りました。放射能を測定するガイガーカウンターを持って入ると、基準値以上の放射能を検知するびーっという音が鳴り出し、十分やそこらで出ざるをえませんでした。
チェルノブイリの事故がおきてから、そのとき十九年もたっていたのに、まだ危険なのです。放射能というやつは、人間が制御できる代物じゃないと感じました。
チェルノブイリの病院を訪ねると、若い女性が、「あんたは一年後に死ぬと医者が平気な顔で言う。わたしは死にたくない」と泣きながらぼくに訴えるのです。かわいそうでね。
常々、みんな原発の恐ろしさをわかっていない、放射能のおそろしさを知った広島、長崎の教訓が生かされていないと思ってきましたが、今回、福島の事故で、日本中がやっと認識したのではないでしょうか。
(中略)
ものすごくきれいな土地に、原子炉が立っているのです。事故をおこした四号炉にも入りました。放射能を測定するガイガーカウンターを持って入ると、基準値以上の放射能を検知するびーっという音が鳴り出し、十分やそこらで出ざるをえませんでした。
チェルノブイリの事故がおきてから、そのとき十九年もたっていたのに、まだ危険なのです。放射能というやつは、人間が制御できる代物じゃないと感じました。
チェルノブイリの病院を訪ねると、若い女性が、「あんたは一年後に死ぬと医者が平気な顔で言う。わたしは死にたくない」と泣きながらぼくに訴えるのです。かわいそうでね。
常々、みんな原発の恐ろしさをわかっていない、放射能のおそろしさを知った広島、長崎の教訓が生かされていないと思ってきましたが、今回、福島の事故で、日本中がやっと認識したのではないでしょうか。
(中略)
福島のことを考えると、いまもあの頃と事態はあまり変わっていないように思います。唯一の被爆国なのに、放射能のことが正しく理解されていないことは、なんと情けないことでしょうか。』
中沢さんにはいつまでも生きていてほしかった!!生きているだけでいい。あのゲンが、まだ元気でこの世に生きていらっしゃる、それだけで、どれだけの人が元気づけられることか、常々私はそういっていました。
画像が悪くてすみません。以前平和公園の川土手でお花見をした時の写真です。自転車の前に座っているのが、中沢さんです。その手前の手前、黄色いジャンバーを着ている後ろ姿が前RCCの記者をなさっていた佐々木典明さん、その手前が山陽新聞の記者をなさっていた、川上さん。このお三人の方みなさんが亡くなっています。本当に大切な方たちが次々と亡くなってさびしいことです。
残念ながら、中沢さんは亡くなってしまいましたが、でも、ゲンは生きています。生きて生きて、世界中を飛びまわっています。私たちはそのゲンにもっともっと活躍してもらうよう、なすべきことをしたいと思います。
私は今日まで診療です。
中沢さんにはいつまでも生きていてほしかった!!生きているだけでいい。あのゲンが、まだ元気でこの世に生きていらっしゃる、それだけで、どれだけの人が元気づけられることか、常々私はそういっていました。
画像が悪くてすみません。以前平和公園の川土手でお花見をした時の写真です。自転車の前に座っているのが、中沢さんです。その手前の手前、黄色いジャンバーを着ている後ろ姿が前RCCの記者をなさっていた佐々木典明さん、その手前が山陽新聞の記者をなさっていた、川上さん。このお三人の方みなさんが亡くなっています。本当に大切な方たちが次々と亡くなってさびしいことです。
残念ながら、中沢さんは亡くなってしまいましたが、でも、ゲンは生きています。生きて生きて、世界中を飛びまわっています。私たちはそのゲンにもっともっと活躍してもらうよう、なすべきことをしたいと思います。
私は今日まで診療です。
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コメント
ご弔意を表すすべを知らず、先夜、平和公園慰霊碑を
訪れ、在りし日の中沢さんを偲びました。帰りにあのお花見の桜の木の下でしばしたたずんでいましたが、
冷たい川面に風が小波をつくっていました。せめて
残されたもの、元気で新しい年を迎えましょう。
故郷でのよい正月、念じています。
投稿: 浅井 | 2012年12月30日 (日) 14時43分
浅井さま
本当に悲しいですね。いつかみなさんで偲ぶ会でもできればいいけどと思っています。浅井さん、どうぞお元気で。来年のお花見ばどうなりますかね。コメントありがとうございます。こうのみよこ
投稿: こうのみよこ | 2012年12月31日 (月) 10時30分