中沢啓治さんについて、もう少し。
昨日書いたようなこと、わずか六歳にして、あのような体験をし、あのような覚めた死生観を身に着けてしまったという中沢さんを考えると、胸が詰まります。
やはり「はだしのゲン 私の遺書」からの引用です。
『 そのとき、ぼくは六歳でした。
広島の街を逃げまどい、むごたらしい、おびただしいたくさんのしたいを目にしました。幼い脳裏に焼き付いた地獄の記憶は決して消え去るものではありません。ほんの少しでも原爆のことを考えると、どこに黒こげの死体があったとか全部思い出すのです。
死体の腐るにおい、やけどから流れ出る膿のにおい、次から次へとよみがえります。とりわけ死体のにおいです。なんだか魚市場のような生臭い、なんともいえないやりきれない死臭がよみがえり、逃げ場のない穴に閉じ込められたような暗い気持ちになって落ちこんでしまいます。』
そして、中沢さんが常々おっしゃっていたことですが、自分にはおふくろが生き残ってくれて、本当に感謝していると。被爆後、広島の街には、多くの被爆孤児がいました。彼らは、自分で生きるしかありませんでした。住む所も食べ物もなく。「はだしのゲン」には、その孤児がたくさん出てきます。むすびやりゅうたや勝子など。度々「わしだって、母ちゃんや父ちゃんが生きていれば・・・」という言葉が何度も出てきます。
さぞさぞ大変だたことだろうとまた胸が詰まります。
昨日、ピースボートに乗っている友人からメールが来ました。ピースボートで広島の講座をするという彼に、私は「はだしのゲン」全10巻を託しました。その図書館においてほしいと。彼には届くかどうかわからないけれど、中沢啓治さんが亡くなったと携帯にメールを入れておきました。その返事が二日後にジャカルタから来ました。
船の中でゲンを読んだ人たちの反響がものすごいと。帰って中沢さんに報告したいと思っていたのに、残念ですと。
それを見て、また思いました。中沢さんは亡くなったけれど、ゲンは生き続けている。生きて全世界を飛び回って、原爆はどんなものなのか、核兵器はなくさないといけないということを訴え続けるだろうと。中沢さんが残してくださったものをしっかりと受け止めたいと思います。
明日、最後に中沢さんと原発について書きたいと思います。
今年10月23日、毎日文化センターの「英語ではだしのゲンを読む」講座の最終回に来て下さった中沢さんご夫妻です。
この講座に参加して下さって「ゲンが英語をしゃべったねえ」ととてもうれしそうに言って下さいました。「はだしのゲン」はいま18か国語に翻訳・出版されています。
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