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今年うれしかったこと、悲しかったこと。

 大晦日。ここ別府でも、雪がちらついています。でも空はほとんど晴れています。

 今年うれしかったことと、悲しかったことを。

Photo 私的には、何と言っても、初孫の誕生がものすごくうれしい出来事でした。それも、ちょうど私がオフの日。広島空港から、シニアのチケットを使って日帰りで東京に行き、生まれたてのベビーと対面できたこと、今も胸が熱くなります。それからほぼ五か月。あまり会えませんが、送られて来る写真を日々眺めております。今度いつ会えるのかなあと。

 来年のお正月には、もう連れて出ることができるでしょうから、別府まで来てもらって一緒にお正月が過ごせるでしょうか。そして、義母にひ孫と対面してもらえればなあと思っています。

 皆様には数々のお祝いのメッセージやお祝いをありがとうございました。

Photo_2 そして、何と言っても今年一番悲しかったこと。はだしのゲンの中沢さんが亡くなってしまったことです。

 中沢さんと一緒のお花見の時の写真です。何度も言いますが、中沢さんにはもう会えませんが、でも、ゲンは生きています。これから、ゲンにもっともっと活躍していただくように、私は、世界中に「はだしのゲン」を送ろうと思っています。

 

 皆様にはこの一年、公私共に本当にお世話になりました。特にこのブログを通じて様々な方たちとの交流ができたことを感謝します。でも、多くの方々にご迷惑や不義理をしたこと、心苦しく思っています。お詫び申し上げます。

 どうぞ、来年もよろしくお付き合い下さいませ。ありがとうございました。

(そうそう、パソコンは、eモバイルをやめて、WiMaxに切り替えたら、スイスイと動いてくれました。早く気付けばよかったのに!! WiMaxも契約を解除してなくってよかったです。もう少しeモバイルが広がるまで両方動くようにしておこうと思います。少しお金はかかりますが。)

 どうぞ皆様、いいお年をお迎えくださいませ。いい年にしたいですね!!


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やはり政治を見なければ。

実家から別府の我が家に戻ってきました。

Dscn3771_1280x960_1024x768_2 Dscn3772_1280x960_1024x768_2 我が家の庭のスィーティーとレモンが主がいなくても、たくさんの実をつけてくれていました。今日すべて収穫しました。

 私はどさっとすべてのレセプトを持って来ました。韓国語の宿題も。

 ゆったりと丁寧に生きている人たちの中に紛れこんで、いつか私もこのように生きたいと思いながらも、変わらずセカセカした自分がいます。

 もう明日は今年最後の日。今年の終わりに当たって、どうしても言ってきたいことがあります。

 安倍政権です。すぐに彼の超タカ派の姿勢が前面に出てきました。原発、国防軍、外交、憲法・・・。

 それに、自民党三役に女性二人を登用したと報道された時の、高市早苗氏の姿を見ましたか? もう、うれしくて、うれしくて。もうどうしたらいいかわからなくなった風ではしゃぎまわっていました。目がどこを向いているのか、とても醜い姿でした。超タカ派の彼女が、たとえ女であっても、男と変わらない女は女ではありません。それは、女医であればいいというものではないという、産婦人科界での常識と通じています。男と変わらない女医は、残酷な男性の医師以上に残酷になれるのだと。

 はしゃいでもらっては困るのです。これからの政治がどこを向くのか。彼女に国民の方をしっかり見て下さいと願うことは無理というものでしょう。

 来年一年間、日本がどんな国になっていくのか。やっぱり目を離さないで見て行こうと思います。

 ワイファイが不安定で、何回も書いた原稿が消えました。全くもう、ストレスフルです。


 


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河野の実家の庭です。

河野の実家の庭です。
庭がすっかり冬模様に変わっています。
ここを89才の義母が一人で守っています。
季節ごとに庭の花が変わるのは、近くに住んでいる姉夫妻のおかげです。

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わが家用のお餅です。

わが家用のお餅です。
お鏡とあん餅と小餅です。
今はもうお餅つきなんてしなくっても、買えばいいのに、なんて思いましたが、楽しくしました。
編み物と同じですね。時間をかけて肩も凝るのに、と言われても、手作りの楽しさは何物にも変えられません。

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別府です。

別府です。
わが家の二階から見える別府湾です。
雨に煙っています。
昨夜1時ごろに着きました。
わが家ではWi-Fiが入らず、まいりました。
あれこれ試してもアップできず、諦めました。
今、ここは、日出町の実家です。
辛うじて3Gが入ります。
もう、お餅つきもすんで、お昼も食べて、
おせちのお手伝いです。
また、夜には場所を探して、パソコンを試みます。

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徳山港です。

徳山港です。
今からこのフェリーに載って国東半島の竹田津まで2時間。
そこから一時間半運転して、家に着きます。
診療の後、年賀状を仕上げました。
三百五十枚、すべて手書きの一言を書きました。
ホッとしました。
明日は朝からお餅つきです。

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中沢啓治さん、これでいったん終了です。

 原発について中沢さんにお話しを伺ったことがあります。中沢さんは、世界初の核実験が行われた米国のトリニティ・サイトや、同じく米国のネバダにある、巨大な核実験場など、世界のあちこちに行かれています。

 私に語って下さったこと。

『チェルノブイリに行った時、かわいそうでねえ、甲状腺がんで、後一年の命と医者に言われたまだ若いかわいい女性が、「私は死にたくない」と泣いてねえ』と。それと同じことが「はだしのゲン 私の遺書」にも載っています。以下、同書からの引用です。

『  その後の福島の事故は、「やっぱりきたか」という感じで受け止めました。

 ぼくは以前から、日本は地震列島なのだから、原発に頼るのは非常に危険だと思い、原発には反対でした。「原爆と原発はちがう」と言って、この地震の多い国で原発を増設してきた日本政府、それをだまって受け入れてきた日本人に、憤りを感じてきました。

 原発がある地域に行ってみると、立派な図書館とか公民館とかができているわけです。みんな金がほしいんです。原発を維持するのも、みんな金じゃないですか。

 そういうふうに慣らされてしまっている。でもちょっと待てよ。もし事故がおきたらどうするんだ。そういう、まったをかけるようなものがないといけないのに。

 地震と天災だけは防ぎようがないのですから、それに備えて、風力や火力などの代替エネルギーを使うしかないと思っています。

(中略)

中でも、旧ソ連(現ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所を訪れたことは、とても強烈な印象でした。

 ものすごくきれいな土地に、原子炉が立っているのです。事故をおこした四号炉にも入りました。放射能を測定するガイガーカウンターを持って入ると、基準値以上の放射能を検知するびーっという音が鳴り出し、十分やそこらで出ざるをえませんでした。

 チェルノブイリの事故がおきてから、そのとき十九年もたっていたのに、まだ危険なのです。放射能というやつは、人間が制御できる代物じゃないと感じました。

 チェルノブイリの病院を訪ねると、若い女性が、「あんたは一年後に死ぬと医者が平気な顔で言う。わたしは死にたくない」と泣きながらぼくに訴えるのです。かわいそうでね。

 常々、みんな原発の恐ろしさをわかっていない、放射能のおそろしさを知った広島、長崎の教訓が生かされていないと思ってきましたが、今回、福島の事故で、日本中がやっと認識したのではないでしょうか。

(中略)
 福島のことを考えると、いまもあの頃と事態はあまり変わっていないように思います。唯一の被爆国なのに、放射能のことが正しく理解されていないことは、なんと情けないことでしょうか。』

Image 中沢さんにはいつまでも生きていてほしかった!!生きているだけでいい。あのゲンが、まだ元気でこの世に生きていらっしゃる、それだけで、どれだけの人が元気づけられることか、常々私はそういっていました。

 画像が悪くてすみません。以前平和公園の川土手でお花見をした時の写真です。自転車の前に座っているのが、中沢さんです。その手前の手前、黄色いジャンバーを着ている後ろ姿が前RCCの記者をなさっていた佐々木典明さん、その手前が山陽新聞の記者をなさっていた、川上さん。このお三人の方みなさんが亡くなっています。本当に大切な方たちが次々と亡くなってさびしいことです。

 残念ながら、中沢さんは亡くなってしまいましたが、でも、ゲンは生きています。生きて生きて、世界中を飛びまわっています。私たちはそのゲンにもっともっと活躍してもらうよう、なすべきことをしたいと思います。

 私は今日まで診療です。


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中沢啓治さんについて、もう少し。

 昨日書いたようなこと、わずか六歳にして、あのような体験をし、あのような覚めた死生観を身に着けてしまったという中沢さんを考えると、胸が詰まります。

 やはり「はだしのゲン 私の遺書」からの引用です。

『 そのとき、ぼくは六歳でした。

 広島の街を逃げまどい、むごたらしい、おびただしいたくさんのしたいを目にしました。幼い脳裏に焼き付いた地獄の記憶は決して消え去るものではありません。ほんの少しでも原爆のことを考えると、どこに黒こげの死体があったとか全部思い出すのです。

 死体の腐るにおい、やけどから流れ出る膿のにおい、次から次へとよみがえります。とりわけ死体のにおいです。なんだか魚市場のような生臭い、なんともいえないやりきれない死臭がよみがえり、逃げ場のない穴に閉じ込められたような暗い気持ちになって落ちこんでしまいます。』

 そして、中沢さんが常々おっしゃっていたことですが、自分にはおふくろが生き残ってくれて、本当に感謝していると。被爆後、広島の街には、多くの被爆孤児がいました。彼らは、自分で生きるしかありませんでした。住む所も食べ物もなく。「はだしのゲン」には、その孤児がたくさん出てきます。むすびやりゅうたや勝子など。度々「わしだって、母ちゃんや父ちゃんが生きていれば・・・」という言葉が何度も出てきます。

 さぞさぞ大変だたことだろうとまた胸が詰まります。

 昨日、ピースボートに乗っている友人からメールが来ました。ピースボートで広島の講座をするという彼に、私は「はだしのゲン」全10巻を託しました。その図書館においてほしいと。彼には届くかどうかわからないけれど、中沢啓治さんが亡くなったと携帯にメールを入れておきました。その返事が二日後にジャカルタから来ました。

 船の中でゲンを読んだ人たちの反響がものすごいと。帰って中沢さんに報告したいと思っていたのに、残念ですと。

 それを見て、また思いました。中沢さんは亡くなったけれど、ゲンは生き続けている。生きて全世界を飛び回って、原爆はどんなものなのか、核兵器はなくさないといけないということを訴え続けるだろうと。中沢さんが残してくださったものをしっかりと受け止めたいと思います。

 明日、最後に中沢さんと原発について書きたいと思います。

Dscn2929_1280x960 今年10月23日、毎日文化センターの「英語ではだしのゲンを読む」講座の最終回に来て下さった中沢さんご夫妻です。

 この講座に参加して下さって「ゲンが英語をしゃべったねえ」ととてもうれしそうに言って下さいました。「はだしのゲン」はいま18か国語に翻訳・出版されています。


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中沢啓治さん、続き。

 昨日、さまざまなメディアで、中沢啓治さんの死を取り上げていました。それら、テレビを見、新聞を読んで、また悲しくなっています。

 そして、私は、やっぱり昨日のブログに書き足りないので、ここにもう一度言います。ここに NHKのニュースがあります。動画もついています。

『中沢さんは、被爆体験を思い出したくないとして、8月6日の平和記念式典には出席してきませんでしたが、去年、初めて「原爆への怒りと戦争への反省を次の世代に伝えたい」として出席しました。』と、これが全国ニュースでも地方ニュースでも、昼も夜も何回も読まれた原稿です。

 おそらく、この原稿は「はだしのゲン」など読んだことのない人が書いたのでしょう。それを通した上司も。知らないにもほどがある、と思いました。中沢さんほど、原爆のこわさ、悲惨さを後世に伝えるべく尽力した人はいないのではないでしょうか。これは誤報と言ってもいいほどではないかと怒っています。

 中沢啓治さんご夫妻とは、よく食事をご一緒させていただきました。これまでお会いする度に、ぽつぽつと話してくださったことのすべてが、この度出版された「わたしの遺書」に載っています。その意味で、中沢さんは亡くなる直前に、また大きな事をなさったなあと思うのです。

 この度、中沢さんがお葬式もすることなく、すべて済むまでその死を公表されなかった、その訳が、中沢さんがその本に書かれています。少し引用させて戴きます。

『 ぼくは、三十代のころから、自分が死んだら、火葬にして、骨は瀬戸内海に散骨してほしい、葬式もお別れ会もするなと家族に伝えてあります。

 ぼくの座右の銘は、「一寸先は、闇」。いつか原爆の症状が出るんじゃないかという不安から、死と背中合わせの生きてきたので、徹底した現実主義者になりました。

 ぼくは、原爆地獄の中で、あまりにもたくさんの死体を見過ぎてきました。だから、人間というのは、死ねば、ああいう死体になって、骨が残るだけ、なんとむなしいものだろうという、しらっと開き直ったような無常感みたいなものが、強烈にあるのです。

 六歳であの地獄を見ればねえ、人間がどうなるかってわかるわけです。

 非常に冷めたものの見方をするませたガキになりました。冷やかに物を見る、そんな死生観が身につきました。

 自分が死んだら、ああいう姿になるのだということが、想像つくわけです。それが絶えずちらつくんですね。焼けこげたいろんな死体が浮かんでくるんです。

 虚飾の世界がみんなはげ落ちてね。

 人間、あれでおしまいなのです。

 だから、もう達観してしまって、「わしもみんなのところに行くから席をあけて待っていてくれ」という気持ちだけで、葬式や墓参りといったことは一切いらないと思うようになりました。ですから、おふくろやおやじたちの墓参りにも行ったことがありません。

 先祖もくそもない。あの一瞬にして焼き尽くされた広島を知っているから、しょせん人間はこんなものよ、そんな感覚があります。

 ぼくは、きんきらきんの仏壇も嫌いで、死者を悼むんだったら、何も金箔でぎんぎらぎんにしなくても、各自が静かに心の中で悼めばいいと思っています。
 原爆でたくさんの人が死んで、線香をたいていたので、線香のにおいも大嫌いです。

 ですから家族には、ぼくが死んだら、ぼくの好きな「枯葉」とか「愛の讃歌」とかシャンソンの曲をかけて、香水をふりかけておけと言っています。』
                                                            
Dscn0759_1280x960_2 今年の3月14日、73才のお誕生日のお祝いの会で。この時、「80才まで生きたい。80まで生きれば、大体、言いたいことは伝えられるだろうと思うから」と言われました。

 癌をわずらっていても、まだまだお元気でした。

 もう少し中沢さんについて書かせていただきますね。


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「中沢啓治さん」

 昨日から、ずっと涙が出て。診察も度々中断してしまいました。

 中沢さんが亡くなった翌日、奥様からの知らせで、中沢さんに会いに行きました。ご家族以外に7人が集まりました。中沢さんは、とってもおだやかな優しい顔をして休まれていました。つらい闘病もやっと終えて、安らかなお顔でした。肺がんというしんどい病でも、お顔はやつれることはなく、ふっくらといいお顔でした。

 疲れ切っていらっしゃるご家族のためにも、そして何より中沢さん自身の意志で、お葬式はしない、家族だけで見送るようにとのことで、それまではマスコミにも知らせないことになってました。

 だから、お葬式は家族葬です。(私は前日に会いに行っただけで、当然家族葬には出席していません。)

 連休明けの25日に原爆資料館の前田館長がマスコミに発表することにしていたのですが、その前に知られてしまって。発表する文章には、ご遺族の取材はご遠慮願いたいと書いてありましたが、その前だったので、取材がご家族に殺到したようです。

 奥様は、さぞ大変だったことでしょう。

 中沢さんは、穏やかな方でした。でも、心の中では沸々と戦争や原爆への怒りがわいていました。

 6年前、秋葉さんの市長選挙の時、その後の私の参議院選挙の時にも応援に駆け付けて下さって夏の暑い中、マイクを持って下さいました。まだ肺がんになられる前のことです。

 2009年7月、はだしのゲン英語版全10巻翻訳完成のお祝いと中沢啓治さんを励ます会が開かれました。ここにそれからこの次の日の二日にわたって、その時のことを書いています。まだまだお元気でした。

 そして、2010年11月6日秋葉さんのマグサイサイ賞受賞のお祝いの会の時、入院中だった市民病院から駆けつけて下さいました。その時に

「まさか自分がガンになるとは」とみなさんの前で告白されました。会場はシーンとしてしまいました。その時のことはここに 書いています。それからの厳しい闘病が続きました。

2011年には、初めて広島市の平和祈念式典に出席しています。これをNHKニュースでは、盛んに「原爆のことを思い出すのがいやだからそれまで出席しなかった」と言っていました。あの「はだしのゲン」を書いた作者が「原爆を思い出すのがいやだから」なんてことがあるはずがありません。全く悪いジョークみたいなおかしな報道です。この度出版された「はだしのゲン わたしの遺書」に書いてあります。

『 ぼくは2011年、初めて八月六日の広島平和記念式典に参加しました。

 それまでは、式典をやるのもいいけれど、鐘をついて、平和の鳩が飛んで、合唱曲をやって、平和を祈るだけでは、不十分じゃないか、こんなことで戦争と核兵器がなくなるものかと思って、一度も参加しませんでした。

 ぼくが考える式典は、あそこに、あの戦争を引き起こした一連の戦犯の人形を並べて、市民が石をぶつける式典です。そういう式典ならぼくも喜んで参加したいと思っていたのです。』

 その同じ日に中沢さんは、私たちの「8.6.ヒロシマ平和の夕べ」にも参加して下さいました。

Photo この写真をお借りした「shiozy的人生」のshiozyは、

『メディアなどで知る中沢さんの温厚なイメージとは程遠い、その過激さに驚いたのだった。
 66年前の8.6.の朝の「空の青」を語る中沢さんが印象的だった。』と書かれています。

 その中沢さんの過激さ、根底にある怒り、そして死生観について、次回は書きたいと思います。





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「はだしのゲン」中沢啓治さんが亡くなりました。

「はだしのゲン」の中沢啓治さんが亡くなりました。

以下は本日報道機関に配布された文章です。

『  中沢 啓治逝去のお知らせ

「はだしのゲン」の作者、中沢 啓治は12月19日午後2時10分、肺ガンのため入院先の広島市民病院で死去しました。享年73才でした。葬儀は「葬儀・告別式は行わず、家族だけで見送ってほしい」との故人の強い意志に沿い、すでに12月21日、家族葬にて執り行いました。訃報のお知らせが遅くなりましたことにつきまして、ここに謹んでお詫び申し上げます。

 中沢は1939年3月14日、広島市に生まれ、原爆の閃光を直接浴びました。父と姉と弟の3人を直爆で失い、その後、妹と母も原爆に奪われました。戦争と原爆を憎み、その思いをぶつけるように1966年「黒い雨にうたれて」(1968年発表)、1972年「おれは見た」を執筆。1973年には代表作となった「はだしのゲン」の執筆を始めました。「はだしのゲン」は文字通り中沢の分身でした。

 その「はだしのゲン」が18カ国語に翻訳(翻訳中含む)され、欧米、アジアなど多数の国で出版ないし出版準備が進められていることを中沢は心から喜び、「はだしのゲン」が生み出す国際世論が核兵器廃絶の力となることを願っていました。

 網膜症と白内障のため筆が採れなくなり、2009年に引退宣言。2010年には肺ガンの告知を受けて手術。以後、入退院を繰り返し、一時は危篤状態に陥ったこともありましたが、その都度、不死鳥のように蘇ってくれ、原爆の証言活動を続けて来ました。命の重さ、生きることの大切さを身をもって示してくれたと感じています。「原爆に負けてたまるか、この目で原爆の最後を見届けてやる」の一念だったのだと思います。

921x1280 無念にもこの度は病に勝てませんでした。死去の前日、新刊の「はだしのゲン わたしの遺書」(朝日学生新聞社刊・12月20日発行)が手元に届き、それを見届けるような旅立ちでした。ガン患者とは思えない穏やかな死でした。あの愛くるしい表情が今にも蘇って来そうな気がします。

 いま中沢は星となり、ゲンと共に空から核兵器のない平和な世界の出現を願っていることと思います。私たち遺族は中沢の願いが叶うことを信じ、その一助となれるよう頑張って生きて行きたいと考えております。

 最後に、中沢が生前皆様から賜ったご厚情に対し深くお礼申し上げます。なお、遺族への取材はご遠慮いただきますよう、ご配慮のほど宜しくお願い致します。非礼のこと重々承知しておりますが、故人を静かに見送りたいとの遺族の気持ちをどうぞご理解くださいますように。もしお問い合わせがごさいましたら、広島平和記念資料館の前田館長あてお願いいたします。
               
               遺族一同  』

 しばらく、中沢啓治さんについて書きます。

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クリスマス・ディナー。

 昨夜はクリスマスイブ。と言っても、子どもがいなくなった我が家では何にもありません。せめて、食事でも、ということで、大分前、白いカレーを食べに行った時に予約していたレストランに食事に行きました。

 今年7月に中沢啓治さん夫妻に連れて行っていただいた「キャセロール」です。

Dscn3714_1280x960 Dscn3715_1280x960 冷たい前菜の真ん中は「天使の海老のマリネ」。天使のエビというのがあるのですって。あと七面鳥と野菜のムース。

 温前菜はフォアグラのソテー。ソースがとってもおいしかったです。

Dscn3717_1280x960 Dscn3720_1280x960 お魚は真鯛とクルマエビのポワレ。

 お肉は和牛のロースステーキと牛ほほ肉の赤ワイン煮と鴨のロースト。

 これらすべてお箸で戴きます。ナイフとフォークは出てきませんでした。

Dscn3724_1280x960 デザートは二人分ずつが一つのお皿に。きゃ、かわいい。イチゴのサンタはこれまでもいろいろとみてきましたが、ここまで丁寧に作られているのは見たことがありません。帽子の先には、ちゃんとボンボンが作られていたし。

 後はスパーリングワインとパンとサラダとコーヒーは写真を撮っていません。

 おしゃれでおいしくて、みんな大満足のディナーでした。自転車での行き帰りはとっても寒かったです。

 今日のお昼にはもう一つブログをアップします。



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これからの人生の目標。

 個人的に連絡ができなかった方もおありですので、この場でご連絡をしますね。

 今週木曜日27日のヒロシマ・アキバ塾は「忘年会を兼ねた懇親会」です。午後7時から広島YMCA3号館の一階、多目的室で。会費は4千円です。ぜひ多くの方に参加して戴けますよう、お待ちします。特にメニューは決めていませんが、カラオケの準備がしてありますので、秋葉さんの美声も聴かせてもらえそうです。参加希望の方、これまで参加の表明をしていらっしゃらない方は、このブログのコメント欄にコメントとして入れて下さいませ。アップはしませんので。よろしくお願いします。

 それから、前回のアキバ塾の時にお伝えしたのですが、定例のヒロシマ・アキバ塾は今回で終了とします。秋葉さんにはお忙しい中、無料で一回も欠かさず貴重なお話しをしていただきました。本当にありがたいことでした。

 でも、あまりにお忙しい身で世界中を飛びまわっていらっしゃることから、大変お気の毒になって、こちらから終了をお願いしました。これからは不定期に皆様へのお話しをしていただくということにしました。不定期の一回目の講演については、もう決まっています。そのプリントができましたら(忘年会の場ではお配りできると思います)ここでお知らせましすね。

 先日あった「秋葉忠利さんの古稀を祝って歌う会」で、秋葉さんのあいさつがとてもすばらしくって、いつかここに披露したいと思っていたのですが、一生懸命書いたその挨拶をメモした紙を紛失してしまって、正確に再現することができません。ですが、私が覚えている範囲で再現しますね。

 秋葉さんは、今MPI(中堅国家構想)議長、AFS日本協会理事長、ヒロシマ大学の特任教授などを務めていらっしゃいます。

 古稀ということで秋葉さんはこれからの人生、「私たちは若者や子どもにどんな社会を作り、渡していくかが務めである」と言われました。

 ああ、そうか。私なんかは人生の終わりに向けていかに締めくくるかなんて考えていたのですが、若者のために少しでもいい社会を造る義務があるということ、私もそれをこれからの人生の目標にすることだと、目が覚めた思いをしました。

 そしてAFSの理事長として。秋葉さんは高校時代、(高校時代の友人に直接聞いたのですが全国の模擬テストで全国一位だった秀才だったそうです。)AFSの交換留学生としてアメリカに一年間行ったこと、それがご自分の人生に大きく影響したこと、そして多くの若者に若い時に世界を見て欲しい、留学を経験してほしいと思っていらっしゃると話されました。このアメリカ留学時代のことは秋葉さんの著書「アメリカ人との付き合い方」に書かれています。まだ船でアメリカに渡った頃のことです。若き秋葉さんの数々のエピソードが書かれた大変に面白い本です。

 AFSの理事長として東北の被災地の生徒たちに留学してもらうべく尽力して寄付を集め、結果500人の被災地の生徒たちに留学してもらうことができたそうです。ちなみに、ソフトバンクの孫正義さんは10億円の寄付をして下さったそうです。このあたりの行動力がすごいと思いました。

 

メモがないままで、筋はまちがっていないのですが、数字を間違っていたらごめんなさい。

 そんな秋葉さんと同席できる忘年会にぜひご出席を!!呼びかけますね。そうそう、忘年会はお料理と飲み物はYMCAで用意してくださいますが、持ち込みもO.K.です。みなさまも人に食べさせてあげたい、飲ませて上げたい物がありましたら、持ってきていただいても結構です。(義務ではありませんよ)私は、とっておきのアイスワインや日本酒、マッコリやお菓子などを持って行きます。どうぞお楽しみに!!

Dscn3711_1280x960 李先生の指導で作ったキムチ、たくさんあります。そのまま白ごはんと一緒に食べてもおいしいのですが、鍋にしたり(後の雑炊もおいしい!!)、これは牡蠣と一緒に炒めました。牡蠣もキムチも両方が美味しくて、お勧めです。



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中学の生徒からの感想文。

 今日から私も連休です。朝早く起きて朝市に行きました。

 あら、写真を撮ったはずが写っていませんでした。唯一、抽選会の様子だけがかろうじて写っていました。

1280x956 目の前の人がカランカランと大当たりで、神田山荘のペア入浴券をゲットされました。私たちはバラバラで大根やネギを買ったので、抽選券はもらえず残念でした。

 寒いです。自転車で行き帰り、顔が痛いほどでした。

 うどんを食べようと言ったのですが、うどん好きの夫も、さすが朝からは食べられないと言うので、これも残念でした。

 今日は一日中クリニックにこもってやるべきことが満載です。

 先日行った大阪の枚岡中学校から生徒さんの感想文が届きました。ありがたくって、少ーし元気が出ました。

『僕は昨日の性教育の授業を聞くまで性というのはいやらしいものだと思っていました。でも、昨日来て頂いた河野先生の話を聴いていたら人間が生まれるというのは奇跡だと先生の持ってきてくださったビデオを見て感じました。だからこの世に生んでくれた親に感謝して、親孝行をしなくてはいけないのだと思いました。あと、先生の話を聴いて女の人は大切にしなければならないと決めました。また、悩みができたら先生のブログで相談しようと思います。昨日の講演でとても成長できたと思いました。』

『今までの「講演会」といえば何かを押し付けたり、その人自身の考え方をずっと話していて、あまり興味をもったり、印象に残ることは少なかったです。でも、今回の河野先生の講演会はきれいごとを並べるのではなくて、ちゃんとした事実をありのままに語ってくださり、わかりやすく、聴きやすかったです。学べることがたくさんあり、ためになった講演会でした。』

『うちのお姉ちゃんの友達にも中絶した人がいたから、どんな感じとかは知っているからこそ、話に入り込めた。中絶するのがどれだけ大変かも知っているし、先生の話が人事とは思われへんかった。この機会を通して、「性」の大切さとか色々と学べて良かった。これから大人になって行くにつれて性行為をしたりするかもしれないけど、軽い気持ちではしたくないと思った。また、そういうことをしている友達がいれば、今回知ったことや学んだことを教えてあげようと思った。』

 みなさん、ありがとう。とても元気が出ましたよ。また、来年もたくさんの生徒さんに話をすることができればいいなあと思っています。


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元気が出ないので、私のドジ話でも。

 まだ気分はすぐれません。でも、くよくよ悲しんでいても何にもならないことは分かります。それでも、まだ私の惚れた男性の話をする気にはなれません。またそれは元気になった時にお話ししますね。

 今日は私のドジ話でもしましょう。私がこの前丸亀に行った時のこと。風が強かった日です。午前中の講演なので、朝バタバタしました。朝起きてからブログも書いたし、姉と朝ごはんを食べて、出発までにあまり時間がなくって。アッと言う間に姉とのチェックアウトの約束の時間が迫ってきて。

 大急ぎでお化粧をしようとした時。乳液を手のひらに出したら、なんだか固いのです。あら、固まっている!と思ったのですが。久しぶりのチューブだから乾燥したのかしら、なんて。ま、いいやで顔に伸ばすと、どうも伸びが悪いのですね。伸びないなあなんて思いながら、それでも顔全体に塗りたくりました。そして、次、化粧の下地クリームを塗ろうとしたとき、顔がどうもヒリヒリ、スース―し始めました。あれえとまた乳液のチューブを見ると、それは乳液ではなく、歯磨き粉でしたのよ。急いでいたので、よく見ないままだったのです。まあ、顔に歯磨きを塗っちゃった!!道理でス―スーするわ。

 でも、時間がない、もう、そのままでいいか!!これくらいスース―するだけなら、まあ我慢もできるわね、と思って。下地クリームを塗って、ファンデーションを塗ろうとしたら、肌がよれよれになって。歯磨きとファンデーションが一緒になって、顔中よれよれだらけになって、どうしようもありません。何とか伸ばそうとすると、泡まで出てきました。

 したかなく、姉に電話です。もうちょっと遅らせてと。そして安心して顔を洗いましたよ。また、化粧水から出直しです。

 やれやれ。気づいた時にサッサとやり直しをすればいいものを。いつも母が言っていた教訓を思い出します。母はいつも言っていました。「失敗したと思ったら、とにかくすぐに初めに戻ってやり直すこと。何とかごまかそうしたら、ずっと後悔することになる」と。

 歯磨きを塗りたくった顔は、洗ってもずっとスース―していました。

 こんなドジ話で今日はご勘弁を!!

Dscn3671_1280x960 クリニックの近くにある藤原ラーメンでは、ねぎの焦し油をかけたラーメンが好きです。でも、この前行ったら、ここにも「辛みそラーメン」がありました。辛みそブームですね。さっそく注文。辛みそを溶かしながら戴きました。おいしかったです。おつゆにご飯を入れて食べたかったけど、我慢です。ここは魅力的な餃子やから揚げをセットにできますが、ラーメンだけで満足でした。


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岩国レンコンのきんぴら。

 昨日は、年賀状を作ったり、たくさんすべきことをしようと思ったのですが。ほとんど何もできませんでした。悲しいことが続いています。

 私のクリニックのすぐそば、バスセンターにあって、散々お世話になった整形外科の氏川先生が亡くなりました。手に刺さったバラのとげが皮膚の下に入りこんでしまって取れなくなったとか。転んで肩の骨が折れた時も。車にはねられてけがをした時も。そして、膝が腫れ上がって曲がらなくなった時も。

 何かあればバスセンターまで行って診てもらっていました。いつもニコニコと温厚な先生で、行けば全て任せられると、ほっとしていました。

 それが、ある日「氏川整形外科」から名前が変わりました。大きな病院の分院の形で診療をされことになった時。「跡継ぎもいないしね。」と言われました。うーん、そうか、私より若くても、将来のことを考えてそうなさっていることに感心しました。

 でも、やがてそのクリニックも閉鎖されると。そして先生はその病院の本院で診療を続けるといわれました。まあ、それは不便になりますよう。困りますねえ。続けて戴けませんか。なんて言っていたのですが。そして、その通り、とても不便になりました。腰が痛い、肩が痛いという患者さんたちはすぐに紹介していたのですが、それができなくなって。

 そして、突然の訃報です。後でわかったのですが、ご病気だったようです。それがわかったときから、すべてを整理して亡くなったということでした。悲しいことだけれど、見事だとうなりました。ああそうなのか、悲しくてもそうして準備できるから、癌というのも悪くはないよね、改めてそう思いました。

Dscn3708_1280x960  それにまだ親しい方の訃報が続いて参っています。そんな時には、のろのろと重い体で台所に立ちます。

 戴いていた岩国レンコン。一節の半分をきんぴらにしました。残りは天ぷらにします。本当は丸いまま薄切りにしたいのですが、大きくて難しいので、半分に切って薄切りにしました。見栄えは良くありません。夫は、いったんゆでて柔らかく作れと言います。私は、きんぴらはぱりぱりした歯ごたえがしないと、と思います。柔らかいきんぴらなんて、と。今日はぱりぱりとしたのを作りました。ゴマと唐辛子が効いておいしいです。夫には、後でチンして柔らかくしようと思います。何の変哲もない写真ですみません。でも、頭が回りません。

 


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昨日の「宮崎シェフのお料理」のアップです。

 昨夜の並木通りのビストロM2(エムエム)での「宮崎シェフのおいしい料理とコピルアックを飲む会」。おいしくて楽しくって。充実した時間を過ごすことができました。宮崎シェフ、スタッフの皆様、にしなやコーヒーの女社長さん、焙煎人さま、そして参加の方々、皆様暖かい方々ばかりで、本当にありがとうごさまいした。

Dscn3686_1280x960 Dscn3687_1280x960宮崎シェフのお料理のアップです。どれもこれも素敵で。

 スープは、ぷりぷりの牡蠣のスープです。サイコーにおいしいスープでした。女社長さんは、カキのアレルギーで特別にかぼちゃにサツマイモやブロッコリーやカリフラワーがたくさん入ったスープ、それもおいしそうでした。
Dscn3688_1280x960 Dscn3689_1280x960 焙煎人さまが心を籠めて入れて下さったコーヒーの写真、飲むのに夢中で、撮り忘れました。ごめんなさい。もう10年以上前になりますか、TBSのウルルンでインドネシアでジャコウネコの糞を見つけて大騒ぎで、その中のコーヒー豆についての話があったのを強烈に覚えています。へーえ、そうなのか、いつかあのコーヒーを飲みたいとなあと思っていた、長年の願いが叶いました。銀座では一杯一万円するというコーヒー、しっかり味わせて戴きました。

 それに、会話がタノシカッタ!!昨日、i Padミニで速報した写真にお二人写っているのは、にしなやの社長さんと手書き友禅の「ずいこ」の中村穂湖さんです。ご自分の作品の着物を着ていらっしたのが、とっても素敵で目を奪われてしまいました。私は広島で京友禅を描いていらっしゃるなんて知らなかったので。こんな出会いがあることがうれしかったです。

 それから、やはりアップした焙煎人さまの写真。とても素敵な笑顔でした。パートナーの社長さんは「お葬式の写真にしたい」だそうです。i Padで撮ってはブログにアップするというのも、大分慣れてきました。画質は良くないかもしれないけれど、速報性という意味では手軽で面白いと思います。

 今、私のi Padには無料アプリで、音の出る「お絵かき」や自動でクラシック音楽を演奏してくれたり、自分でも音を出せるピアノの鍵盤や、パンダのピアノなどを入れています。お母様について来た子どもにそれを渡して、自由に遊んでもらいます。子どもって、すぐに操作を覚えて楽しんでいます。そうそう、太鼓も入れていますよ。それから、自分でひまな時に見る「赤ずきん」や「三匹の子ブタ」などの韓国語の絵本も。すっかり楽しませて戴いて、もう離せなくなりました。

 今日は、年末にありがたいオフです。いろいろとしなければならないことが山積みです。


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いい香り‼

いい香り‼
いざコーヒーをいれる時は笑顔が消えて真剣勝負‼でした。

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いよいよコピルアックが。

いよいよコピルアックが。
焙煎人さまが笑顔で入れて下さいます。

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宮崎シェフのお料理とコピルアックをいただく会

宮崎シェフのお料理とコピルアックをいただく会
今からはじまります。

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私が惚れた男②眞野豊さんの教育実践

 12月16日のブログで書いた、眞野豊さんの講演について。私の感想も交えてお話しします。

『セクシャル・マイノリティをめぐる学校教育の現状と課題―公立学校でゲイとしてカミングアウトして行ってきた教育実践の報告―』は

1.私のライフストーリー
  ・同性愛への気づきとともに現れるクローゼット
  ・ゲイ・スタディとの出会い
2.子ども達や同僚とどのように関わっているのか
3.学習指導要領や教科書にみるセクシャル・マイノリティの取り扱い
4.教育実践
  ・帰りの会の時間を使った講座
  ・道徳の研究授業
5.校内研修の実施
6.セクシャル・マイノリティの子どもの現実
  ・同性愛の子どもが直面する5つの困難
7.Aさんとの出会い
8.変わる子どもと学校
9.糸島市の取り組み

というレジュメに沿って行われました。

 同性愛の人は約4%であると言われます。ということは、一つの教室の中に一人はいるという可能性があります。眞野さんの実践には、常に「今ここに当事者の子がいるかもしれない」ということが根底にあります。これは、人権教育の中でももっとも大切なことですね。

 同性愛の子どもは、その気づきと共に数々の困難にさらされます。自己受容の困難(社会は異性愛中心できずかれています)・自己開示の困難(ほんとうに自分をかくすことで身を守ろうとするあまり、友だちとの関係構築がうまく行かず孤立しやすい)・自己イメージの困難(ロールモデルに出会えない、将来をイメージすることが困難)・事故回避の困難(いじめなどからの回避)・情報アクセスの困難等々。

 社会には、お笑いのテレビ番組をはじめとして同性愛を笑いの対象としたり、指導要領に基づいた教科書の中でも「思春期になると異性に興味が出てきます」などと、異性愛が当然のように語られます。その中で、同性に興味があるということが自分の中ではっきりした時点でこのような困難が待ち受けています。

 それらの困難で彼自身がどのようにしんどかったか、そして高校2年の時、初めてチャイルドラインのNHKの特別番組でそれを話したことをきっかけに、自己受容し始めたこと。それらが幼児期・小学校・中学校・高校時代、そして大学・大学院・そして教師となった今、様々なエビソートと共に、たんたんと語られました。

 まだ彼が学校でカミングアウトしていないある日、彼が講師として語ったある会のことが実名で地元の新聞とウエブ版にも出、それを見つけた生徒がそれをプリントして、学校に持ってきてアッという間に生徒に広がったのだと。そして、彼は校長先生に呼ばれました。「これは本当ですか?」と尋ねられたそうです。その時彼は「はい、そうです。でも、私が教科を教えることに何の問題もありません。」と答えたと。

 生徒たちにも「そうですよ」と自然に答えて来ました。そんなある日、ある教師が「同性愛は気持ち悪い」と言ったと生徒が彼に言って来たのだそうです。先生、そんなことを言われて、どうするの?と。彼は、「私はいいですよ。でも、大切なのは、その先生がそんなことを言って、当時者がここにもいるかもしれないではないですか。それを当事者が聴いたら、どう傷つくかということを考えたら、つらいです。」と、涙ながらに語ったと。生徒たちはそれをすっと受け入れてくれたと。「先生、頑張って」「先生の味方だよ」とか、「応援しています」などと生徒が言ってくれたと。

 そして、彼はその先生の所に行き、その事実を尋ね、お話ししたと。大切なのは、生徒にも先生にも、毅然とした態度で語ること。そんな実践の積み重ねです。今彼は道徳の研究授業にも取り組みました。行政の取り組みも徐々に行われつつあります。

Photo 彼は、絵も描くし、生け花もするし、趣味も豊富です。

 まだまだ彼の話はここでは語りつくせません。人権教育が後退している今日、彼のような人権教育の実践はとても貴重です。一人ひとりが大切にされる教育が広まりますように。

 いつかまた、もっと多くの人に彼の話を聞いてもらうべく、場の設定をしたいと思います。

  写真は後の懇親会で。本当はもっとイケメンなのですが、そして、なぜか髪が飛んでいるのですが・・・。


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私が惚れた男③美川憲一ディナーショー

 まだなんだか熱にうなされたようで眠れないでいます。思い切って起き上がってパソコンに向かいました。昨日のこれ、よかったあ!!

Dscn3680_960x1280 実物は撮影禁止なので、チラシの写真です。それも、折れ曲がっていてすみません。

 なぜ一番前の真ん中の席だったのか、ですね。

 それは、今年の六月、憲ちゃんとコロッケのコラボのコンサートに行った時。司会の人が、「広島での今年のディナーショーが決まったんですよね」とぽろっと言っちゃって、でもすぐにあら、まだ言っちゃダメなのですかと、取り消すように言ったのです。

 さあ、それを聞いたからにはもう大変。次の日に広島市内のホテルに次々と電話しました。でも、どこもそんな予定はないと言われます。そこで、美川憲一ファンクラブに入っている姉がファンクラブに電話して、その情報を尋ねたのですね。ホテルの名前を教えて、と。そして、どうもここらしいとつかんだそのホテルに今度は私が電話しました。そしたら、担当の人が、そんなことはないと言うのですね。でも、憲ちゃんがコンサートで言ったんです。ファンクラブでも確かめたんです、と粘りましたね。そしたら、「まだ全然正式になったわけではありませんが」と少しだけ態度が軟化して。

 そこで、さらに粘ります。「私は、美川さんのディナーショーはこれまで欠かしたことはないのです。広島でやらない時には、大阪まで行ったのです。昨年はなかったので残念だったのですが、今年はやると聞いたので。正式になったら、ぜひ教えて戴きたいのです。」

 こんな時には、とにかく熱意をもって訴えるのですね。大阪のヒルトンの時にも、妹が「広島から行きます。広島ではいつも前の席に座っていたのです。後ろの方ではいやなのです」と、全然知らない人にですが、綿々と訴えたら、一番前の席をくださったのです。

 今回は何しろ半年も前から、たぶん一番先に予約の予約をしたのですから。そんな努力の結果、とてもいい席を下さったのでしょう。うれしくて。

 さて、美川憲一ディナーショー!!ほんとうに素敵でした。歌がとにかく素敵。衣装も、衣装が変わる度に替わる指輪もサイコー。顔もかわいいし、トークは優しいし、というか性格が優しいのですね。それは、産みの母と育ての母の二人をちゃんと一緒に住んで介護して見送ったという、その体験からも来ているのでしょう。

 この人の歌を聴いていると、胸がキュンキュンします。

 私は握手を二回もしてもらって。今もまだその匂いが手に残っています。それを嗅ぎながらこれを書いています。いつもは香水の匂いなのだけれど、今回は、和服(それも人間国宝の人の染めといっていました)で会場を回ったので、和式のお香というか、白粉の匂いです。

Dscn3682_1280x960 Dscn3683_1280x960 ディナーの写真です。写真を撮ってもいいですかには、にこやかに、どうぞしっかり撮ってくださいませ、でした。オードブル盛り合わせ。ハート型の器に入っているのは、フォアグラのムースでした。スープは、ハマグリと野菜のクリームスープチャウダーです。

Dscn3684_1280x960 Dscn3685_1280x960 牛フィレ肉のステーキ香味野菜入り赤ワインソース。デザートはアプリコットのムースとチェリーとブルーチーズのタルト ガトーショコラの三種盛り。これにコーヒーとホテルメイドのパンでした。

 ホテルはグランビア。真ん前にシェラトンホテルができて大変でしょう。頑張って、と言いたいですね。社員の方たちの態度もとってもよくって、親切で明るくって、気持ちよく過ごすことができました。

 ああ、楽しみだったことがまた一つ終わりました。今日は、昨日のかわりに韓国語の今年最後の授業です。宿題がまだ残っています。


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今からです。

今からです。
何と席は一番前の真ん中です。
これには、涙ぐましい努力がありました。
それは、また改めて。

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選挙の結果!!

 選挙結果、これまでの報道以上で・・・。これも国民の選択です。しかし、こうなってみて、あらためて民主党への怒りがわいてきます。せっかく大量当選で政権交代したのに、一体この間何をしてくれたのでしょうか。いろいろと期待して一票を入れたのに。

 震災で大変なのに、どうして消費税増税をしなければならなかったのでしょうか。震災で大変だからこそ、増税が必要なのだという論は、あの被災地のための予算が全く別の所で使われていたという、この現実をみてもいい加減なものだということがわかります。私たちは、大変な事態なのだから、被災地のためにお金が使われても我慢できるのです。

 なぜ野田さんは、あれだけムキになって党を割ってでも消費税増税をしなければならなかったのでしょう。まるで、増税したくてたまらなかった自民党のためにしたみたい。あの中にどっぷりつかっていると、他が見えなくなるのでしょうか。きっと官僚が強力に説得をしたのでしょうが。

 他の公約を放り出してしまったこと。出来もしない公約を並べて、という批判は当たりません。公約については、焦ることなく、徐々に進んでいけば許せるものを。途中で政権がまた交代したら、なんにもならないではありませんか。

 今になって野田さんが代表を辞任したってなんにもなりませんね。もう総理ではないのですから。

 世論は原発は徐々にゼロを支持しているみたいだけれど、もうこれで原発も復活するのでしょう。上関も?安倍さんが総理になると復活するからと、電力会社や推進派が待ち焦がれていたと言われます。

 再々言っているけれど、何が心配って私は原発と同時に教育が心配で。安倍さんは、「日教組が教育を悪くした」とばかり言っています。でも、私は教育は教師がどれだけ子どもや生徒の方を向いているかによると思っています。組合員の先生が生徒の方を向いていないとは言えませんよ。むしろ、教育委員会や文科省の方ばかり向いている教師には、生徒の姿が見えていません。

 それに、自民党だけでなく、私が写真を撮った歩道を延々と占拠し、歩行者に車道を歩かせて、くだらない演説をしていた人まで比例で復活当選したということに、本当にがっかりです。

 まあ、ここであれこれ言っても何にもなりません。すっかり政治嫌いになってしまった私は、これからも地道に、コツコツと生きて行きましょう。政治に背を向けても、生きるすべはあるでしょうから。

 今日は、昨日の続きを書くつもりだったのですが、あんまりがっかりしたので、番外編ですみません。

Dscn3678_1280x960 性教協広島の例会、真野さんの講座の後、みんなで行ったのは中の棚に新しくできた韓河HANA。小町にあるお店の支店ですね。サムギョプサルと大きな看板が出ていました。

 サムギョプサルだけでなく、あらゆる料理が食べ放題、飲み放題のコース。まあ、よく食べました。チヂミ、チャプチェ、トッポッキ、海老の生春巻き、ホルモン煮込み、軟骨から揚げ・・・。デザートも。写真に写っているサムギョプサルは、鉄板がななめになっています。一番上にニンニクと青唐辛子、そして豚三枚肉、一番下にキムチを置いて焼きます。鉄板の向こうには豚肉から出る油受けがあります。焼いたそれらを野菜で巻いて味噌をつけて食べます。私、韓国料理は数々食べていますが、キムチ鍋ではじめに炒めることはあっても、キムチを焼くというのは初めてです。おいしかったですよー。話しも弾んで、楽しいひと時でした。

 昨日は沢山キムチを作りました。今日は夜は美川憲一ディナーショーです!!


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一休み。

一休み。

李先生の指導でトックを作って食べています。

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キムチを作っています。

キムチを作っています。
李先生の指導で、恒例のキムチ作りです。
投票には行って来ましたよ。

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同じお題で「2013年の野望」・惚れた男②

 今日の私のブログは、少々複雑です。「同じお題でブログを書こう!」の日です。そのお題が「2013年の野望」なのですね。

 しかも、「惚れた男」についても書かなければならないし。そして、今日は選挙もあるし。

 さらに大切なこと。私は、書かなければと思いながら、結局当日まで書かなかったという、大変な失敗をしてしまった「性教協広島」の例会が昨日あって、それは素晴らしい講義を聞いたのです。その報告もあるし。さて、書くべきことが一杯でどうしましょう!!

 まず、同じお題。もう、この年になると、人生の締めくくりに向かってこれからどうしようかと考えているので、「野望」なんて持てません。それは、若い人にお任せしましょう。

 選挙。とても憂鬱です。おそらく、自民党が大勝するのでしょう。せめて比例で少しでも議席が取れるように、一票を入れに行きますが。昨日、私が支持する人に出会いました。そして、握手しながら彼が言ったこと。「世の中、悪くなってるねえ。どうしてこんな時に自民が支持されるんだろう」と。

 そのあとの性教協の例会と、その後の懇親会でも話しが出ましたが。きっとまた性教育の世界でも、あの安倍氏の悪夢の時代に戻るのでしょう。安倍氏が前総理だった時に「教育の改革を行ってきました。これからもさらに」と言っているのを聞くと、本当にぞっとします。一人ひとりが大切にされる社会でなく、例えば「男は男らしく。女は女らしく」という、ステレオタイプ的な人になるようにという教育が復活するのでしょう。「愛国心を持つように」という教育の強化と憲法が改定される恐れもあるし。近隣の国々との緊張が高まって行くことでしょう。それは、アジアの国々の人々への差別意識を増強させかねません。

 2013年はそんな社会が想像されますが、それでも、私はコツコツと続けるしかないでしょう。少しでも性教育について理解をもとめながら。要請がある限り、子どもたちに語り続けるしかないでしょう。それは、とても困難を伴って、「野望」に近いかもしれません。

Dscn3674_1280x960  昨日の例会は「セクシャル・マイノリティをめぐる学校教育の現状と課題ー公立学校でゲイとしてカミングアウトして行ってきた教育実践の報告ー」で、福岡から真野豊さんが来て下さいました。15人の定員の部屋に20人を超える人が来て下さって。それもこれから教師になるという大学生たちも来て下さって、とてもうれしいことでした。

 その内容について、また改めて詳しく書きますね。私の中でもう少し整理が必要です。本当は彼が語った下さったことの全部お伝えしたいのですが。

 今日は、彼が昨日配って下さった資料から、「チャイルドライン10周年誌へむけて」という彼の寄稿文の一部をご紹介しますね。

『今、私は中学校の教員として子どもと向き合っています。教壇ではありのままの自分を語り、子どもたちにも正直に生きることの大切さを教えています。学校では自分がゲイであることも正直に話しています。ゲイであることを隠すことは、教室の中にいるかもしれないセクシャルマイノリティの子どもを否定することになるし、セクシャルマイノリティの存在について、生徒が「学ぶ機会」を奪うことにつながると考えるからです。

 学校でありのままの自分を語り、性や人権の尊さについて教えている私ですが、子どもの頃の私は今とは全く違っていました。子どものころの私は自分を隠し、一目を避けることに全神経を集中させる日々をおくっていました。思春期をむかえた頃、私が持った「秘密」は、もう自分の一人では抱え切れないくらい、巨大に膨らんでいました。子どもの頃の私にとって、生きることは「耐える」ことでした。人生とは、苦しみに耐えることであり、この苦しみが早く終わること。つらい人生が終焉を迎えることをのみをひたすら祈っていました。あの頃、私は生きているようで、でも本当は生きていないのと同じでした。』

 そんな苦しみを乗り越えた彼は、誠実な人柄で、子どもたちから絶大なる信頼を受けています。タンタンと肩肘張らず、自分の実践を積み重ねた来たことは、私の大いなる反省ともつながります。粘り強くあらねば。

 お分かりでしょうか。私の惚れた男②はまさに、真野豊さんその人です。素晴らしい講演を聞いて、今、私は感動と熱い思いで胸が一杯になっています。



 


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私が惚れた男①

 もう、ずっと前今月の1日、そう、⑦パパ・ナナママ主催の「偽レブの会」。古い話ですみません。でも、ずっと温めておりました。そこでクイズがいくつかあって。私の観音高校時代の部活は何だったでしょう?とか。

 その中に「呉のメバル師の職業は漁師である」というのがありました。私は、「はいっ○」で答えは×でした。私は、本業が漁師さんだとばかり思っていたのですもの。だから、車屋さんだと知って、びっくりしました。

 改めて見るとブログの一番上に「自営業です スズキ ホンダ トヨタ 各新車の 個人販売店をしております。」と書いてありました!!まあ、それはそれまで目に留まりませんでしたわ。

 私は、メバル師さんのブログが大好きで。写真が素晴らしくて。特に、瀬戸内の写真、そして鳥の写真が。もちろん、私だけでなく、どなたでも好きでしょうが。時々、胸を打って忘れられない写真があります。写真が優しくて。きっと性格もそうなのでしょう。

ぜひここをクリックしてください。これが忘れられなくって。まだ心に残っているのが何枚もあるのですが。そして、リンクフリーとなっているので、よほどこの写真を私のブログでご紹介したい何て思ったのですが。そんな失礼なことをしてはいけないと思い留まりました。

その替わりに。えへへ、こんな写真を!!私のお宝写真がまた一枚増えました。

Dscn3487_1280x960 心配なのは、ラーメンの写真。いえ、写真はいつもとてもおいしそうなのですが。こんなにいつもラーメンを食べてらっして、それに度々ご飯を残り汁に入れて食べてて。ラーメンのお汁にはカロリーと塩分がいっぱいなのではないかしら。
 血圧は高くないのかしら。確か、以前結構大きな病気をされて、心配だったことがあったように思うのだけれど・・・。記憶違いだったかしら。そんなことを聞きたいと思ったのですが、いざお会いするとなんにも聞けませんでした。写真を撮ってくださいとだけ言うのが精いっぱいで。

 どうぞ、お体を大切に。そしていつまでも素敵な写真で楽しませてくださいませ。

 かってに写真をアップしたこと、お許し下さいませ。明日も惚れた男性について書きますね。
 


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吉田でひまちゃんと講演と。

 お風呂から帰って、うとうとと寝始めた時に電話が鳴りました。午前三時前。妊娠している患者さんが出血すると。クリニックに行ってお薬を出しました。帰って寝ようとすると、もう眠れません。寒さで頭が冷えてしまって。

 で、こんなとんでもない時間にパソコンを開きました。

 昨日は、安芸高田市、吉田での講演でした。高速を走っていると、だんだんと両側に雪が残っていて、外気温0度を指しました。

Dscn3668_1280x960 高速を降りてすぐの景色はこうでした。これはこれは。講演がもう二日前だったら、とてもノーマルタイヤの車では行けない所でした。

 講演の前にひまちゃんちに行きました。もうはるめさんが来て、鶏のから揚げを作っていました。私は、その前の夜、シェラトンホテルでそこの特製のパンをあれこれ買っていたので、それとケーキと柿やミカンやジュースを持って行きました。

 三人で、お昼ご飯です。主婦業ベテラン、最近ヘルパー二級を取ったばかりのはるめさんは、テキパキ。さすがです。三人で話をしながら、楽しく食事をしました。ひまちゃんは元気です。

 そして、講演会場へ。

Dscn3665_1280x960 安芸高田市人権大学講座の一環です。百人を越える人で会場は一杯でした。写真は、講演を始める前、私が撮ったものです。

 いつも私の講演は女性が多いのですが、今回は男性もたくさんで、うれしかったです。

 私の講演のタイトルは「女性と人権~ライフサイクルから考える男と女~」というものでした。事前にお渡した講演の配布資料とスライドを見ながら、二時間、立ちっぱなしでお話ししました。私の今年の講演の最終の〆として、それなりにお話しできたと思います。

 安芸高田市には、今年は二回講演に行くことができました。関係者の皆様お世話になり、ありがとうございました。

Dscn3669_1280x960 帰りははるめさんの本やさんに行って本を一冊買い、道の駅に行って、お野菜や海苔の天ぷらの大きな袋や、ゆずののど飴を買って帰りましたよ。

 眠れないでいると、頭が痛くなります。これから、こたつに潜って見ましょう。少しでも眠れますように・・・。


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子宮頸がんの予防ワクチンについて。

 昨日の選挙カーのことに続いて、ちょっと。今、一斉に選挙のハガキが届きます。なんと、我が家に10年も前に亡くなった父宛に自民党の候補者からのハガキが届きました。同じく姉の家や妹の家にも、亡くなっている連れ合い宛てに同じ候補者のハガキが届きました。姉の家には、推薦人としての県議の名前で。この方は義兄のお葬式にも来られた方です。妹は、前の選挙の時に、「もう亡くなっていますので、名簿から削除して下さい」と電話したのだと。それでも、まったく無視ですね。すでに亡くなっている人への郵便物は、気分がいいものではありません。全く、いい加減ですね。

 今日は木曜の休診日。安芸高田市吉田で講演です。久しぶりにひまちゃんに会えます。今日は、ライフサイクルに応じて、特に忘れられがちな高齢女性の人権に焦点を当てて、お話をする予定です。

 お天気が少し緩んでいるので、車で行くのも大丈夫そうです。これが、私の今年最後の講演になります。後は、研修会に参加したり、美川憲一のディナーショーに行ったり、劇団四季のキャッツの公演を見たりと、楽しみなことがいろいろとある予定です。アッ、大切なこと。まだ年賀状を作っていません。これが大仕事なのですね。それと、大掃除も・・・。やれやれです。

 今日は、講演の中でも触れることがあるのですが、診療の中で気になることが度々ありますので、子宮頸がんの予防ワクチンについて少しお話をしますね。

 私のクリニックで子宮頸がんの検診をした、45才以下の人には、必ず子宮頸がん予防ワクチンのことを書いたプリントを二枚お渡しします。

 渡したプリントを見た多くの方が「はい、娘のですね」とか、「ええっ、これは若い人用のでしょ?」とか、「私の年でうってもいいのですか?」「私、処女ではないですよ」とか言われます。

 どうも、子宮頸がんの予防ワクチンは、性交の経験のない少女たちだけにうつものと思われているようです。

 それは、国の方針として、若い人たちには「国と行政が半分ずつお金を出して、無料でうちますよ」というだけのこと。年齢的には「45才ごろまでに接種することが推奨されます」と、プリントにも書いてあります。ただ、有料であるということだけ。少女には無料。それより年上の方には有料ではあるけれど、それで注射の効果がなくなるというものではありません。うつ意味は大いにあるのですね。

 それから、子宮頸がんの検診で引っかかったことがある人、ウイルスにすでに感染している人、この方たちもうつ意味があります。もうこれ以上、ウィルスが入ってこないようにブロックしてくれる意味があるからです。繰り返しウィルスが入ることによって、がんになるわけで。もし、パートナがウィルスを持っていると、彼との性交がある限り、ウィルスも入り続けるわけです。そして、彼ではなく、その彼女が子宮頸がんになるわけですね。

 それから、だいぶ減ってはいるのですが、子宮頸がんのワクチンを意図的にうたせないようにしようという、政治的意図を持っている人たちの情報を見て、不安を持つ方もあります。その方たちには、いかにその情報が間違っているのかを丁寧にお話しすることで、理解してもらいます。せっかく癌の予防ができるのに、間違った情報で、無料でうてる年齢の御嬢さんに接種しない人もいるというのは、とても残念です。

 最近、子宮頸がんで亡くなった方の報道があって、胸が詰まりました。ワクチンと検診との両輪ががちゃんと機能するようになれば、子宮頸がんで亡くなる人はいなくなるでしょう。もっとこのワクチンについての理解が深まりますように。

Dscn3664_1280x960 昨日の忘年会。シェラトンホテルの6階のバイキングレストランでは、シェフがパスタを一人分ずつ作ってくれます。昨日は、海鮮パスタでした。大きな車のタイヤのようなイタリアのチーズ、それを削って作って下さいます。先日行った時には削ってその穴が深くなっていて、その中にパスタを入れて、熱でチーズをとかしながら混ぜて作って下さいました。その時にシェフの方が説明して下さいました。イタリアのその地方の御嬢さんが結婚する時に、このチーズを持たせるのだと。困った時には、これを売ってお金にするように、と。昨日のチーズはまだ新しくて穴が深くなくって、削って作って下さいました。とってもおいしいパスタでした。でも、こればかり食べると、ほかの物が食べられませんので「半分にしてください」とか言わなければなりません。


 
 


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今日はクリニックの忘年会

今日はクリニックの忘年会
シェラトンホテルに来ています。

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選挙カーの横暴。

 選挙選らしいけど、というくらい、選挙カーにも候補者の演説にも出会いません。唯一、9日の日曜日の午後、紙屋町で。日曜の午後と言うと、歩行者がいっぱいの所です。

Rscn3650_1280x960Rscn3645_1024x768 乗用車がこの場所では珍しく、歩道に乗り上げています。旗を持った人が歩道に散らばっているので、歩行者は車道を降りて歩いています。顔を潰しているのは、歩行者です。

 乗用車は場所どりでした。この後、選挙カーと随伴の乗用車の二台が来て、やはり歩道に乗り上げます。

 そして、車から少し離れた歩道を一杯つぶして演説が始まりました。トップバッターは、中区の「みんなの党」だと名乗りました。私は演説を聞いていたのですが、その内容のあまりのお粗末さに、うんざりしてそごうに買い物に行きました。なんと、買い物から帰った時、やっと演説が終わって、撤収する所でした。30分以上、歩道を占拠していたことになります。

Dscn3643_1280x960Rscn3646_1024x768候補者らしき人がタスキをかけて演説している写真もあるのですが、選挙妨害だといちゃもんをつけられるといやなので、アップしないでおきます。

 延々と歩行者の妨害をしても平気。

選挙は確かに、最優先されてもいいほど大切ですが、歩行者というもっとも弱者の妨害。その無神経さ、横柄さがホント、いやです。




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遊布戀さんの作品。

 一昨日の日曜日、白木の雪の中の「紙風船」で買った遊布戀さんの作品を早速クリニックに飾りました。どんな物を連れて帰ったか、披露しますね。

Dscn3654_1280x960_2 Dscn3655_1280x960 まず、何よりもこの「下げ物」。丁寧に手作りされた小さな子どもや赤ちゃんがかわいいし、古布、絹の光沢が美しくて。

 一目ぼれして、これは、やっぱり私が連れて帰らなければ、と思いました。今、クリニックではなく、孫に送ろうか、とも考えています。

 それと、さっそく飾ったのは、やはりクリスマスツリー。黒のビロードで作られています。飾りの一つ一つもかわいい!!振るとチリチリと鐘のいい音がします。

 お正月用のリースは、クリスマスが済んだら、ツリーと入れ替えます。

Dscn3661_1280x960 Dscn3653_1280x960 本物の京都の舞子さんのかんざし、パールがたくさん使われていて、大変豪華です。

 リースの左下に置いている小さな赤いのは、赤ちゃんのバッチです。白衣の襟につけました。

 着物地の手袋は、私の手ではなく、若いナースに「テタレ」をしてもらいました。折り曲げ方を変えることで、いろいろな表情になります。右手の裏には、桐の紋がついています。右と左を替えることで、紋が見えるようにも、見えないようにもなります。

Dscn3658_1280x960  こんなに手の込んだものばかりなのに、これではいけないでしょう!!というほど、お安くお値段をつけられていて、遊布戀さんに申し訳ない気持ちです。

 遊布戀さん、ありがとうこざいました。これから長く楽しませて戴きます。お疲れが出ませんように・・・。

 昨夜は、全身癌に侵されて、ドクターからはホスピスに行くようにと言われているという後輩が、広島に出て来るというので、急遽集まることができる者が集まりました。中には、福岡から駆けつけた人も。癌の彼が一生懸命にしゃべるので、座が暗くなることもなく、楽しく過ごしました。昔やった演劇の話。やっぱりこういう時は、失敗したことが楽しく語られるのですね。何十年経ってもみんな忘れないでいます。

 選挙運動の写真、明日にしますね。選挙妨害にならないようにしなければいけませんので、慎重に考えています。
(遊布戀さんの字間違えてしまいました。ごめんなさい)


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急に観音高校演劇部O.B.会です。

急に観音高校演劇部O.B.会です。
何十年ぶりに会う人も。

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忙しい一日。

 昨日は、忙しくしました。

Dscn3628_1280x960 海を見ながらの合宿。時に海面が見えないほどの雪でした。来年の「平和の夕べ」の大体の骨格が決まりました。私にはまだ大仕事の宿題が出されました。

 講演をお願いする方にお手紙を書かなければなりません。

 さあ、頑張らなければ!!

合宿を終えて、家にいったん帰って、それから白木へ。そう、「遊布戀さん」の「紙風船」での最後の発表会です。紙風船。この12月で閉じられると。

___1280x956 近づくと、屋根にサンタさんが。もう、これだけでワクワクです。

 入口で、はるめさんにバッタリ。吉田の雪はどんな?と尋ねると、ノーマルのタイヤでは無理、と。私はまだタイヤを変えていません。

 ここから吉田のひまちゃん家に行くつもりだったのです。

 一週間前の⑦パパの「偽レブ」の会で託ったひまちゃんへのプレゼント。音♪さんが作ったひまちゃんのバッグも。今までもって行くことができませんでした。今日こそは、と思っていたのですが。困った雪です。

 その場ではるめさんにことづけました。はるめさんは、吉田に帰ると、すぐにひまちゃんの家に持って行って下さったと。ああ、よかった!!私は、13日にはひまちゃんの家に行きます。ひまちゃん、皆様、今まで届けることができなかったこと、ごめんなさい。

 紙風船も、遊布戀さんの展示も素晴らしかったです。私が戴いて帰ったもの、まだ写真を撮っていません。また改めてご報告しますね。クリニックに飾ろうと思いますので・・・。

 またまた一旦家に帰って、クリニックへ。今度の講演のためのスライド作りと、配布のための送付をして。それから、戴きもののお礼状を椿の花を入れて作って、はがきに印刷しました。

 これらを全部済ませて、夜は身内の誕生日祝いの食事会です。若い人たちや子どもたちとの食事は楽しいし、おいしいです。

 そのあとは、恒例「やまとの湯」。忙しい一日は終わったけれど、今日の韓国語の宿題ができていません。今日の昼時間が勝負です。

 昨日目撃した選挙運動。いけません!!写真と共に、明日ご報告します。



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ヒロシマ・アキバ塾から 「平和宣言」⑧「平和への誓い」

 昨夜のさくら会です。

Dscn3606_1280x960Dscn3609_1280x960 その後、遅目に合宿に着たら、すでに男性たちが食事を作ってくれていました。

 なんと素晴らしい。手の込んだ食事の手作りです。

このままお泊りなので、私もビールを飲みながら、食べながら、話しあいです。
Dscn3614_1280x960 Dscn3615_1280x960
左下の牡蠣は、近くの牡蠣屋さんに行って「規格外」のを安く分けて戴いたのだと。カナッペはきれいに並べられています。写真に写っていませんが、ねぎときのこの炒め物も作ってありました。

 デザートのブドウは、津軽産の「スチューベン」。これは、ニューヨーク生まれ。デラウェアほどの大きさの真っ黒でとっても甘いブドウです。それも、冬の青森での収穫という、珍しいもの。初めて戴きました。その甘さにびっくりです。食後の片づけも、みんなできれーいに!!私はとても楽でした。ありがたいことです。

 さて、子どもたちの「平和への誓い」です。秋葉さんにとって二度目の式典の時。子どもたちの誓いを平和公園で聞いて、びっくりしたのだそうです。それの最後の方だけ転載しますね。

『私たちは、被爆した人々の平和への熱い思いを胸に刻み、新しい時代に生きる広島の子どもとして、世界の人々と手と手を取り合い、伝え合い、21世紀に向け、平和の架け橋となるよう努力することを誓います。

 世界のみなさん、平和を築くため、できることから始めましょう。

 We all long for world peace.
 We hope we can work towards it together.

            平成12年(2000年) 8月6日

             子ども代表
               広島市立上温品小学校6年 岡田佳那子
               広島市立長束小学校6年   横田  翔  』

 そう、最後に英語が入ったのですね。英語を入れたいと思っていた秋葉さんは、子どもたちがさっさと実行したことに本当にびっくりしたと言われました。

それから、これは秋葉さんの講義にはありませんでしたが、私が平和公園で聞いていて、背筋がゾクゾクとした平和への誓いです。一度、ブログに乗せたことはあるのですが。そして、今年の性教協の全国大会での発表の真っ先にお話ししたものでもあるのですが。転載しますね。

『   平和への誓い

人は、たくさんの困難を乗り越えてこの世に生まれてきます。
お母さんが赤ちゃんを生もうとがんばり、赤ちゃんも生まれようとがんばる。
新しい命が生まれ、未来につながっていきます。それは「命の奇跡」です。
しかし、命は一度失われると戻ってきません。戦争は、原子爆弾は、尊い命を一瞬のうちに奪い、命のつながりをたち切ってしまうのです。

昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。
それは人類が初めて戦争による被爆者をつくりだした時間であり、
世界が核兵器について真剣に考え始めなければならなくなった時間です。

あの日、原子爆弾は、広島の街を一瞬にして飲み込みました。
建物は破壊され、多くの人々が下敷きになりました。人々の皮膚は、ボロ布のように垂れ下がり、「助けて」、「水をください」と何度も言いながら、亡くなっていったのです。それは、人間が人間らしい最後を迎えられなかった残酷な光景でした。
多くの夢や希望を一瞬にして吹き飛ばされたされた人たちの悲しい、「闇」の世界でした。

世界の国々では、今も、紛争や、暴力によりたくさんの命が奪われています。僕たちのような子どもが一番の犠牲となり、体に傷を負うだけでなく、家族を失い心に大きな傷を負っています。日本でもまだ多くの人たちが原爆の被害で苦しんでいます。入退院を繰り返す被爆二世の人もいます。だから、まだ戦争は終わったとは言えません。

これから先、世界が平和になるために、私たちができることは何でしょうか。
それは、原爆や戦争、世界の国々や歴史について学ぶこと、
けんかやいじめを見過ごさないこと、
大好きな絵や音楽やいろいろな国の言葉で、世界の人たちに思いを伝えること。
今の私たちにできることは、小さないっぽかもしれません。

けれど、私たちは、決してあきらめません。
話し合いで争いを解決する、本当の勇気を持つために、
核兵器を放棄する、本当の強さを持つために、
原爆や戦争という「闇」から目をそむけることなく、しっかりと真実を見つめます。
そして、世界人々に、平和への思いを訴え続けることを誓います。

 平成21年(2009年)8月6日

       子ども代表 広島市立矢野小学校6年    矢埜 哲也
               広島市立五日市南小学校6年 遠山 有希   』

これで、今回のアキバ塾の報告を終えます。すでに言いましたが、秋葉さんの講義には出なかった、私がかってに付け加えたことも入っています。この先、きっと「タウンNEWS広島 平和大通り」の工場長さんが動画をアップして下さることと思います。それを見て下さいね。長い間、ありがとうございました。


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さくら会のこれまでのポスター

さくら会のこれまでのポスター
今日のさくら会の入り口に展示してありました。
素晴しい歌を堪能させて戴きました。
その後、来年の「平和の夕べ」のための合宿に来ています。
素晴しい歌から一転、激しい議論が飛びかっています。

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本日「さくら会」です。

本日「さくら会」です。
毎年行われるさくら会。
オペラ歌手・藤田真弓さん主宰の歌の会です。
今年は10周年記念。
素敵な歌が聞けること、楽しみです。

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ヒロシマ・アキバ塾から「平和宣言」⑦「平和への誓い」

 昨夜診療後、歯医者さんで治療して戴きました。先週、突然一本の歯がバラバラと崩れてしまいました。これまでぽっきり折れたりしていた歯とは全然別の、思いもよらなかった一本です。きんかんを食べていて・・・。崩れた外側だけ壁の様に残りました。これが倒れると、外からの見栄えが完全に歯抜けになってしまうので、それをくずさないように、それは気を使いました。

Dscn3603_1280x960 以前から追っかけをしていた先生です。腕の確かさと、それに何より注射が痛くないというのが、40年以上追っかけをしている理由です。その先生の所でこんなものが・・・。わあ、何ですか、それは!!と思わず尋ねて写真を取らせてもらいました。電動の注射器だと。これで、一定量の薬液が細い針先から出てくるので、効き目も早いのだと。フウン!と感心してみていましたが、こんなもの、どこでも使っているよ、と言われました。私は知りませんでした。

 まだ生きていた神経を取って、残っていた壁に内側から埋めて倒れないようにしていただいて、一安心です。年内にもう二回行って、治療中の歯もすべて終了する予定です。ありがたいことです。歯だけは大切にしなさいよ、とこれは歯で苦労していた母から言われて来たことだし、私が子どもたちに言い続けていることでもあります。

平和宣言については、私がこのブログでは語りつくせないほど、秋葉さんに沢山のことを講義していただきました。私がお伝えできるのは、ほんの一部です。

 最後に子どもによる「平和への誓い」について。これは、以前は教育委員会の方たちの指導などもあったようですが、今では完全に子どもたち自身で作るようになっていると。広島中の6年生が作文を書き、そのなかから10~20人が集まり、ディスカッションをし、みんなで書き上げ、さらにその中から実際式典で読む二人が決まっていくと。私は、その陰には先生方のたゆまぬ平和教育があるということを知っています。

 秋葉さんは、式典のその場で初めて子どもたちによる誓いを聞いて「こんな立派な宣言を子どもたちがするのなら、平和宣言なんていらないのではないか」とすら思ったと言われました。

戴いた資料全部を載せたいくらいなのですが・・。秋葉さんが初めて式典の会場で聞いて感動したという、その年のを転載しますね。

      平和への誓い

 今、私たちが目にする広島は、豊かな緑や花に囲まれ、清らかな川が流れる美しい街です。

 54年前のあの日、青い空を巨大なきのこ雲が覆い、灼熱の炎は木も花も焼き尽くし、人々の尊い命や幸せを奪いました。苦しみの中で水を求めて命つきた人々。父を思い、母を思い泣き叫ぶ子どもたち。街は廃墟と化しました。

 その悲しみの中から人々は、復興への夢と希望を持ち、平和への強い願いとともに立ち上がり、この美しい街を築き上げてこられました。

 私たちは、祈るような目で語られるおじいさんやおばあさんの話や、平和記念資料館の見学などから多くのことを学びました。そして、人々が平和で穏やかな暮らしができるようにするために、何をすればよいか考えました。

 世界には今なお紛争が繰り返され環境破壊も進み、飢餓に苦しみ、傷つき幼い命を失っていくたくさんの子供たちがいます。また、私たちの身近にも、暴力をふるったり、友達をいじめ心を傷つけたりする人がいます。

 私たちが今できること。それは、もっと平和について学び、よく話し合い互いに認め合うこと。友達への優しさをもち、小さな一歩でも正しいことを実行する勇気をもつこと。そして、戦争や核兵器の恐ろしさを忘れず、平和の大切さを世界の友達に伝えること。それが、この街に生まれ育った子どもとしての責任だと思います。

 青く輝く私たちの地球。この地球に本当の平和が訪れたとき、宇宙の中で最も美しい星として誇りをもつことができるのです。私たちは、ヒロシマの人々の心を学び、語り継ぎ、一人一人が輝き豊かに生きる社会を造る、世界の友達とともに努力することを誓います。

     
         平成11年(1999年) 8月6日
               こども代表
                 広島市立本川小学校6年   新谷仁美
                 広島市立矢野南小学校6年  住吉竜典

 最後にもう一回だけ、私が今年の性教協の全国大会で発表した「性教育と平和教育・人権教育の連携」で皆さんに発表した「平和への誓い」をお話ししたいと思います。



 


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ヒロシマ・アキバ塾から 「平和宣言」⑥

 昨夜、無事広島に帰ってきました。

Dscn3593_1280x960 Dscn3597_1280x960講演の後に行ったレオマワールド。大分前に閉園したと思っていたのですが、この方のこのブログ を見て、また開園したことを知りました。

 それに、いいろと変遷した様ですが、今の経営者は「大江戸温泉物語」だと。それなら、きっと温泉が充実しているはず。東京の大江戸温泉物語には何回も行っています。レオマワールドで遊ぶ時間はとてもないけれど、お風呂だけならと行ったのです。お風呂だけでも大満足。いつか、しっかり時間を取ってゆっくり行きたい所です。

 さて、昨日お休みしていた「平和宣言」に戻ります。秋葉さんが市長になってはじめての平和宣言。転載しますね。

   

戦争の世紀だった20世紀は、悪魔の武器、核兵器を生み、私たち人類はいまだにその呪縛(じゅばく)から逃れることができません。しかしながら広島・長崎への原爆投下後54年間、私たちは、原爆によって非業の死を遂げられた数十万の皆さんに、そしてすべての戦争の犠牲者に思いを馳(は)せながら、核兵器を廃絶するために闘ってきました。

この闘いの先頭を切ったのは多くの被爆者であり、また自らを被爆者の魂と重ね合わせて生きてきた人々でした。なかんずく、多くの被爆者が世界のために残した足跡を顧みるとき、私たちは感謝の気持ちを表さずにはいられません。

大きな足跡は三つあります。

一つ目は、原爆のもたらした地獄の惨苦や絶望を乗り越えて、人間であり続けた事実です。若い世代の皆さんには、高齢の被爆者の多くが、被爆時には皆さんと同じ年頃だったことを心に留めていただきたいのです。家族も学校も街も一瞬にして消え去り、死屍累々(ししるいるい)たる瓦礫(がれき)の中、生死の間(はざま)をさまよい、死を選んだとしてもだれにも非難できないような状況下にあって、それでも生を選び人間であり続けた意思と勇気を、共に胸に刻みたいと思います。

二つ目は、核兵器の使用を阻止したことです。紛争や戦争の度に、核兵器を使うべしという声が必ず起こります。コソボでもそうでした。しかし、自らの体験を世界に伝え、核兵器の使用が人類の破滅と同義であり、究極の悪であることを訴え続け、二度と過ちを繰り返さぬと誓った被爆者たちの意思の力によって、これまでの間、人類は三度目の愚行を犯さなかったのです。だからこそ私たちの、そして若い世代の皆さんの未来への可能性が残されたのです。

三つ目は、原爆死没者慰霊碑に刻まれ日本国憲法に凝縮された「新しい」世界の考え方を提示し実行してきたことです。復讐(ふくしゅう)や敵対という人類滅亡につながる道ではなく、国家としての日本の過ちのみならず、戦争の過ちを一身に背負って未来を見据え、人類全体の公正と信義に依拠する道を選んだのです。今年5月に開かれたハーグの平和会議で世界の平和を愛する人々が高らかに宣言したように、この考え方こそ21世紀、人類の進むべき道を指し示しています。その趣旨を憲法や法律の形で具現化したすべての国々そして人々に、私たちは心から拍手を送ります。

核兵器を廃絶するために何より大切なのは、被爆者の持ち続けた意思に倣って私たちも、「核兵器を廃絶する」強い意思を持つことです。全世界がこの意思を持てば、いや核保有国の指導者たちだけでもこの意思を持てば、明日にでも核兵器は廃絶できるからです。

強い意思は真実から生まれます。核兵器は人類滅亡を引き起こす絶対悪だという事実です。

意思さえあれば、必ず道は開けます。意思さえあれば、どの道を選んでも核兵器の廃絶に到達できます。逆に、どんなに広い道があっても、一歩を踏み出す意思がなければ、目的地には到達できないのです。特に、若い世代の皆さんにその意思を持ってもらいたいのです。

私たちは改めて日本国政府が、被爆者の果たしてきた役割を正当に評価し援護策を更に充実することを求めます。その上で、すべての施策に優先して核兵器廃絶のための強い意思を持つことを求めます。日本国政府は憲法の前文に則(のっと)って世界各国政府を説得し、世界的な核兵器廃絶への意思を形成しなくてはなりません。地球の未来のために、私たちが人間として果たさなくてはならない最も重要な責務が核兵器廃絶であることをここに宣言し、原爆犠牲者の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げます。

平成11年(1999年)8月6日

 広島市長  秋   

この平和宣言について気づいたことをみんなで話しました。西暦と元号の書き方のこれまでとの違いとか。ですます調になっているとか。いろいろとその理由は聞いたのですが。何よりも私がびっくりしたこと。
それは、この宣言の中にある被爆者が果たした三つの役割について。これを聞いて被爆者が泣いたという話は他から聞いています。

この三つは、1995年、秋葉さんが衆議院議員の時。ノーベル平和賞の受賞者に長崎の本島市長と広島市の平岡市長を推薦し、その推薦理由に書いたことだったと言うことでした。秋葉さんが、これまで被団協を平和賞に推薦し続けてきたということは聞いていましたが、平岡さんの推薦をしたということは、初めて聞きました。自分がいろいろとして来たことは、本当に話さない、自分の宣伝をすることはしないというか、つくづく下手だと思いました。

この項、もう少し、子どもの「平和への誓い」について講義されたことを話しますね。どうぞ、お付き合いくださいませ。


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瀬戸大橋与島から。

瀬戸大橋与島から。
ちょうど夕陽が沈みました。
明るい内の運転は楽です。

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レオマワールドです。

レオマワールドです。
無事講演もすんで、レオマワールドのお風呂に入りに来ました。
山の中の露天風呂がすっごく気持ち良かったです。
今から広島に帰ります。

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「日韓親善協会忘年・会員の夕べ」

 今、丸亀にいます。

 昨夜「日韓親善協会」の忘年の夕べを終えて強風と雨の中、車を飛ばして来ました。特に瀬戸大橋の上はハンドルを取られそうなほどの風でした。12時近くに無事ホテル着。今日は午前中に学校の先生方対象の講演をします。

Dscn3576_1280x960 Dscn3578_1280x960 昨夜の会では、ホテルの料理に加えて、韓国料理が並びました。私の韓国語の李先生が前回の授業の時に「10種類お料理を作るんですよ」と張り切っていらっしゃったのですが。本当においしくって。堪能しました。会には、たくさんの韓国からの留学生が招待されていました。学生さんたちにとって故郷の料理。とても人気があってどっと取り囲んでいました。それをかき分けて写真を撮りました。

 昨年は残ったキムチをたくさんいただいて帰ったのですが、今回は早々に帰らなければならなかったので、あきらめましたよ。

Dscn3581_1280x960 Dscn3582_1280x960会には、 駐広島大韓民国総領事 ・辛亨根(シン・ヒョングン) ご夫妻をはじめとして、釜山韓日親善協会の李鐘均会長も出席して下さっていました。それに、女子ホッケー・コカ・コーラ・ウエストレッドスパークスの監督と三人の韓国人選手のみなさんも。

Dscn3587_1280x960 Dscn3588_1280x960 さて、この会の何よりの人気は、豪華景品の大抽選会です。なんと、今年の一番の目玉はアシアナ航空からのソウル往復航空券とパリ往復航空券でした。

 ソウルの航空券は、ヒロシマ大学に留学している学生さんで丁度よかったですね。パリの航空券は、尾道市から市長の代理で来ている方が見事にゲットでした。

 これは、私たちに当たったもの。いえ、私ではなく、姉に航空券の次の豪華!景品が当たったのです。なんと、三万円の商品券でした。私はマッコリが当たりましたよ。

 韓国と日本の間には、政治的に難しい状況が展開されています。そして、まさに今、韓国も、そして日本も政界のトップが変わるかもという状況になっています。油断すると、さらに厳しい状況になるかもしれません。でも、親善協会のような民間での交流が、両国の間の友好関係をつないで行くこと、その大切さが問われていると思います。

Dscn3589_1280x960 丸亀へは、姉と一緒に来ました。姉はうれしくって何回も
キャーキャーとはしゃいで、その度に二人で笑って、あっと言う間でした。途中一か所だけ休憩した鴻池のパーキング。たくさんのトラックが止まって、たぶん仮眠を取っているのでしょう。そこのトイレはとってもきれいで、かつ「お湯が出ます」と。強風の寒い中、暖かいお湯で手を洗うのは、ありがたいことでした。

 今日は、「平和宣言」はお休みさせて戴きます。また明日か再開しますね。今から朝食、そして講演の練習です。


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日韓親善協会忘年・会員の夕べ

日韓親善協会忘年・会員の夕べ
郷愁を誘う音楽が演奏されています。

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ヒロシマ・アキバ塾から 「平和宣言」⑤

 昨日は、四金会、産婦人科の開業医の会の忘年会でした。

Dscn3563_1280x960 今年もこの先生たちがいらっしてくださいました。87才から90才になられる先生たちです。左端の井槌病院の田中敏晴先生は、今もバスの検診車に乗って、県内あちこちがん検診に回っていらっしゃいます。今日は大竹で、明日は大和町なのだそうです。

 右端の滝井先生は、囲碁の名手です。だれもが先生に挑戦するのですが、勝てたことはありません。皆様ぼけることもなく、大変お元気で、健啖家で良く食べよく話して、楽しく過ごしました。

 特に、戦争を潜り抜けた先生たちのお話しは貴重なものがあります。今回も、いろいろとあの時代、学徒動員で働かされたこと、徴兵検査でどんなことがあったか、文系の学生はみなさん徴兵されて送別会をしたこと、先生たちは理系だったので、徴兵を免れたことなど、このまましゃべりっぱなしにするのはもったいないと思いました。

戦後の産婦人科の状況なども記録とどめておきたいことが一杯あります。左から二番目の小林先生は、今も篆刻で数々の賞も取られています。先生の話が特におもしろくって貴重なので、話しをして、それを本にするようにおす勧めしました。みぎから二番目の正岡先生は、病院は二人の息子さんがしっかり後を継がれていて、もう悠々自適でいらっしゃいます。でも、お話しはまた貴重なものがありました。

 今度、この先生方の「アラベイ」のお祝いの会をしようということになりました。アラフォー・アラカン・そしてアラベイ。米寿あたりの先生たちのお祝いです。四金会でもたくさんの先生方が亡くなってしまいました。それでも、この四人の先生方のお元気な姿がうれしいと思います。

今、始まっている選挙。候補者や党首の話を聞いて、つらく思います。今日の「平和宣言」は、1957年、保守の渡部忠雄市長によるものです。浜井さんに代わって市長に選ばれた人ですが、評判悪く、一期で再び浜井さんが返り咲いたという人です。その極保守の人たちに支持された市長であっても、広島市長は、こんなことを宣言しています。放射能の長期にわたる健康への影響と、遺伝の問題に言及しています。

 なお、これについては、ヒロシマ・アキバ塾での秋葉さんの講義にはありませんでした。私がかってに付け加えています。

   

原爆被災12周年をむかえた今日、われわれ広島市民はあの日の惨害の意味を、より冷静に、また、より適確に評価できる立場におかれている。

原子爆弾の高熱と爆風による瞬時の破壊力は、まさに未曾有のものであって、広島市は人々の想像に絶する廃きょの街と化した。その瓦礫の上に市民のたゆまざる努力により新しい広島市は生まれつつある。しかし被爆生存者の体内には、なお目に見えぬ破壊力が働いているという恐るべき事実が明らかとなった。今日われわれは放射能がひとたび人間の体内に入れば、徐々に身体をむしばむだけでなく、その害悪は遺伝により子々孫々に伝えられることを知っている。本市被爆生存者が年々後遺症のために病死してゆく事実は、遠い将来につづく悲しむべき兆候であると憂えるものである。

しかも世界は既に多かれ少なかれ、この放射能の渦の中に置かれている。現在行われつつある原水爆の実験は、おびただしい放射能を大気中に放出することにより、徐々にではあるが刻々に人類生存の基盤をおびやかしている。

われわれは本日、原爆死没者の払った尊いぎせいを象徴するこの慰霊碑の前に立って、諸霊を弔うにあたり、原水爆の保有と実験を理由づける力による平和が愚かなまぼろしにすぎないことを指摘し、世界の人々がすみやかに真実の平和の道を選んで人類をその最大の危機から救うべきことを訴えると共に、自らもこのために微力を尽くすことをここにおごそかに誓うものである。

1957年(昭和32年)8月6日

広島市長  渡   

次から、いよいよ秋葉さんの平和宣言に入ります。私は今日はとても厳しいスケジュールです。

 


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今日も忘年会。

今日も忘年会。
今日は産婦人科の開業医の忘年会です。
でも、今日はやまとの湯の日なので、お酒は飲みません。

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ヒロシマ・アキバ塾から「平和宣言」④

 アッという間に選挙ですね。今回ほど、いろいろと危機感を持つ選挙はありません。子や孫たちが安心して送れる社会を作るためにも、貴重な一票を使いたいと思います。

 老婆心ながら。比例は「政党名」を書くのですよ、とお伝えしますね。参議院選挙では比例は政党名でも個人名でもよかったけれど、衆議院では、個人名を書くと無効票となってしまいます。あくまでも政党名だけなのですよ!!

 さて、いつまでもですが、今日も「平和宣言」についてです。

1991年(平成3年)は、新しく市長となった平岡敬市長の初めての「平和宣言」です。(余談ですが。私は、平岡さんの当選のために、女性の集会を開いたり、今のマツダで開かれた大きな会の応援演説に行ったりしました。当時、医師会からの候補者がいらっして、それに反する行為で顰蹙をかいました。でも、なぜかその後は平岡さんに嫌われたみたいです)
 
                      平    

8月6日のきょうは、広島市民にとって悲しく、つらい日である。そして、平和への決意を新たにする日であり、世界の人びとに記憶し続けてほしい日である。

46年前のきょう、広島は一発の原子爆弾によって壊滅し、数知れぬ命が失われた。それは人類が初めて体験した核戦争であった。ヒロシマはその体験から、核戦争は人類の破滅につながることを知り、苦しみや憎しみを乗り越えて、絶えず核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現を訴え続けてきた。

人類はきょうまで、かろうじて核戦争は回避してきたが、無謀な核実験の続行や原子力発電所の事故などで、放射線被害が世界の各地に拡がりつつある。もうこれ以上、ヒバクシャを増やしてはならない。

ヒロシマはいま、新たにチェルノブイリ原発事故の被害者らに医療面からの救援を始めたが、ヒバクシャはぼう大な数にのぼっている。ヒロシマは国際的な救援を世界に訴え、その先頭に立ちたいと思う。

先のイラクによるクェート侵攻は決して許されるべきことではない。しかし、湾岸戦争は、多くの死傷者や難民を続出させたうえに、地球の破滅を招きかねない環境破壊をもたらした。私たちは、武力によることなく紛争を解決する道を確立しなければならない。

日本はかつての植民地支配や戦争で、アジア・太平洋地域の人びとに、大きな苦しみと悲しみを与えた。私たちは、そのことを申し訳なく思う。ことしは、太平洋戦争が始まって50年に当たる。私たちは、真珠湾攻撃から広島・長崎への原爆投下に至る、この戦争の惨禍を記憶し続けながら、世界の平和をあらためて考えたい。

平和とは単に戦争のない状態を言うのではない。私たちは、飢餓、貧困、暴力、人権抑圧、難民生活、地球環境破壊など、平和を脅かすあらゆる要因を取り除き、人間が安らかで豊かな生活のできる、平和の実現に努力したい。

世界は冷戦後の新世界秩序の模索を始めている。核軍縮にも大きな進展がみられた。平和への重い扉は少しずつ開き始めた。それを開けるのは私たち一人一人の英知と努力である。

ヒロシマは世界に訴える。

核実験を直ちに全面禁止し、核兵器を一日も早く廃絶しよう。

戦争の空しさと愚かさ、平和の尊さを自覚し、人類の幸せを実現しよう。

ヒロシマの訴えは人類生存への叫びにほかならない。世界の指導者は、この声に耳を傾けてほしい。

私たちは、国際協力のあり方を真剣に考え、世界平和に貢献しなければならない。日本国憲法の平和理念を尊守し、平和の尊さを教える教育を推進しなければならない。国家補償の精神に基づいた被爆者援護法を速やかに実現しなければならない。朝鮮半島や米国など海外在住の被爆者にも、援護の施策を講じなければならない。これらの実現のため、日本政府の一層の努力を求める。

きょう、被爆46周年の平和記念式典を迎え、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の意を表するとともに、平和への不断の努力を市民の皆様とともにお誓いする。

1991年(平成3年)8月6日

広島市長  平 岡  敬

 この年の平和宣言では、原子力発電所の事故などで、「もうこれ以上ヒバクシャを増やしてはならない」と言及しています。そして、アジアの人々への加害の問題にも言及しています。この加害については、1995年の平和宣言までずっと言い続けてきていると秋葉さんが教えて下さいました。核兵器廃絶や、憲法や、平和について、大変力強く宣言しています。広島の市長は、それだけ重い責任があるのであって、「人にはいろいろな考えの人がいるから」などと、言ってはならないのですね。

Dscn3560_1280x960以前、向原の「ひとは」の作業所の喫茶店でシフォンケーキや縄文アイスを食べた時に買った味噌がとってもおいしくて、また買いに行きたいと思い続けていたのですが、なかなか行く機会がありませんでした。そしたら、昨日、本通りの「夢プラザ」にありました。今、夢プラザでは、いろいろな作業所の作品を販売しています。即買いです。ラッキーでした。

 


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ヒロシマ・アキバ塾から「平和宣言」③

 昨日は、一日と言っても6時間、歌を聴き続けました。

Rscn3539_1280x960「秋葉忠利さんの古稀を祝って歌う会」でした。

 この秋葉さんに花束を渡している小学2年生から、米寿の方まで、制服姿の高校生も、車椅子の方も。作詞作曲家から歌唱教室の先生や、カラオケ大会で優勝している人、すでにCDデビューをしている人など、様々な方が秋葉さん夫妻に「おめでとうございます」と歌を一曲ずつ歌いました。

 それはそれは素晴らしい歌の連続で、びっくりしながら聞き惚れました。こんな世界があったんだという驚きの時間でもありました。この会については、たくさんの写真も撮っていますので、またお知らせしますね。

 はい、連載している「平和宣言」です。広島市の8.6.の市長による平和宣言は、世界中で報道されます。その意味で、他の都市の市長とは、まったく異なって重い使命があります。
 1986年の平和宣言では、当時の荒木市長が、チェルノブイリ・人権・国連・軍縮などを訴えています。ここに転載しますね。

   

平和、それはヒロシマの悲願である。

41年前のあの日、ヒロシマは灼熱の閃光と地軸を揺がす轟音とともに壊滅した。この世ならぬ凄惨な生き地獄は、まさに、阿鼻叫喚の巷であった。

その廃墟の中から立ち上がった広島は、再び過ちを繰り返させないために、ひたすら核兵器廃絶と世界の恒久平和を訴え続けてきた。

昨年、8月6日以降、ソ連が核実験を停止し、また、米ソ首脳会談が開催され、核軍縮の前途に曙光を見い出し得たかに思われた。しかし、核軍縮交渉は遅々として進まず、核兵器は質的、量的に増強され、核戦略は宇宙空間にまで拡大されようとしている。

この時起こったソ連のチェルノブイリ原発事故は、人びとを放射能の恐怖に陥れ、安全管理の国際協力に大きな課題を残すとともに、一国の事故が他国にも禍いを及ぼすことを知らしめ、世界は核時代の現実に慄然とした。

加えて、局地戦争やテロ行為も多発し、飢餓、難民、人権抑圧の諸問題もきわめて深刻である。

不幸にして凶弾に倒れた故パルメ・スウェーデン首相は、広島で階段の石に焼きつけられた人影を見て、「核戦争が起こればこの人影すら残らないだろう」と、人類の終末を予見した。

ノーベル平和賞を受賞した「核戦争防止国際医師会議」のメンバーが、本年6月広島を訪れ、被爆の実相に驚愕し、核実験即時停止を強く訴えた。

本日、世界各地でヒロシマ・デーか開催され、メキシコでは、非同盟6ヵ国首脳が相集い、核軍縮を世界に訴える。

いまや、核兵器廃絶と平和を願うヒロシマの声は世界の世論である。

逡巡は許されない。

核保有国は、直ちに核実験を永久に停止すべきである。人類生存の命運を握る米ソ両国は、世界最初の被爆地広島において首脳会談を開催し、核軍縮への具体的な方策を明示すべきである。

国連事務総長は、米ソ両首脳の広島訪問を積極的に働きかけるとともに、第3回軍縮特別総会を速やかに開催すべきである。

日本政府は、これらの実現に努め、憲法の平和理念に基づき、国是である非核三原則を厳守し、核兵器廃絶への先導的役割を果たすべきである。

時恰も国際平和年。

ヒロシマは、ここに、「平和サミット」を開催し、核兵器廃絶と恒久平和実現への国際世論を喚起する。

再びヒロシマは訴える。

いまこそ、世界のすべての都市と都市、市民と市民が、国境を越え、思想、信条の違いを超えて、連帯の輪をひろげ、絆をより強固にすることを。

本日、ここに、平和記念式典を迎えるに当たり、われわれは、原爆犠牲者の御霊(みたま)に哀悼の誠を捧げ、国家補償の理念に立った被爆者援護対策の確立を強く要請するとともに、平和への決意を新たにするものである。

1986年(昭和61年)8月6日

広島市長  荒 木  武


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秋葉さんの古希を祝って歌う会が開かれています。

秋葉さんの古希を祝って歌う会が開かれています。
沢山の方が歌でお祝いをされます。
秋葉さんの挨拶が素晴らしかったので、またご報告をしますね。

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ヒロシマ・アキバ塾から 「平和宣言」②

 昨夜は、ナナパパ主催の偽レブの会。はじまりが20時30分と遅くはありましたが、私は初めて二次会なんぞに行って、カラオケ三昧。本当に楽しく過ごしました。

 帰りは午前二時半。タクシーの中で携帯がピカッとしているのに気付いてみると、何回もズラッと夫からの電話があったと知らせています。あわてて電話をすると、無事なんだね、と。自転車で帰るのに事故にでも巻き込まれたのではないかと、それは心配というか、不安だったようで・・・。恐縮してしまいました。こんなに遅くまで帰らなかったのは、何十年ぶりかなので。途中、連絡を入れるのもすっかり忘れてしまっていました。ゴメンナサイです。

 時間も忘れるほど楽しいイベントを、皆様、とりわけナナパパ、ナナママ、本当にありがとうございました。

 それでは、本題に戻ります。平和宣言です。

 1947に始まった広島市長の平和宣言。

1955年  初めて被爆者の惨状を伝えることができました。
   (1954年第五福竜丸事件が勃発し、杉並区の主婦を初めとして原水爆禁止の声の高まりがありました。1955年に第一回原水爆禁止世界大会が開かれ、56年5月広島県被団協、8月日本被団協が発足しています)

1965年  ベトナム戦争についてふれています。
1971年  平和教育の必要性についてふれています。
1979年  飢餓・貧困について。
1981年  非核三原則について。
1983年  世界平和都市の連帯について。
1985年  平和市長会議第一回総会が開かれたこと。
1986年  チェルノブイリ、人権、国連、軍縮など。
1990年  外国人被爆者について。

1982年、時の荒木武市長による平和宣言を転載します。(難しい漢字が使われていました。)

    平和宣言

燈燈無盡ーーヒロシマの心は、すべての人々に受け継がれ、語り継がれなければならない。

広島のあの日の惨禍は、人類絶滅の不気味な暗雲の到来を告げるものであった。その危機を身を以て体験したヒロシマは、核兵器の廃絶と全面軍縮を世界に訴え続けてきた。

しかし、米・ソを始めとする国家間の対立は牢固として解き難く、核兵器はますます量的拡大と質的高度化の一途を辿り、限定核戦争や先制核攻撃論が台頭し、人類は今、まさに、核戦争の危機に陥ろうとしている。

軍縮と安全保障問題に関する独立委員会のパルメ委員長やペルティーニ・イタリア大統領は、いずれも、ここ広島の地で、原爆被害の過酷さに慄然とし、核戦争に勝者も敗者もあり得ない、と深い憂慮の意を表明した。

今こそ各国政府は、世界各地で澎湃として高まっている核兵器廃絶への熱望を真摯に受け止め、一刻も早く軍縮を促進し、平和への道を急ぐべきときである。
この時開催された第2回国連軍縮特別総会は、遺憾ながら国家間の不信を克服しえず、「包括的軍縮計画」の合意には至らなかった。
しかし、核戦争の防止と核軍縮が最優先課題であるとの第1回軍縮特別総会の決議を再確認するとともに、新たに、軍縮への世論形成を目的とする「世界軍縮キャンペーン」の実施に合意し、さらに、日本政府が提案した広島・長崎への軍縮特別研究員派遣を採択した。
広島市長は、今回の特別総会でヒロシマを証言し、ヒロシマの悲願を訴えた。
今、重ねてここに訴える。
核実験を即時全面的に禁止し、あらゆる核兵器を凍結して、これを廃棄するよう強く求める。
また、ヒロシマと心を同じくする世界の都市が、互いに連帯することを呼びかける。
さらに、核保有国の元首をはじめ各国首脳が広島を訪れ、被爆の実態を確かめること、広島で軍縮のための首脳会議を開催すること、また、広島に平和と軍縮に関する国際的な研究機関を設けることを提唱する。
ヒロシマは、単なる歴史の証人ではない。
ヒロシマは、人類の未来への限りない警鐘である。
人類がヒロシマを忘れるとき、再び過ちを犯し、人類の歴史が終焉することは明らかである。
本日、被爆37年を迎え、犠牲となられた人々を弔うに当たり、今なお、肉体的・精神的に苦しみ続ける原爆被爆者及び遺族への援護が、国家補償の精神に基づいて充実・強化されるよう、わが国政府に求めるとともに、ヒロシマは平和の燈火を絶やすことなく、世界に平和を訴え続けていくことを固く誓うものである。

  1982年(昭和57年)8月6日

              広島市長  荒木武

Dscn3480_1280x960 この冒頭の「燈燈無盡」というのは、ろうそくのような小さな燈が細々とでも、絶えることなく、ずっと続いて行くさまなのだと秋葉さんが教えて下さいました。私は、「澎湃」という漢字が読めませんでした。(私の夫によると、当時荒木市長は、高橋昭博さんと、広島大学の国文学の小林教授と共にこの平和宣言を作っていて、この難しい漢字は小林教授の文章なのだそうです)

この項、まだ続きます。平岡市長の平和宣言、秋葉市長の平和宣言の裏話、それから子供による「平和への誓い」など、お伝えしたいことはたくさんあります。


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二次会です。

二次会です。
ナナパパさんが、ブログに出して出してと言いますので。

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ナナパパの司会でクイズをしています。

ナナパパの司会でクイズをしています。
私はバツゲームでプチコションさんのワサビ入りのシュークリームを食べました。

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二セレブの会はじまります。

二セレブの会はじまります。

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ヒロシマ・アキバ塾から「平和宣言」①

 11月29日のヒロシマ・アキバ塾。これまでの平和宣言についてでした。秋葉さんは、平和宣言や子どもの「平和への誓い」の14枚もの資料を持ってきてくださいました。資料代もお渡ししていないのに、恐縮です。

 講座は、過去の平和宣言をかわるがわる読みながら、さまざまな質問、クイズを取り入れながら、行われました。

 まず、最初の平和宣言は、1947年。初めての公選市長である浜井信三さんによるものです。まだまだGHQによるプレスコードで、原爆の被害について公に話すことが固く禁じられていた時代。その厳しいチェックの中で、工夫を凝らして書かれています。今の平和公園にまだバラックが立ち並び、人々が懸命に生きていたころ。そこに幕が張られて「平和際」が行われました。

 その前年には「平和復興祭」がおこなわれましたが、今の平和祈念式典の原型となる式典がおこなわれたのは、1947年です。

 1948年、49年と行われましたが、1950年には、朝鮮戦争が勃発し、日本全土が戒厳令下に置かれて、式典が中止とされています。1951年には再開されましたが、それは平和宣言ではなく、「市長あいさつ」として行われました。原爆の被害について具体的に話すことができたのは、1955年、被爆から10年経ってからのことです。

厳しいチェックの中で行われた1947年の初めての広島市長による平和宣言をここに転載しますね。

    平和宣言

本日、歴史的な原子爆弾投下2周年の記念日を迎え、われら広島市民は、いまこの場に於いて厳粛に平和際の式典をあげ、われら市民の熱烈なる平和愛好の信念をひれきし、もって平和確立への決意を新たにしようと思う。

昭和20年8月6日は広島市民にとりまことに忘れることのできない日であった。この朝投下された世界最初の原子爆弾によって、わが広島市は一瞬にして壊滅に帰し、十数万の同朋はその尊き生命を失い、ヒロシマは暗黒の死の都と化した。しかしながらこれが戦争の継続を断念させ、不幸な戦を終結に導く要因となったことは不幸中の幸いであった。この意味に於いて8月6日は世界平和を招来せしめる機縁を作ったものとして世界人類に記憶されなければならない。われらがこの日を記念して無限の苦悩を抱きつつ厳粛な平和際を執行しようとするのはこのためである。けだし戦争の惨苦と罪悪をもっとも深く体験し自覚する者のみが苦悩の極致として戦争を根本的に否定し、もっとも平和を希求するものであるから。

又この恐るべき兵器は恒久平和の必然性と真実性を確認せしめる「思想革命」を招来せしめた。すなわちこれによって原子力をもって争う世界戦争は人類の破滅と文明の終末を意味するという真実を世界の人々に明白に認識せしめたからである。これにこそ絶対平和の創造であり、新しい人生と世界の誕生を物語るものでなくてはならない。われわれは、何か大事にあった場合深い反省と熟慮を加えることによって、ここから新しい真理と道を発見し、新しい生活を営むことを知っている。しかりとすれば今われわれが為すべきことは全身全霊をあげて平和への道を邁進し、もって新しい文明へのさきがけとなることでなければならない。

この地上より戦争の恐怖と罪悪とを抹殺して真実の平和を確立しよう。

永遠に戦争を放棄して世界平和の理念を地上に建設しよう。

ここに平和の塔の下、われらはかくの如く平和を宣言する。

1947年(昭和22年)8月6日
             広島平和祭協会長・広島市長   浜井信三

この項目、まだしばらく続きます。


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