高橋昭博さんをしのぶ会
昨日は、昨年11月2日に亡くなった「高橋昭博さんをしのぶ会」が行われました。
司会は前RCCアナウンサー・広島ユネスコ協会の井尾義信さん。沢山の方から高橋さんの思い出が語られました。
高橋さんは、被爆直後、重い火傷を負いながら友人山本さんと共に逃げました。山本さんは、被爆の40日後に亡くなりました。高橋さんの証言の中には、その山本さんのことと、亡くなった友人のためにも生き残った自分が語り続けなければならないということがたびたび出てきます。
昨日の会には、山本さんの弟さんも出席され、お兄さんのこと、その後の高橋さんのことなどを涙ながらに語られました。
以下、配られたパンフから。
『高橋さんが力を注いだのが被爆の実相普及。「病気の百貨店」と自らを呼んだ身体を押して国内外に足繁く出かけ、被爆体験と核兵器廃絶を訴えた。中でも若い世代に希望を託し、修学旅行生への証言活動は毎年、10数回から20数回におよび、証言の場は3000を超える。また、欧米の国会議員、著名人らに手紙でヒロシマへの理解を訴えた。』
同じパンフから、高橋さんの証言語録です。
『憎しみで憎しみを消すことは出来ません。自らが厳しい環境におかれても、他者に心を開くことを忘れてはならないと思います』
『平和の原点は、人間の痛みがわかる心を持つことです』
『核軍縮ではなく、核兵器を絶対否定し、人間社会から核兵器を抹殺してしまうことです』
発起人の広島ユネスコ協会会長 北川建二さん、核兵器廃絶をめざすヒロシマの会共同代表・高橋さんの師森滝市郎さんの娘さんの森滝春子さん。
発起人は他に被団協副理事長の池田精子さんと前広島市教育長の濱本康男さんの6人でした。池田さん、濱本さんについては、私が外に出ていて、写真が撮れませんでした。ごめんなさい。
高橋さんのお通夜の後倒れて、長い間闘病を余儀なくされた奥様の史繪さまがお元気になられて、皆様にしっかりご挨拶なさいました。これが何よりうれしいことでした。
最後に森滝春子さんが、
「高橋さんが存命中、彼の悲願であった核兵器廃絶はできなかったけれど。いろいろな立場の人が集まったこの場から、様々な場で核兵器廃絶に向けて、頑張りましょう」
と提案をされました。
高橋さんが残されたものは重く、大きいものでした・・・。
私は、今日は休診日。岩国での講演です。
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コメント
お世話になります。とても良い記事ですね。
投稿: グッチ 靴 | 2012年11月20日 (火) 06時47分