中沢啓治さんと手塚治虫さん。
昨夜は、はだしのゲンの中沢啓治さんご夫妻とお食事をしました。中沢さんがお元気になられました!! とてもしんどい抗がん剤の治療、放射線療法など、その副作用も含めて、何度も危篤のような状況になりながら、不死鳥のごとくよみがえられました。
つい、一週間前まで、ご自宅でも酸素が離せない状況でした。酸素を吸わなくてもいい状況になって、すぐに「食事をしましょう」とお電話を戴きました。その食事も、なんとフレンチ。こんなのが食べられるようになられたことを、本当にうれしいと思いました。まさに不死身のゲンです。
次々と出て来るお料理を、ゆっくりではありますが、ほぼすべて食べられましたよ。
食べながら、いろいろなお話しを伺いました。
手塚治虫さんのお話し。被爆後、中沢さんを元気づけたのは、手塚治虫さんの漫画でした。そのまねをして絵を学び、漫画を描いて出版社にまで持って行ったり・・・。中沢さんの原点は、もちろん、あの被爆にあります。そして、漫画の原点は手塚治虫さんにありともいえるでしょう。
ところで、中沢さんは、手塚さんとお会いになったのですか?と聞きました。そしたら、手塚さんが亡くなる直前の年に初めてお会いしたと言われました。
当時、「朝日賞」に誰か推薦をしてほしいとの書類が来たのだそうです。そして、それまでの受賞者を見ると、手塚治虫さんの名前がないのだと。中沢さんは、怒りを込めて書いたのだそうです。
「戦後の日本で子どもたちに夢を与えた漫画とアニメの先駆者がなぜ賞をもらっていないのか」と。そしたら、手塚さんの受賞が決まったのだそうです。
その授賞式で、手塚さんがつかつかと中沢さんのところに歩み寄って、「推薦してくれてありがとう!!」と言われたのだそうです。雲の上の人にそういわれて、中沢さんはとっても緊張して、それこそ天に上る気持ちであったと。
「手塚さんは、中沢さんの漫画を読まれていたのでしょうか」と尋ねましたら、読んでもらっていたのですよ。ととてもうれしそうに答えられました。
手塚治虫さんが朝日賞を受賞されたのが1987年。中沢さんがはだしのゲンのすべてを完了されたのが、1985年です。
その後、集英社・少年ジャンプのパーティーで手塚さんをお見かけしたときに、激やせされていたのでびっくりしたと。その半年後にお亡くなりになったとのことでした。
まあ、その時に推薦されて、受賞なさってよかったですねえ。かろうじて間にあったのですねと私。
そんなことを目を輝かせて話される中沢さんは、まるで少年の表情でした。手塚さんが亡くなったのが60才。若すぎますよねえ。生きておられたら、もっともっとたくさんの作品を書かれたでしょうねえ。今だったら、この世の中、どう言われたでしょうねえ、などとお話ししました。
そんなお話しがとても面白くて、楽しい時間を過ごさせていただきました。中沢さんには、もっともっとお元気でいていただきたいと、心からそう思いました。
私は今日は三次市の中学校に講演に行きます。車で行きます。大雨になりませんように・・・。
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コメント
手塚さんは、生きておられたら、
文化勲章、国民栄誉賞のダブル受賞ですね。
投稿: 元安川 | 2012年7月12日 (木) 10時53分
中沢啓治さん、ですよね。
お名前間違ってますよ。
投稿: 通りすがり | 2012年7月12日 (木) 11時11分
ちょうど今日の新聞の内容と一緒でビックリ!しました☆
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20120712112608331_ja
このまま元気になられるといいですね!
投稿: R21 | 2012年7月12日 (木) 15時16分
中沢さんにお会いしたことはもちろんありませんが、手塚治虫三には、三十年以上前、大学でマンガの描き方の授業を受けました。本当に優しい方でした。ベレー帽とめがねの奥の優しい目が忘れられません。もっともっと長生きしてほしかった。でも限界までお仕事されていたのでしょうね。中沢さんには、長生きしてもらいたいです。
投稿: スヌーピー | 2012年7月12日 (木) 19時56分