福島の女性たち
福島からの親子、宮島口からJRで広島駅へ。そこから新幹線で福島に帰っていきました。何しろたくさんの子ども連れ。たくさんの荷物。私は、お好み焼きを食べ終えるとすぐに荷物を車にいっぱい詰め込んで、広島駅に先回りして、新幹線の待合室まで運んでおきました。(おかげで家に帰るとひどい腰痛で。うーんうーんとうなっておりました)
それに一緒に乗ってもらったのが、福島からのピチハートのNさんです。彼女は、親子と一緒に広島にきました。ピーチハートは、福島の若い女性たちで立ち上げたグループです。車の中で、今後福島の女性たちがどう生きるか話をしました。
かつて、私がヒロシマで女性はどう生きるべきなのか、模索したと同じ姿がそこにありました。私が若いころ、学生時代、被爆者・被爆二世の女性たちで模索したあげく、長い間の討論を経て、「私たちは子どもを産もう」と決意したことがあります。被爆者が頑張って生きてきた、その命を繋ごう。被爆者の闘い、まず生きること、そして、核廃絶のための活動、それを私たちこそ引き継ごう。そしてその闘いを子どもたちにつないで行こうと。
私は、それらの論議を経て、被爆者・被爆二世の出産や染色体検査にかかわりたくて、産婦人科に入局し、かつ、その中で染色体研究室に入りました。
放射能の影響についてもかなり話ができました。私が医師になってから、数々読んだABCCの研究の英文の論文のこと。福島に乗り込んで「気の持ちよう」なんて言ってきた専門家たちのまやかしなどなど。
福島というと、つい子どもたちのことを考えます。でも、苦悩する若い女性たちの姿に接し、まだまだ私たちが支援しなければならないことがたくさんあると思いました。
私は、「ただちに健康被害はない」と言ってのける政治家、医師たちが彼女たちの苦悩を知っているのだろうかと思います。
広島駅では、広島発ののぞみに乗ろうとしたら、その日だけ福岡発になっていて、とんでもないことでした。いったん、大人数・大荷物で乗り込んで、席がなくって、またゾロゾロと降りたりして。結局遅くなりましたが、広島発ののぞみに乗り込んで、その中で記念写真です。冒頭の写真、フラッシュが作用しなくって暗い写真になってしまいましたが。
混んできたら席を詰めるとして、とりあえずはゆっくりと席を確保することができました。これから長時間の福島までの旅、無事にたどり着けたでしょうか。東京での乗換は大丈夫だったでしょうか。
布野の方たちの親切は、みなさんの心の中にしっかりと刻まれていました。神楽やお餅つきをしてくださったこと。神楽は、大人のも子どものも。「やまたのおろち」なんて、五匹もおろちが出てきたのですって。私は、二匹までしか見たことがありません。私も見たかったなあ。
私たちの心にも沢山のものを残してくださいました。束の間のふれあいだったけど。ありがとう、福島からの親子さんたち。子どもたち、負けないで!!これからもしっかり生きて行ってね。いざ、さようならの時、涙涙のお別れでした。
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