水俣病資料館で。
昨日の埋立地のすぐそばに水俣病資料館があります。写真は資料館の裏庭と資料館に併設されている水俣メモリアルです。
ここには環境省水俣病情報センターと熊本県環境センターとそして水俣市立水俣病資料館の三つが並存しています。国、県、市のそれぞれが立派な建物を建てています。役割分担がどのようになっているのか、時間の関係で資料館にしかいかなかったので分かりません。
資料館はやっぱり胸を打ちました。今こその真摯な反省と共に、痛恨の事態が展示されていると思いました。
以下、頂いたパンフレットからの抜粋です。水俣を福島と、水銀を放射線と、そしてチッソを東電福島原発と読み替えるとそのまま通じると思いました。血友病の方たちの非加熱輸入血液製剤によるHIVの感染も同じ構図が読み取れます。
水俣の海は魚が湧くと言われるほど豊かな海でした。水俣病とは、チッソ工場が不知火に流した工場廃水に含まれるメチル水銀が魚介類を汚染し、その魚を食べた人たちがメチル水銀中毒になった公害病です。
小さな村だった水俣がチッソ工場とともに工業都市へと発展していった・・・
昭和20年代後半から、魚の浮上やネコの狂死などの不気味な出来事が続いた・・・
昭和31年、原因不明の患者が発生していることが公式に確認された。患者の発生が相次ぎ、患者や漁師の生活は困窮を極めた。チッソ工場の廃水が病気の原因との疑いが強まっていったが、チッソ工場はこれを認めなかった。また国や県も工場廃水の規制を行わず、工場廃水は流され続け、海の汚染は続いた・・・
チッソでは、ネコに工場廃液を与えるなどの実験によってみなまた病を発症することを確認していたが、その事実は隠して工場廃水を流し続け、被害の拡大を招いた。
メチル水銀は、工場廃水とともに海に流された後、食物連鎖によって魚介類に高濃度に蓄積されていった。汚染のことを知らない漁村などでは、獲れた魚を日常的に多食し、次々と悲劇が生まれた・・・
大人も子どもも、脳の中枢が侵され、そして母親の胎盤を通して、胎児にも水銀が蓄積し、胎児性水俣病患者の発生という更なる悲劇が生まれた・・・
昭和43年、水俣病の発生から12年が経過し、ようやく国は、「水俣病はチッソ水俣工場の廃水が原因で起きた公害病である」ことを発表した。
以下、パンフの文章をまる写しします。ヒロシマの被爆者の求めた被爆者援護法や、原爆症の認定とまったく同じなのです。
「健康を奪われた被害者や最愛の家族を亡くした遺族たちは、チッソや国、県を相手に全国各地で裁判や自主交渉を行いました。それは心からの謝罪と救済を求める必死の闘いでした。また、水俣病と認定されずに保障を受けることができない未認定患者の救済も問題となり、認定の基準が厳しすぎると、認定制度そのものが問われていきました。
裁判で窒素の責任は明確になったものの、認定基準や廃水を規制せず、被害を拡大させた行政責任をめぐって裁判は長期化し、硬直した状態が続いていました。
1990年(平成2年)、裁判所は、被害者が高齢化するなか早期救済のためには和解をするほかないとの勧告を出し、これを受けて、政府が解決案を示したのが1995年(平成7年)でした。
ほとんどの患者団体は生きているうちに救済を受けるため、仕方なく紛争を取り下げてこの解決案に同意しました。苦渋の選択でした。ただ一つ関西訴訟の原告たちは、あくまで行政の責任をはっきりさせたいと最高裁まで争い、2004年(平成16年)、国、県に行政責任ありとする判決が出されました。
これまで多くの涙が流されましたが、失われた命・健康を取り戻すことは出来ません。「過ちて改めざる。これを過ちという」と先哲は伝えています。私たちは水俣病の失敗を認め、反省し、二度と繰り返さないようにしていくことが求められています。それは、特に水俣にとっては、人の生命と尊厳にかかわることだからです。」
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