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「森瀧市郎追悼集」から①

2011_09010006 "反核の父"森瀧市郎さんは、1994年1月25日、胃がんで亡くなりました。翌95年7月この本が刊行されました。

 これには被爆者援護と反核の戦いに一生をささげた森瀧さんの偉大なが業績が詰まっています。巻末の年表と共に、貴重な資料にもなります。今、改めてこのすべてを多くの方に読んで頂きたいのですが、今回はこの中の原発にかかわる部分を紹介したいと思います。以下、かぎ括弧『』で記載した部分はこの本からの引用です。

 森瀧さんが明確に反原発を打ち出されたのは、1975年です。それにいたるまでにさまざまな足跡があります。

『森瀧の「原子力の平和利用」への関わりは1955年(昭和30年)アメリカ下院で「広島に原発を建設すべきだ」との提案がなされた際、原爆製造につながる危険、放射性物質の人体に対する不安を提起したことに始まる。その後、「原子力は「第二の火」として、人類の未来を約束してくれるエネルギー」との主張が主流となる中で、75年、原水禁大会で「核絶対否定」の立場を明らかにして以来、原発反対を自らの運動の大きな柱に据えた。

 原発建設地の住民の反対運動にも関わり、中でも四国電力・伊方原発(愛媛県)は1968(昭和43年)以来、建設反対、運転差し止めを要求して法廷闘争を展開した原発周辺住民を支援し、現地も何度か訪れた。原発反対住民の廣野房一さんは「森瀧先生は「子孫に不安を残してはならない」という大原則を貫き、私たちを指導してくれた。」と、森瀧の存在の大きさを語る。廣野は今も森瀧から送られた「核絶対否定」の書を額に入れて飾り、反対運動に取り組む心の糧にしているという。

 だが、反対運動にもかかわらず、日本は世界最大の原発立地国となっていただけに、森瀧にとって、六ヶ所村に建設予定の日本最初の核燃料サイクル施設の建設は絶対に食い止めなければならないものだった。

 森瀧は、新日本原子力協定、核物質防護条約の批准と原子炉等規制法案などの国会上程が四月八日に決まると、すぐに社会党本部に電話を入れ、伊藤茂政審会長(当時)に「全力で阻止して欲しい』と要請。広島県原水禁事務局長、横原由紀夫さんと連絡を取り合いながら国会審議の行方を見守った。

 しかし、協定、条約は批准され、関係法案も成立して、六ヶ所村のウラン濃縮工場、核燃料再処理工場、低レベル廃棄物処分施設の核燃料サイクル三施設はその都市の八月十日、事業認可され、十月に着工した。

 森瀧らは国のごり押しの原発推進政策を押しとどめるには法的規制が必要と、十一月には「脱原発法」制定を国に求めることを決定。制定実現に向け、全国規模の五千万人署名運動をスタートさせた。

 同時に、六ヶ所村の施設建設反対住民との交流も進め、翌八九(平成一)年四月八日、青森市文化ホールで開かれた「核燃料サイクル反対全国集会」に参加。翌日、六ヶ所村で開催された現地集会では、森瀧は集まった人の波に圧倒され、「一万人余の人々が旗を押し立てて集まって来たのである。いい得ぬ感動。原水禁運動は生きている」と日記に記している。壇上から次々と、核燃料サイクル施設反対を叫ぶ住民や市民運動団体代表の力強い表情は、森瀧を大いに勇気づけた。』

 長くなって申し訳ないけれど、でもどうしても読んでいただきたい部分だけにしますので、もう少し抜粋を続けます。明日は、その感動の1975年「被爆三○周年原水爆禁止世界大会・国際会議で日本側代表として行った基調演説」を掲載します。


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コメント

「人類はいきねばならぬ』森瀧市郎の歩み を紹介してくださり有り難うございます。 信念の行動を貫かれて我々被爆者は いつも尊敬をしていました。でも森瀧氏の原発への取り組みについては 本当に申し訳ないくらい 迂闊に見過ごしていました。
 悔いても悔やみきれない迂闊さと 自分の愚かさを心から恥じています。 
 心の底から詫びたいです。
 ドイツBDFの 番組中で 英国のクリストファ・バスビ-が福島原発震災について言っています。
『日本政府の無責任ぶりは 犯罪的である。子どもに平気で高い被曝をさせている。文明国のすることとは思えない…』 と。
 哀しいかな まったくその通りです。恥ずかしいかぎりです。

投稿: yuumin | 2011年9月 1日 (木) 19時44分

yuuminさま
本当に。福島の子どもたちは何とかしなければ。でも、放射能の一番の被害は精神的なものであると、現場では、そんな風に振りまかれているのですね。胸が痛いことです。こうのみよこ

投稿: こうのみよこ | 2011年9月 9日 (金) 08時25分

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