ヒロシマは原発を容認して来たのか。
感動的な中沢さんのお話。夫も聞いていて、感想として「その最後に被爆者として、今の福島の原発事故をどう思いますか?」と入れればよかったのに」と言いました。私もずっと今回の福島の人のことを聞こうかどうしようかと迷っていました。ただ、「原発事故をどう思うか」という聞き方は漠然とし過ぎています。
以前、中沢啓治さんのDVDが完成したその試写会に行ったとき、後の記者会見で記者の方たちが同じ質問をされました。そのときに中沢さんは、真っ先に「風評被害」のことを言われたのです。ご本人がヒロシマから東京に行ったとき、被爆者に対する差別がひどかったとおっしゃっていました。それだけつらかったのでしょう。「福島の人たちを励ましてあげたい」といわれました。
でも、記者が聞きたかったのは、それではありませんでした。原発の存在そのものについての中沢さんの思いだったのです。。何回も質問を重ねた挙句、結局各紙一面に中沢さんの言葉が載りました。私は、限られた時間の中で、そのように質問を繰り返すことは出来ないし、どうしようかと迷っていたのです。
事前にお会いしたときに、中沢さんがチェルノブイリに行ったときのことを話されました。「かわいそうに。少女が後一月しか生きられないと言われたと泣いていてね、残酷なものでした。そのときにもまだ地面はガーガーとガイガーカウンターの音を立てていたよ」と。私は、福島という獏という問い方ではなく、そのチェルノブイリの話しを質問しようと決めていました。しかし結果的には、時間がなくなってしまって、その質問は出来ないままでした。
原発については、その後の草薙さんと小林さんに任せようと思いました。
でも、今、私は、無理をしてでもそのことを聞くべきだったと思っています。ヒロシマの被爆者が原発をどのように捉えているかを示すべきだったと。
私は、この間「ヒロシマの運動は核兵器にばかり反対をしてきて、原発については黙っていた」という記事を沢山読みました。テレビの「熱血授業」でもえらい大学の先生が「ダブルスタンダートだった」とも言われました。その方がどれだけ被爆者運動を調べたのか、勉強したのかわかりません。たしかに、広島でも、そのようなことを言った人はいるのでしょう。でも、それは「その人が」そうだったということであってヒロシマの運動がといわないで欲しい、と思います。
今回の私たちの集会を大々的に報じたミニコミ誌「未来」でさえ、そんな人の声を敢えて載せていて、本当にがっかりしました。「東日本大震災が起きるまでは、核兵器対人間ととらえてきた。フクシマを機に、放射能対人間で核を見つめ直す必要があると、"自己批判"せざるを得ない」(元中国新聞編集局長・元市長、平岡敬さん)[いずれも新聞報道から]
なぜこのような人の言葉を載せるのかと私は怒っています。被爆者運動をして来た人でもなく、この人はやはりこの程度だったということに過ぎません。それをあたかもヒロシマの代表のようにマスコミの新聞がそう載せたとしても、「未来」まで引用することはなかろうと思ったのです。私たちの平和の夕べでも、その第一回から必ず被爆者の話と同時に原発の講演をいれてきています。
これまで反原発の運動を粘り強く闘ってきた人たちはヒロシマにも確実にいるわけだし、でも、このようなフクシマの事態が起こってしまったということは、その運動が弱かったということに過ぎません。財界、マスコミ、大金を使っての攻撃に負けてしまっていると。
今、私は森瀧市郎追悼集「人類は生きねばならぬ 核時代を乗り越えて 森瀧市郎の歩み」を読み返しています。この本のあちらこちらに、森瀧さんの信念「核絶対否定」が書き込まれています。その本と共に、そこに書かれている、早くから被爆者運動が原発に反対をして来たことを紹介しようと思います。被爆者運動の父、森瀧市郎さんの深い思いが記されています。
別府市の京都大学地熱研究所。正式には京都大学大学院理学研究科付属地球熱学研究施設本館。1923年大正12年に作られた現在国の登録有形文化財。別府での性教育指導セミナーに行ったとき、会場の向かい側にありました。ちょうど中が公開されている日だったので、地熱利用について行ってみようと思っていたのに、次の日にいったら、もう終わっていてがっかりでした。いつか行って見学したいと思います。
「体の相談室」と「著書」の販売があります。
ぜひ、覗いてみてください。
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