「原爆市長」を読む。
忙しくて昨日はブログの更新が出来ませんでした。何が忙しいと言って、「頭の中が忙しい」のです。あれもこれも気になって。震災、原発、市長選・・・。みんな目が離せません。少しでも情報を知りたいと思います。
昨日、久しぶりにアキハバラ塾の塾長に会いました。私はアキハバラ塾の二期生です。劣等生ではありますが。このブログにあるように、塾長は4月の2日からいわき市に行くと言いました。原発の事故でひどい物資が不足している、ボランティアも放射線の影響からか、とても少なくて困っている、そのいわきに物資を届けに行くと。3トントラックに物資を積んで塾長も運転手として行くと。
「ヨウ素を飲んで行って。私、用意しているから。」と言うと、「僕は年だから、ヨウ素は必要ない」と言いました。そうでした。ヨウ素を飲むのは、40歳未満でした。私としたことが、と苦笑いです。
すでにいわきとも連絡が取れて、不足しているものも聞いたと。広島市長からいわき市長へのメッセージも持っていくと。沢山の物資とカンパも集まって、そのカンパでも物資が沢山購入できたそうです。一回では運びきれないかも、と。また二度目に行かなければ行けないかも、と言います。
これから被災地のボランティアに入るから、その間生理を止めて欲しいという患者さんも来られました。何かしたいという人が、ずいぶん行動しているのを実感します。一方、関東から広島の実家に帰ってきている人も多いなあと実感します。余震、放射性物質・・・。広島に帰ると、揺れないだけでもほっとしてひたすら寝ていると。東北、関東の人たちは本当に大変だと思いをめぐらせます。
頭の中が忙しいと、ひたすら本を読みたくなります。
以前、先輩のドクターに戴いた「原爆市長」です。戦後初めての公選市長として、四期市長を務めた浜井信三さんの手記です。今、あの津波の被害地が原爆の廃墟と重なります。それに市長選・・・。
こんなときだからこそ、再度とっても読みたくなりました。廃墟のあと、被災した市民にどうやって食事を用意したか、夏から冬を迎えるときの市民の服をどうしたか、それに原爆のほぼ一月後にあった大水害。ほぼ市内の全域が水に浸かってしまった、その後の水害対策・・・。何より廃墟となった広島市の都市計画・・・。平和都市広島としての街づくり・・・。
これから震災、津波の復興をしなければならない都市のリーダーにも、ぜひこれからの街づくりの参考にして頂きたいと思う本です。
経済活性ばかり。平和ではめしは食えないと、平和のへの字も言わないような市長候補には、この本をぜひ読んでもらいたいと思います。以下、一部引用します。
「三月、焼け跡に春がめぐって来て、青い草の芽が吹き出すと、それを待ちかねたように、あちこちにバラックが建ちはじめた。バラックはどんどんふえた。それを見て、私たちも、審議会の委員も慌てた。グズグズしていると、この勢いでは再び無秩序な街が出来上がってしまう。見渡す限り何もなくなったいまこそ、りっぱな町づくりのチャンスではないか。一日も早くしっかりした計画を立てなければならないと思った。
復興審議会が開かれたとき、委員の多数から、
「市長は本気でこの焼け跡を復興するつもりか。どうせ金を使うなら、この焼け跡はこのままにしておいて、どこか別のところに新しい町をつくることを考えてはどうか」
と、大真面目な発言があったものである。
しかし、市民の住みなれた土地に対する執着は、そんな生やさしいものではない。たとえ行政がどうあろうと、計画がどう立てられようと、彼らは自らの道を曲げない。現に春とともに、市民たちはこうして続々と焼けただれた町に帰りはじめたのである。復興局も、審議会も、こういう市民の姿を見ては、計画の完成を急がないではいられなかった」
そうして、市内を東から西に貫く百メートル道路を作ったのは、交通のためではなく、防災の目的であったこと。平和公園を作るにあたっての苦労・・・。明日ももう少しこの本の引用をさせてくださいね。
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