「はだしのゲン」の中沢さんの講演会です。
毎年8月6日にYMCAでしている「平和の夕べ」。今年も準備をしています。何と、今年の「平和講演」は、「はだしのゲン」の中沢啓治さんにしていただくことになりました。中沢さんは、一時、危篤状態にまでなった肺がんを克服して、今、すっかりお元気です。
どんな形でお話しいただくか、これは今後話し合って決めて行きたいと思っています。中沢さんの体調にもよりますが、お一人でお話しいただくか、または私が皆様の前でインタビューする形にするか、ゆっくり考えようと思います。
どうぞ、多くの方に「ゲン」の話を聞いていた戴きますように。いい集会にしたいと思います。中沢さんの話だけでなく、もっといろいろと企画をしていますので・・・。内容は、順次お知らせしますね。
私たちは、その集会に向けて、はだしのゲンをじっくり読むことから勉強をすることにしています。今、私ははだしのゲンを英語で読む講座に通っています。そのために、日本語のゲンも何回も読み返しています。読めば読むほど、奥深くて。
これまでにもこのブログで、時々述べて来ましたが、ゲンの中に登場するシーンと私の思い出を絡めてお話ししようと思います。ゲンから脱線することがあるかもしれませんが、底では繋がっていることですので。今日は、その第一回。
ゲンの被爆。そのショックで身ごもっていた母親がその日に焼け野原の中で赤ちゃんを産みます。その後、母親とゲンと赤ちゃんは、住む場所を求めてさまよいますが、江波の母親の友人宅に身を寄せます。そこでゲンは、仕事を捜します。家賃も払わなければ。食べるものもない中で、当然母親の母乳も出ません。赤ちゃんのミルクも買いたいと。
仕事を探すゲンに仕事が与えられました。それは、被爆して全身火傷を負った男性の介護をすることでした。火傷がひどくて、家族も近寄りたくないところで、ゲンは誠心誠意彼の介護をします。それは、お金が欲しかったこともありますが、ゲンの優しさ、正義感に裏打ちされたものでした。
その男性は、全身火傷の自分の体を近所の人に見せようとします。裸になり、ゲンに荷車を押させて。その火傷だらけの体を見た人々は、逃げ惑います。
そのシーンを読むと、私はいつも「原爆一号」と呼ばれた「吉川清さん」を想います。
私が小学校低学年の時、私たちの前で、吉川さんがさっと上着を脱いで背中を見せて下さったことがあります。そのひどいケロイド。息を呑みました。
どれだけ原爆がひどかったか、その表現をどんなに緻密な文章を書いても、一枚の写真、絵の方がストレートに伝わります。本物の背中だったら、もっと。その時の吉川さんの話はさっぱり覚えてません。でも、その背中だけは、ずっと記憶に残り続けています。
その吉川さんと、大学生になってすぐに出会い、交流が始まりました。その思い出をボツボツと書きたいと思います。飛び飛びになるかもしれませんが・・・。
今日は、大阪の中学生に話しに行きます。夜帰ったらすぐに、広島市の教育委員会で行っている「命の教育推進事業」の会議です。
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