「私と性教育」⑭エイズのそうそうたる関係者に出会う。
1990年、私が土谷病院をやめて11月に開業をして、程なくのことでした。夜遅く、池田恵理子さんに呼び出されていったのは、近くのホテルの最上階のバーでした。入り口で池田さんを呼び出して、連れられていかれたところでは、何人もの方がテーブルを囲んで活発に議論をしていました。知らない方ばかり。池田さんのほかに、たった一人知っているのが高田昇先生です。覚悟を決めていましたので、すぐに私は頭を下げました。「その節は、私がまちがっていました。高田先生の反論でよく分かりました。ありがとうございました。」と。先生は、にこにことしていたので、ほっとしました。
その時は何の会なのか知りませんでした。広島でエイズの大きな会が開かれ、そこに、日本で様々な分野でエイズと取り組んでいる、そうそうたる方たちが一同に会したのだと。その会の後にこうして皆さんが集まっていたのです。
私は、全くエイズとは無縁のところにといたもので、ただ、皆さんの議論を聞いていました。物静かで、でもどこかウイットのある紳士だったのが、都立駒込病院の根岸昌功先生でした。日本でいち早くエイズの患者さんの治療に取り組み、マスコミにもしばしば登場している方でした。
大変元気な女性、一生懸命に話しているのが、山形の宇野信子さんでした。血友病の息子さんがHIVに感染していました。これからの行く末について。多くの血友病友の会、患者会が、その頃崩壊の危機に陥っていると。患者会として機能しているのは、広島だけなのだと宇野さんは主張していました。その時だったか、その後だったか、宇野さんに涙ながらにお話しを聞きました。
HIVに感染していることがわかると、ドクターから本人に告知をしなければならない。その告知になんども立ち会ったと。外で待っていると、告知された若い患者さんが、まっすぐに宇野さんのところに来て、「オバちゃん、僕、何をしたらいい?」と言ったと。当時、本当に治療法がなかった時代です。宇野さんは、その子をただ抱きしめて、そして、「強ミノの注射に通おうね」と言うしかなかったの、と。今から考えると、効くとは思えないその注射を一生懸命に受けたのだと。それしかより所がなかったのだと。本当に残酷な話しです。
そんなやり取りを聞いていたとき、一人の男性が、「河野さん、僕はこういうものです。」と話しかけて来ました。それが、京都の染色家の斉藤洋さんでした。
斉藤さんは、ニューヨークでメモリアル・キルトを見て、とても感動したのだと。それを日本でも展示したい、ついては、ぜひ広島でもしたいので、受け入れをしてくれないか、と言うことでした。メモリアル・キルトは、エイズで亡くなった人を偲んで、その家族や友人達が、畳一枚の大きさの布に亡くなった方が使っていたものや衣服や写真、メッセージなどを縫い付けたものです。
それをアメリカから、100枚以上借りて全国を縦断すると。福岡ではデパートの催し物会場で、京都では博物館で、などと北海道まで、大変な会場ですることが決まっているのだそうです。急に広島でも、といわれて途方にくれる思いでした。
でも、皆さんのエイズに対しての真摯な話しを聞いていて、心打たれていた私には、断ることが出来ませんでした。
それが、エイズボランティアをこれまで20年間続けてきた、そのきっかけとなったのです。

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