「私と性教育」(23)性教協広島サークル結成。
広島エイズダイアルのボランティア活動には性教育に携わっている人たちも多く参加しました。性教協広島サークルのメンバーです。
性教協広島サークルは、1988年夏に結成されました。というより、正確には再結成です。以前から、広島県福山市で橋本先生が中心となって性教協の活動はなさっていたのです。橋本先生は、先述のエイズの検査に保健所に行ったとき、朝食に何を食べたか聞かれたとみんなの爆笑を誘った人です。でも、福山での活動は細々でした。
そんなとき、性教協の大会が倉敷で開かれ、それに広島県からも沢山の教師が参加し、目を開かれた思いがした、と、感動した先生達が広島でもそんな研究会を作りたいと動き始めました。
私は、その頃、頻繁に出演していたNHKのおはようジャーナルで、村瀬幸浩先生と出会います。村瀬先生は、穏やかで、情熱のある先生でした。その村瀬先生から、性教協のことを教えて頂き、私も一匹狼ではなく、ともに歩む人が欲しいと思っていたときです。ちょうどみんなの意志が一致し、いろいろな変遷を経て、1988年に結成することが出来たのです。以来、性教協広島サークルでは、本当に沢山のことを学ばせて頂きました。それについては、後述します。
今回は、橋本先生のことを。先生は、私が知り合ったときには、すでに教師を定年退職されていました。が、子どもたちを思う気持ちはとても強く、自宅で電話での教育相談を一人でなさっていました。当然、電話相談の内容から、性教育の必要性を痛感なさっていました。
その先生と合流する形で性教協広島サークルを改めて結成ことができ、代表を橋本先生に引き受けていただきました。
先生の悲願は、全国大会を広島でやりたいということでした。メンバーも増え、会としての力もついて来て、全国大会をひきうけてもいいのでは?となったのですが、それでも、出来ませんでした。ちょうど世羅高の校長先生もの自殺があった頃です。先生達の間にも、いろいろと動揺があったり、組合に対しての厳しい攻撃があったことも要因の一つでした。
まだ全国大会は出来ない、となった時の橋本先生の残念なお顔が浮かびます。
でも、いつかは、との希望を持って広島の地での活動を続けていたとき、橋本先生が癌にかかられた、との知らせが来ました。癌になっても、それでも頑張って参加されていた先生ですが、だんだんと悪くなってしまわれて。
もう、とても危ないとなった時に病院に行くと、ベットの上で「これからをたのむなあ。」と握手をしながら言われました。その時に、私たちは、橋本先生の意志をついで、めげないで頑張ろうと決意を新たにしたのです。ほどなく先生は亡くなりました。
昨日、そごうの北海道展でニシンを買いました。おなかにパンパンに卵、数の子を抱えています。私は塩漬けの数の子は知っていますが、こんな生の数の子を見たのは、初めてです。頭と尻尾を取って両側に三本細い切れ目を入れて、焼いて食べる、そのままでもしょうが醤油をつけてでもいいと、売っているオバちゃんに教えて頂きました。一匹630円だけれど、二匹買ったら1050円にして下さいました。もう、とっても美味しかったです。身はアブラが乗っているし、卵はもう最高!!いいものを買ったと思います。
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