今クリニックで起こっていること。⑥中絶は殺人?
今日は、クリッニクで起こっていることへのコメント、鉄人様へのお返事をこの蘭に書かせていただきますね。
「中絶は殺人」これは、とてもよく言われることなのです。でも、これは私の中ではもう解決済みのことです。
鉄人様、まず真摯なコメントに感謝します。でも、あなたがおっしゃることは「仏教の考え方」に限ったことではありません。キリスト教の一部の人でも、統一協会の人でも、他の宗教の中でも。それから、宗教とは関係なく、極右翼の人、性教育に反対の人、等にさんざん攻撃されて来ました。
まず、私は、名前も戴いている仏教者です。仏陀の教えでも、あなたのように「原理主義」になると、教えがともすれば人を救うのではなく「追い込むこと」につながるものです。
私は長い間の実践の中で、正直大変悩んだ時期もありました。それもあって、お寺の門を叩いたものです。そして、少なくとも、「中絶で儲けている」ことだけは拒否するため、この20年間、中絶はしておりません。ただし、他のドクターに紹介はしております。同じことだといわれるかも知れません。それも承知の上です。
それでも、私のような立場の者は、原理で人と向かい合うことは出来ません。人それぞれ。それぞれの立場で、背景も環境もみんな異なる方たちがやってきます。まずそのすべてを受け入れることから始まります。私は、自分の意見を無にして、私のところに来た人たちの話しを聞きます。
私の前で呆然と立ちすくむ少女たちすべてに、「中絶は殺人だから生みなさい」なんていえるわけありません。妊娠してしまったということが、どれだけ重いものなのか、おそらく頭だけで考えている方には分からないでしょう。その事実の重さに、自らの命を絶とうとする子もいます。
みんなが喜んで中絶を受けているとでも思われますか。若い人だけでありません。一番中絶を受けているのは、20代、それから30代、10代、40代と続きます。その誰にとっても、とても重いものです。あの産婦人科の診察台に上がることだけでもどれだけつらいことか。゛てもね、その人たちは「中絶があるから妊娠した」訳ではありません。そもそも、妊娠すると思っていないのです。そこに、性に対しての甘さがあります。そもそもが、「性」は生殖なのだと教えなければ、というのです。
「どんな事情であろうとも、妊娠したなら、それはすべて産むべき。」それなら、もしもレイプされて妊娠してもそうなりますね。
私がよくいうことなのですが、「女のみがみごもる」立場にあるのです。鉄人様は、すべて妊娠した女とその親が育てるべき、といわれます。男性はどうしたことでしょうか。すべての胎児に、父親がいるのですが。その父親の立場を忘れていませんか。なぜ女性だけが引き受けなければならないのでしょうか。
そのようなことが抜け落ちた鉄人様の考え方は、ともすれば女性差別につながるものです。
事実の重みの中で、その人が中絶という選択をしたなら、それはそれで尊重しようと思います。その選択の陰には、相手の男性、取り巻く大人たちの事情、それらが含まれての選択なのですね。
つらい立場になる女性が少しでも減るように、と私が性教育の必要性を言い続けているのは、数々の女性達と向き合い続けてきた心からの叫びでもあります。
学校に期待するなといわれますが、それも事実をご存知ないからでしょう。ある宗教者と〇〇会議という、性教育をさせまいとする勢力があり、それが政治を動かし、文科省を動かしたという、そして教育現場で、ひどいバッシングが行われてきたという事実があり、その勢力と厳しい戦いをしているところでもあります。
学校でなく、親にその期待をしたいところですが、教師と同じように、わが子に自信を持って教えることができる大人達がどれだけいることでしょう。皆さん、わが子にことが起こって初めて呆然とされるのですよ。教えることができる人は、それでいいのです。でも、それは学校での性教育不必要ということにはなりません。
もし、私たちが「中絶はこれでおしまいです。もう私たちは二度と中絶はしません。」と道具を捨てることが出来るときがきたとしたら、それは「望まない妊娠をする女がいなくなった時。望まない妊娠をさせる男がいなくなった時。」そのときこそ、私たちは本当に心からの笑顔で「中絶終了宣言」をすることが出来るでしょう。
鉄人様、仏陀の教えはもっと心が広いものです。原理だけでは人は生きていくことが出来ません。そもそもお釈迦様が生まれたときには、「受精」なんて概念もなかったし。殺生を禁じていても、人は他の動物と同じように、他の命を戴いて生きる生き物でもあります。(鉄人様は、菜食主義者ですか?)生きることそのものが、それだけ罪深い物なのですね。
罪を重ねながらでも、それでもまた立ち直って強く生きていけるように、私は、少しだけ、その手助けをしたいと思っています。時には、あまりにその事実の重みに私自身がおしつぶされそうになることがあります。この人にとって、どうすれば一番いいのか、その試行錯誤の連続でここまで来たといえるでしょう。

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コメント
中絶する女性を断罪される方は、生まれてくる子どもの人生に、責任が持てるのでしょうか。
その人生を幸せにするために、有効な手段をお持ちなのでしょうか。
それだけの力をお持ちなら、そこで初めて、「命を救う」と言えると思います。
投稿: maruo | 2010年3月16日 (火) 15時58分
河野先生のお話と鉄人さまのコメントを読ませていただきました。
私も、僧侶の端くれです。
私の感想を少し述べさせていただきます。
私は、一人の僧侶として、仏教(仏陀の教え)を伝えていく使命を持っています。使命という大げさな言葉を使わなくても、教えを伝えていくのが私の「生きる」ということなのです。
その場合、どうやってその教えを伝えるのか。
自分の能力が、仏教を伝えていける力を十分兼ね備えているなどと、そんな大それたことは考えたことはありません。
でも、その努力はしているつもりです。
自分が「生死(しょうじ)の苦海」に浮き沈みしながら、その体験を通して、自分の中でうなづけたことを、自分の言葉で語ること。
私は、その姿勢を大切にしてきました。
しかし、それぞれの語り口は違っても、語る、伝えていく中身はやはり、仏教の原理、真理をはずすわけには行かないのです。
私自身、僧侶仲間から、「おまえは、過激な原理主義者だ」とよく言われます。
いろいろと迷ったとき、わからなくなったとき、いつも私は原点に帰ることにしています。
それから今回の「中絶は殺人」に関して。
仏陀の教えの「不殺生」ですが、この言葉にはふたつの意味があると思っています。
ひとつは「自ら(の手で)、いのちを殺さないこと」そして、「他(人)をして殺さしめないこと」。
私の娘がこういうことになったとき、「中絶をしなさい」というのは、私が、娘に殺生をすすめるという行為になります。
つまり、娘は実行犯、私は幇助ですが、私も殺生を犯したことには変わらないのです。
私の娘がこのようになったとき、私は「産もうよ」というと(言ったと)思います。
子どもが欲しくても、産めない人もいらっしゃいます。
このいのちが、どのような過程で生まれたのか、これからどのような運命をたどるのか。
それは、別の問題です。
この「いのち」が縁あって、この「人間のいのち」に恵まれたという、この事実。
決して、人間だけがすばらしいといういみではありません。
このことの意味、重さ、それをまず受け容れることが、仏教の原点だと思っています。
先生が、今まで、いろんなご苦労やご努力をされていることは、私も十分存じております。
失礼の段、どうぞお許しください。
投稿: 広島メイファーズ | 2010年3月16日 (火) 17時19分
河野様 今晩は。
小生の意見にご感想いただき感謝致します。先生のご感想は、予想しておりました。でもあえてコメントさせていただきました。
ブログにコメント欄があるということは、コメントを求めているということです。それは賛成意見ばかりでは当然ありません。先生もそれは予想されていたと思うのですが。
小生は個人攻撃をしている気持は毛頭ありません。また小生が学んでいる「仏教」と先生が学ばれた「仏教」は違うようです。
そして仰るように、人間は生きているだけで罪深いものです。(別に菜食主義者ではありませんが)
「中絶」を是と仰るならば、その信念でお続けになれば宜しい訳です。小生にはそれを止める権利など何処にもありません。
小生は現場を知らぬ「原理主義」ということですが、先生の仰る「原理主義」とは何を指すのですか。小生の意見を「原理主義」の意見だとするならば、少なくてもその「原理」の共通認識が必要です。それからいくらでも批難なさればいいのです。
小生は、頭で考えているだけの人間で、女性差別の人間なのですね。何故そのようなことが言えるのですか。小生には愛すべき妻も子どももいます。現に育てています。どのような理由で、頭だけの人間で、女性差別の人間なのか分りません。現場にいないからですか。男だからですか。
maruo様にもお訊きしたいのですが、生まれて来る子どもは必ず不幸になるのですか。そう仰るのならその根拠は何ですか。小生は万能の神様ではありません。論点がずれています。
小生は、そのような個人攻撃は止めて、もっと冷静に話しをするべきだと思います。何のためにあれだけの気持を込めてブログを書かれたのか。書くことで何を求めたのか。
意見を交換しあうというのは、必要なことです。ただ感情的に個人攻撃されるのは少々辛い。
小生も、母親にも子どもにも不幸になってもらおうと思って、コメントした訳ではありません。こころから幸せになってもらいたいと思いコメントさせていただきました。そこのところはお汲み取りください。
今後、コメントを入れることは致しません。ご迷惑をお掛けしました。
投稿: 鉄人 | 2010年3月16日 (火) 23時44分
高校で養護教諭をしています。
私は、仏教やそのほかのあらゆる宗教について勉強不足で、この議論とまたはずれているかもしれません。しかし、若者の実態を知るものとして、どうしても伝えたい思いがあり、コメントさせていただきます。
子どもたちは、自分たちが妊娠する、させる能力のある体とは分かっているのに、なぜか、望んでいなくても妊娠するという危機感があまりにありません。若さゆえ、マンガ等から影響された「美化されたH体験」や恋愛へ憧れ、没頭し、性行為を本当に簡単にしてしまいます。
妊娠や性感染症のリスクは、大人からきちんと学ぶ場が無いから、知りません。当然ですよね?
でも、妊娠にいたる性行為はする、当然、中には妊娠する子どもが出てくる。
それほどまでに無知で浅はかな子どもが「大切ないのちだから産もう」と言われたからと、急に親、大人としてその子どもを育てられるわけがありません。
そして、その妊娠した子どもたちは、やっぱり「子ども」なんです。やりたいことや、夢がいっぱいある子もいます。まだまだ、成長と夢の途中。その大好きな今の全てを失ってでも、産み、育てたいという子は正直少ないですし、経済的にも育てることができません。(未成年ならその親に、と簡単にも言えません。この時代、その親さえ頼れない場合もたくさんあります。)
女の子が勝手に妊娠して勝手に中絶、ではありません。中絶させる男の子、もしくは女の子を中絶に追い込む男の子がいることを知ってください。
ひどい男から悲しい妊娠をさせられる女の子もいます。その女の子だけが、どうしてその後何十年と、辛い思い出の象徴である、その子どもと生きて行かなくてはいけないのですか?
中絶は、そんな辛い思いを少しでも軽くし、乗り越えさせてあげられる唯一の方法だと思います。
しかし、望まない妊娠も中絶も無いに越したことはありません。だから、私は高校生に性教育をしています。必死です。
投稿: ミラ | 2010年3月17日 (水) 17時55分
自分の考えは、自分のブログに書きました。
こちらです→http://yanji326.blog68.fc2.com/blog-entry-200.html
身内の誰かが妊娠した。でもそのまま妊娠を続けることも出産することも、母親は命を落とす危険が大きく、また胎児の命も保証はできないといわれた時、中絶すれば母親の命は助かるなら、どうするのでしょうか?
中絶は殺人。でも死ぬことがわかっていても何もしないのも殺人と同じようなことだと思います。
何もせず二つの命が失われるのが、本当に仏の教えなんでしょうか?
中絶を単に殺人とし、罪に問われる殺人と同じように扱うのは、本当に正しいのでしょうか?
自分たちの住んでいる世界とは関係ないと思っているのでしょうか?
希なことでなく、当たり前のように起こっているからこそ記事にされていると思います。
投稿: やんじ | 2010年3月17日 (水) 20時45分
先日、父親のものではなく精子提供者から提供を受けた精子で受精し生まれた方の団体ができる(た?)と新聞に載っていました。
自分のルーツを知ったとき、多くの方が悩み苦しむようです。
望まれて生まれてきても苦しむ人もいれば、予定外の出生でも幸せを感じながら暮らす人もいる。
受精・出産の多様化や中絶の是非・・・難しいですね。
母親、父親、うまれてくる子ども、取り巻く関係者や環境、宗教的な考え方…どんな状況下でどの人の立場になって考えるかによって意見が分かれるのは当然のことかもしれません。
もし中絶を非とするならば、縁あって授かりこの世に生まれ出てきた命がそのルーツを知ったとき、自分をうまく受容できる世の中になるといいですよね。
まずやっぱり必要なのは"正しく知ること"だと思います。
家庭、学校ともの教育に期待します。
投稿: うさこ | 2010年3月17日 (水) 22時39分
鉄人さんは、傷つきやすい方なんですね。
議論の場かどうかはともかく、コメント欄は意見を書き込むためのものです。ご意見、誰も非難してないと思いますよ。世の中に実際に起きている個別の事情について、それぞれの立場から悩んでいる……ということだと思います。
鉄人さんのご意見のおかげで、河野さんの興味深いレスポンスの記事が読めました。第三者ながら、感謝しています。
言葉が足りず、誤解させてしまったようですね。
不幸の「可能性」について書いたつもりでした。
そんな意図はありませんでしたが、読み返してみると確かに、不幸になると決めつけたかのように読めますね。まるで呪いをかけたみたいで、感じが悪いです。ご気分を害されたのも、無理はないと思います。
こうした心と体の問題は、それぞれの事情で、そのとき最善と思われる判断を下すしかありません。それが間違っていた、ということも当然あります。結果にはいいことも、悪いことも同時に含まれていたりします。どんなに正しい真理でも、個別の事情に当てはめると、多くの人が苦しむこともある。その逆もあるでしょう。
どんな結果になろうとも、責任を負っていかなければいけない。普遍的な正解はありません。それが人生ですよね。
鉄人さんのコメントを読んで、アーヴィング『サイダーハウス・ルール』を思い出しました。ほんとうに、難しい問題ですよね。
投稿: maruo | 2010年3月19日 (金) 16時45分
はじめまして。
日記を読んで、涙が止まりません。
私は29歳で結婚を断られ、未婚でひとり産んでおり今娘は2歳です。
最近お付き合いしていた彼が居ました。私は二人目が欲しいと思っていました。
その彼との間に「子供が欲しい」と言っていて「産んでいいよ」と言ってくれていたのに、妊娠発覚後「結婚はできないけど里子に出して欲しい」「生まれなkれば幸も不幸も無い」と放棄した本人から言われ凄く苦しい思いをしました。
生まれない命と生まれた命の違いがわからなくて最初は産むつもりでしたが、周りは大反対。
もう結婚は難しいと思ったほうが良いといわれそこで考えが変わって行きました。
もう1人未婚で産もうと思った気持ちを改め、1人で二人を育てられないと思い、私と娘の未来のことを考え、堕胎をしてしまいました。
しかし、やはり産めばよかったと後悔してやみません。
この出来事には何か意味があったと思いたいのに、思えません。子供だましのように思えて・・
「天の法則で、いかなる理由があろうとも一方的に他者の命を奪う行為は認められません」
「どんな生命でも殺してはならない」「自分の子を殺すより辛い育児なんて無い」
そういう言葉がどんどん目に入ります。
なんで宿ってきてくれた命を私の手で・・今更そんな風に思ってしまいます。
どうして堕胎に踏み切ったのか、自分でもわかりません、とり憑かれたように病院へいっていました。
落ち着いていたのに、またぶり返して。
気持ちの整理ができず、ここにたどり着きました。
何か言葉があれば頂きたいです・・・
投稿: key | 2010年5月27日 (木) 23時37分
まず、私自身が婚外子であること、捨子である事、(俗に言うところの藁の上の養子です)差別を受けながら生きてきたこと。その中でも最も不愉快で私を深く傷つけたのは、「貴方のお母さんはなんであなたを妊娠したとき中絶しなかったのでしょう。そうしたらきっともっと幸せに生きていけたでしょうに」と言われた事です。
中絶に賛成する方たちには、そのようなことをしたり顔で婚外子にいう人が何人もいるのは事実です。
私は必ずしも中絶に絶対反対というわけではありませんが、中絶に賛成する人が、婚外子差別に反対している婚外子の母(しかも子供をつれて活動中でした)に対し、「中絶により婚外子の出生を回避できるのだから、反対運動をするのはおかしい」と言う事が正しいとは思いません。
時には中絶が人を救うときがあることは認めますが、一方で婚外子や障がい者を深く傷つけていることは認識していただきたいと思います。
こういった意見を婚外子や障がい者の理解能力の不足と片付けるのは止めてください。
お願いします。
投稿: 捨子A | 2010年11月28日 (日) 00時41分