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在外被爆者の支援を!

 11月8日日曜日、原爆資料館で「在外からも原爆症認定を-在外被爆者を支援する会-」が開かれました。私はどうしても抜けられない約束があったため、参加できませんでした。が、その後、外国から来られた方たちを囲んでの食事会に参加しました。

2009_11080020 真ん中がブラジル被爆者平和協会の森田隆会長、右が森田さんの付き添いで来られたお嬢さんの斎藤やす子さん、左が今年の谷本清平和賞を受賞した長崎の被爆二世の平野伸人さんです。

 森田さんは、この夏までの四ヶ月間、ピースボートに乗って世界中で平和を訴えて回られました。85歳という年齢、それにいつもご一緒だった奥様を7月に亡くされて、おつらい状況にあっても、それでも在ブラジルの被爆者の救援の活動を続けておられます。ブラジルと広島を行ったり来たりだけでも、大変な労力でしょう。数年前にお会いしたときのことをよく覚えていらっして、感激しました。

 平野さんは、高校教師の傍ら、高校生への平和教育と、在外被爆者の支援の活動、それに被爆二世の平和活動を続けてこられました。なんと、これまでに韓国に300回以上行っていると聞き、もうびっくり。半端な活動ではありません。それも一度も、どこにも観光をしていないのだそうです。釜山の観光旅行から帰ったばかりの私は、うつむいてしまいます。

2009_11080022 韓国からも韓国原爆被害者協会の方たちが沢山来られました。お一人お一人がご自分の被爆体験を話されました。それはもう、ひどい被爆の状況で、それを乗り越えて生き抜かれました。それでも、韓国に帰った後、ある方は「私は日本人でも朝鮮人でもありません。」といわれました。「両親が帰るというので一緒に帰るしかなかったけれど。帰ったら、日本語を話すと、いじめられる。韓国語は話せない。」と、そのつらい体験を話されました。

 小学校を卒業して高等小学校1年、2年、ずっと工場で働いた、全く勉強はしないで、卒業証書をいただいて、それからまた飛行機を作る工場で働いて。その工場で被爆。青崎小学校の講堂、教室一杯の被爆者、助けて、助けてとみんな言いながら死んで行った。毎日毎日運動場で遺体が焼かれた、と。その話しをしながら、何度も彼女は涙ぐんで絶句されました。祖国に帰って二年すると、また韓国は戦争に巻き込まれていきます。

 本当にあの惨めな戦争も原爆もけっして繰り返してはいけません、と言われました。そして、こんなにずっと日本が戦争に勝つように、と工場で働いてきたのに、在外の被爆者に対して、どうして日本は冷たいのか、とも。

 何人もの方がまだまだいろいろな体験を話されました。それから、被爆者医療の貧しさも。さらに、被爆者が次々と癌にかかってなくなっていっているということも。

 日本は、在外被爆者の救援を早くしなければなりません。ここの参加者の方たちは、今週の13日の金曜日、東京に行き、厚生労働省と国会議員に訴えられます。新しい政権が、どうぞ、この方たちの訴えにきちんと耳を傾け、早く対策を取るように。私たちもどう支援すればいいのか、考えなければ、と思いました。


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コメント

在外被爆者の方々のご様子に、胸が痛むと同時に、支援政策のより一層の充実が必要であると実感いたします。
小さい事で良いから、何か我々にも出来る事をさがし、実行に移していく事が大切でしょう。
狂気の戦争を起こした日本も、原爆を投下したアメリカも、双方ともに愚かの一言です。

投稿: けん | 2009年11月10日 (火) 09時54分

けんさま
在外の被爆者も、国内の被爆者と同じ保障をすべき、
被爆者はどこにいても被爆者と、裁判所も判決をしているのですが。国によって医療の状況も異なるし、なかなか難しいところかあるのは事実でしょう。でも、これまで、その事情はあってもできるだけの支援をしていくという国の姿勢がありませんでした。新政権になって、期待したいと思います。こうのみよこ

投稿: こうのみよこ | 2009年11月11日 (水) 08時04分

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